2012-02-07

書評『女嫌い』


● 上野千鶴子『女嫌い』(紀伊国屋書店)

 「デブ専のゲイ」の友人がいる。デブ専というのは、太った男性を好む嗜好を差す。その友人は美形でスタイルもいいのだが、「そんな自分がどうして肉のついたデブが好きなのか!」と、欲望の逆説に憤慨している(笑)。

 そういう背理は珍しくない。一般的な男性の欲望もまた矛盾を含んでいるからである。ミソジニー=女ぎらいこそが異性愛そのものの基盤であり、異性愛の男性は女ぎらいでありながら女性を性愛の対象としている。そして、女ぎらいによって成り立っているのが男たちの連帯であり、それを維持するためにもホモフォビア(同性愛嫌悪)が、強迫的に同性愛疑惑を点検させる。というのが、フェミニズム界隈で共通了解になりつつある性差別の図式だ。

 上野千鶴子氏の新刊『女ぎらい』は、そうしたホモソーシャルの理論を援用して、「皇室」から「婚活」「負け犬」「DV」「モテ」「少年愛」「自傷」「援交」「東電OL」「秋葉原事件」……まで、快刀乱麻を断って分析してみせる。読み応えはあるが、こうした理路に違和感を感じずにシンクロするには、上野氏やフェミニズムの世界像とリアリティを共有していなければならない。

 ある理論はある生をエンパワーメントする世界像を提供してくれる。しかし、ある角度から世界を記述する理論は、やはり一つの角度から世界を写し取った象にすぎない。ゆえに、女性差別や同性愛差別の痛みから紡がれたホモソーシャル理論は、どうしてもその起点に規定される。このなかでは、その「痛み」によって現実には人々が求めてやまない「エロス」そのものを否定せざるをえないし、「痛み」が相対的に軽減してくると、理論のリアリティは希薄化してしまう。

 これはその理論がだめだということではなく、理論というもの、もとい世界像というものの単数性の限界であると言ってもいい。一つの観点で包摂できるほど世界は単純ではないということだ。だから上野氏の理論は、人々が納得できる範囲と賞味期限においては妥当だと言えるし、そうでなくなったら、それはその役目を果たしたとも言える。実際、人々の性愛や関係を写し取る理論も、「差別」や「権力」を主要な視点とせず、例えば、「エロス」や「快」を出発点にすればまた異なる図式を描き出すことも可能だろう。

 理論や分析のもつ限界や根拠は、どうしてもその発話者の実存に寄る。そういう意味で、上野氏がほぼ同時期に上梓したエッセイ集『ひとりの午後に』は、彼女の実存を知る上で貴重な資料になっている。「芸は売ってもが身は売らぬ」を信条としてきた著者には珍しく、自身の生い立ちや心情を吐露する内容となっている。

「生前、わたしは彼女と、決して仲のよい親子とは言えなかった。(略)わたしは一途に「母のようになるまい」と思いつづけ、母は娘が自分の手の届かないところに行ってしまうことを恨んだ。愚痴の多い母の人生は、少しも幸せそうに見えず、かと言ってその生活から脱け出そうとはしない母を、わたしは憎んだ」

 こうした上野千鶴子氏の実存から構築されていった世界像は、80年代以降、多くの読者を獲得した。しかし一方で、それが女性のなかでもマジョリティになっていないのもまた事実である。そのことが何を意味するのか。歴史の評価はまだしばらくの歳月を必要とするのだろう。