2012-02-07
書評『うさぎとマツコの往復書簡』
● 中村うさぎ/マツコ・デラックス『うさぎとマツコの往復書簡』(毎日新聞社)
● マツコ・デラックス『世迷い言』(双葉社)
世間は空前の「オネエブーム」。昨年は女装コラムニストのマツコ・デラックスなどがブレークした。それにしても、どうして「オネエ」はこんなに求められるのだろうか。
日本には歌舞伎の女形という伝統芸能があったが、現在のような女装や女性的な態度物腰を商品性にするタレントの走りは、戦後にスターダムにのし上がった美輪明宏に遡る。以降、中性的な魅力で人気を博したピーター、「ホモ」を堂々と公言するおすぎとピーコ、オネエ言葉で再ブレイクした美川憲一などが大活躍。そして、二千年代に入ってからのテレビ界は、料理家でオネエとか、美容家でオネエとか……各分野に一人はオネエのタレント枠が設けられているかのような活況である。
視聴者や読者の側はそれをどのように受け止めたのか。初期の頃は美輪にしても「シスターボーイ」と半ば揶揄されているし、ゲイバーのママなどがテレビ出演する際のあつかわれ方も、間違いなく「キワモノ」だった。それが九十年代以降は「文化人」として認知されるようにもなり、美輪に至っては近年、その「霊能力」によって宗教的な尊敬まで得た。そうしたオネエ系タレントのメディア露出に対して、保守的な勢力からの批判があまりなかったのは、日本の社会やジェンダーを考える上で興味深い。
作家の中村うさぎとマツコ・デラックスの共著『うさぎとマツコの往復書簡』でもそうした問題が取り上げられている。「男に対しても女に対しても『あんたたち』という二人称を使って毒舌を吐けるのはオカマだけ。二人称を使う時点で、どちらにも属さない立場である事を自ら明言してるのも同然なのよね。そして、どちらにも属さないからこそ、どちらの陣営からも攻撃されなくて済む…」と中村はオネエたちの戦略を「差別を逆手に取ってる」と評する。マツコもそれに自覚的であり、「…笑われてなんぼなことも、治外法権であることもよく解っている。それを最大限利用し糧を得るしか生きる道がないことも」と応えている。
オネエたちは「まっとうな市民」として認知されるのと引き換えに、規格外ゆえの「毒舌」が許され、その自由さがまた大衆の人気を獲得し、受け入れられてきた。たぶん、彼らはたてまえに縛られた日本社会の「ガス抜き装置」の役割を果たしているのだろう。
そうした戦略は、差別的な価値観を一度受け入れた上でなされるものだから、反差別運動の視点からはかなりきわどい。が、オネエ系タレントたちの存在が「キワモノ」から「文化人」へと明らかに上昇してきた「実績」を考慮すると、それは差別を固定しているのではなく、むしろ軽減してきたと評価していい。
「…『笑い者』になるという形で積極的に他者と関わり、他者から確かな反応を獲得して、他者の集合体である『世界』に居場所を確保しようとした」と中村は分析する。逆に、社会の側から視ると、笑うことによって異邦人を受け入れることが可能になった、ということだろう。「笑い」という毒によって差別という毒を制すのは、日本社会において有効なやり方なのかもしれない。
絶好調のマツコ・デラックスは現在、エッセイ集『世迷いごと』もベストセラーにしている。自分のなかに解毒すべき何かがある人は、ぜひこちらもご一読を。