2009-12-26
書評『「男らしさ」の快楽』
● 宮台真司ほか『「男らしさ」の快楽』(勁草書房)
八十年代のことであるが、フェミニズムの集会で、「男らしさって悪いところばかりではないと思うのですが……」と怖々発言したことがある。案の定、周囲の活動家から総スカンで、「あんな発言をするなんて、やっぱりあなたもしょせん男ね!」と一緒にいた知人にまで嫌われてしまった。そのように、フェミニズムやジェンダー方面では「男らしさ」というのは親の敵みたいなもので、それを肯定するのはイコ−ル「性差別者」というレッテルを張られかねなかった。
九十年代に入ると、女性学に触発された男性学も誕生し、「男らしさ」は男性自身をも抑圧するもので、そんな性役割りは脱ぎ去って「自分らしく」生きよう! という「脱鎧論」も喧伝された。ここでやっと男性にも性差別の加害者という面だけではなく、被害者の面にも光が当てられるようになり、少しだけ身の置き所が生じた。この辺りまでの議論については男性学を牽引してきた伊藤公雄氏の『ジェンダーの社会学』などでサーベイすることができるだろう。
そんな「男らしさ」をめぐっての言説に、新たな視点を導入する本が現れた。本書『「男らしさ」の快楽』は、そりゃ「男らしさ」には悪い面もあるだろうけど、それだけじゃないんじゃない? 再利用できるところだってあるんじゃない? という問題意識にそって、ポピュラー文化における男性性についてさまざまな論者が議論を展開している。分析手法としては社会学の古典的な「三次元アプローチ」が取られ、「自己=身体性」「集団=関係性」「社会=超越性」の三つの軸から「男らしさの快楽」が分析された。ここで取り上げられているテーマは、格闘技や、体育会や、ホストクラブや、風俗施設や、オーディオマニアや、鉄道ファンや、ロック音楽など……様々な分野に及ぶ。これまでのジェンダー論では「男らしさ」は女性を抑圧するマッチョ文化として一枚岩的に捉えられてきたが、その内実にメスが入れられ、「男らしさ」のなかにある多様性、複数性に目が配られている。
そこで明らかになってきたのは、男にもコミュニケーションや関係性のスキルが求められるべく集団の「空気」であり、男たちにとっても関係性そのものが悩みの対象となっている「今」であった。そしてそれぞれが感じる快楽が分散し、「自分のためにやっている」という自己準拠的なふるまいが顕著になってきている風潮にも言及されている。
そうした時代に対して本書の結論はこうである。「「男性」というジェンダー・カテゴリーに対して、本質的には執着」せず、「それを一方的に否定したり肯定したりするのではなく、むしろ「仮の支え」として利用しながら、徐々に時代や社会状況に適したものへとずらしていくことを」目指す。
男/女というのが文化であることは、これまでのジェンダー論が明らかにした知見だ。しかしどの文化にも「楽しい面」も「抑圧的な面」もある。それはつねに時代の変化とともに取捨選択、更新されてきたわけだが、女/男という文化もまた、時代状況にあわせてその内実が仕分けされるべきだということだ。当たり前のような結論だが、これまでなかっただけに非常に新鮮に読めた。こんな本を待っていた。
初出/現代性教育研究月報