2012-02-07

書評『友だち幻想』


● 菅野仁『友だち幻想』(ちくまプライマリー新書)

 知人の若い女性が愚痴っていた。「友情って難しい! 恋愛だったらパターンが決まっていて、それに則してやっていけばなんとかなるのに、こと友だち関係となると、相手との距離感がなかなかつかめない」

 たしかに、恋愛というのは、どんなに当事者には困難に感じられても、よくよく観察してみると、いくつかの類型に分けられるゲームになっている。それに比べると友情は、これといった目的も、快楽も持たないままに、日常的に交わされるコミュニケーション。そして駆け引きでもある。もしかしたら、こちらのほうが、恋愛などよりよほど難易度の高い関係性かもしれない。

 菅野仁『友だち幻想』は、他人とつながることが「自然」ではなくなった時代の友情論である。著者は「一人でも生きていける社会だからこそ〈つながり〉が難しい」と問題提起をする。他者なしでも生きていけそうなのに、誰かを必要としている点において、私たちの分裂がある。人間には、社会的な利害などとは別に、他者によって「承認」されることや、交流そのものから喜びを汲み上げることが、不可欠な精神活動なのだ。

 けれど、地域社会の共同体性が解体してしまった現在では、かつてのようにムラ的な人間関係も当てにできず、背景も嗜好も異なる他者と付き合っていかなければならない。そうすると、無理やり相手に合わせることで心身が疲れてしまったり(同調圧力)、学校や会社で人間関係のストレスの捌け口を「いじめ」などで解消するといった事象も生じてしまう。そこで、著者が主張するのは、「同質性を前提とする共同体の作法から、自覚的に脱却しなければならない」ということ。換言すると、「『気の合わない人と一緒にいる作法』ということを真剣に考えなければならない」

 これは、人間はわかり合えるもの、だとか、努力すればみんなが一つになれる、といった幻想を捨てるべし、という意味でもある。まだかつてのように共同体が成立していた頃の感覚を引きずっている人たちには、ちょっとドライすぎて納得し難いかもしれないが、わかり合えるはずだという結論から出発してしまうと、互いに頑張りすぎて、それが結果として破局をもたらすことにもなりかねない。だとしたら、気が合わない場合は、少し距離を置いて付き合っていけばいい、というのが今日、人間関係を円滑にするための知恵なのだろう。

 こういうことは、もっと広い社会で考えても同じことが言える。例えば、相容れない宗教を信じている人同士が、絶対にわかり合えるという前提に立って関係していくとしたら、どちらかが自分の宗教を放棄するか、あるいは殺し合うことにもなりかねない。そういう悲惨な結末を招くよりは、無理に和合せず、仲が悪いもの同士がいかに共存していくのか、その方法を考えていくことに専心したほうが、実質が得られるはずだ。

 そして、具体的な処方箋が重要になってくる。本書のなかでは、言葉のマナーということが取り上げられている。例えば、「ムカツク」とか「うざい」といった表現は、「自分にとって少しでも異質だと感じたり、これは苦しい感じだなと思ったときに、すぐさま『おれは不快だ』と表現して、異質なものと折り合おうとする意欲を即座に遮断してしまう言葉」になる。だから、できれば相手に向かって使わないほうがいい。ルールの積み上げこそが肝要だ。

 こういう表現のレベルから丁寧に考えていかないかぎり、前提を共有しない関係を積み上げていくことはできない。そのヒントを本書は与えてくれるだろう。