2009-03-27
書評『セックス格差社会』
『世界の下半身経済が儲かる理由』で性と経済の問題を斬新に論じた著者であるが、今回は性と格差社会を数値から分析しようと挑んでいる。「もしかすると、近年の所得格差の拡大と恋愛経験の有無には、なんらかの因果関係があるのではないか?」
実際、著者の調査によると、「年収別にみた交際女性のいない独身男性の割合」では、年収が少ない男性ほど彼女がいないことが現れている。年収200万未満だと73.9%が彼女がおらず、年収が上がるごとに「彼女いない率」は減少していく。これは18〜34歳の独身男性のアンケート調査であるが、「年収別にみた性風俗に行ったことのない独身男性の割合」でも、「年収別にみた1月あたりのセックス回数がゼロの独身男性の割合」でも、年収が低くなればなるほど性愛も貧困になる。
誰かが言っていたように、結婚とは金と顔の交換である、というのは近年でも変わっていない傾向で、女性が(結婚を前提にした恋愛で)男性に経済的な裕福さを期待するかぎり、所得の少ない男性がモテない現実は否定できない。もし格差社会なるものが進行しているのだとすれば、それはそのまま性愛格差を助長しているはずだ。
しかしこの結論にはまだ考察する余地がある。まず、著者は近年若者のなかに恋愛経験がない人が増えていることに驚いているのだが、その前提自体が検討されるべきだ。そもそも恋愛が一般化してきたのは70年代以降で、日本ではそれまではお見合い結婚が主流だったことを考えると、ここ数十年の比較で言ったら、自由に性愛を享受している人の割合はまだ増加傾向にあるかもしれず、格差社会の進行と、自由恋愛の一般化のどちらに優位があるのかは、はっきりしない。
本書が性と経済についての興味深いデータ分析を提出していることは間違いない。が、結論が早急すぎるように思われるところも目につく。例えば、コンドームの国内出荷量が1990年から2006年の間に約半分まで縮小していることの理由に、セックスレス化や若年層が避妊をせず性行為をする傾向を挙げているが、これも単純には結論づけられない。
まず、もともとこの層がどの程度コンドームを使用していたのか。著者は性教育の授業が学校でなされなくなっている状況を、若者の避妊具の未使用の根拠の一つにするが、かつても学校教育における性教育はさして盛んではなかったし、その効果がそれほどあったとも思われない。とすれば、そのことがコンドームの出荷量を左右するほどの原因とも考えづらい。逆に、コンドームを使用する人数が変わらなくても、性行動をする人数自体が増加していれば、若年層が不用意なセックスをしている印象は与えられる。
こうした短絡は著者がセクシュアリティよりは経済を専門分野にしていることと、世代的な感性によるバイアスが大きいことによっているのだろう。数値的なデータの解釈は、著者のポジショナリティに深く関わっている。数字の説得力はその背景まで配慮しないと危ういものである。
斎藤環と酒井順子による『「性愛」格差論―萌えとモテの間で (中公新書ラクレ)』は、『セックス格差社会』とは反対のベクトルを示す内容で、性愛こそが経済格差を乗り越えていく可能性があるとしている。たしかに、昔から身分違いの恋の物語こそ人々を感動させ、階層の流動性を可能にしていたわけだ。しかし性愛の幻想性のなかにも階層的な要素が多いことを考えると、性愛は格差社会に対して諸刃の剣であることも事実だろう。