2007-08-07

小谷野敦『片思いの発見』

kataomoi.jpg● 小谷野敦『片思いの発見』(新潮社)

 小谷野敦はいつも、そこにある言説に己の実存を重ね合わせては、疎外感を募らせ、またそれを拠り所にして言葉を紡ぎ始める。

 かつては、「近代という時代が、あたかも誰もが『恋愛』をすべきだというイデオロギーを広め、ために恋愛の下手な人間を苦しめることになった、だから恋愛などしなくていいのだ」と主張し、「もてない男」を断固擁護した。

 そして今回は、フェミニズム理論や吉本隆明の「対幻想論」を、「基本的には合意の上で性愛関係を結んで男女について、そこに潜む抑圧性を説いたもの」だとし、そこには「『片思い』に関する考察が抜けていた」と指摘するところから、論を進める。文藝は片思いをすくい取ることができるのか、もしそうならば、文藝は反道徳的なものなのか、恋とはなんなのか、と。

 その問いに対して、小谷野は古今東西の文藝の知識を華麗に披歴しながら、恋と倫理と文学の矛盾をはらむ三角形の図を浮かび上がらせていく。

 例えば、文学作品と倫理との関係について。小谷野は「文学作品の内容を倫理で裁断してはならない」とするテーゼに対して、「文藝はどれほど倫理とは無縁に見えても何らかの倫理を含むものではないのか」と疑問を呈する。一方で、過去の文学作品にさえ激しい倫理的批判を加えるフェミニズムにも違和を表明する。「私は歴史相対主義には与しないが、光源氏や柏木の行為すら現代的基準で計るのは行き過ぎではないかと考える」。

 小谷野の議論はこうして蛇行しながら、流行の理論や、代表的な論者の矛盾をつき、最後に、先の三角形の難問を明かにする。人間という存在が、倫理にも欲望にも回収し切れないものだ、という現実と、割り切れなさに、私たちを再び連れ戻すのだ。

 その次の展開を望むのは欲張りなのかもしれない。ここではただ、その矛盾と正面から向き合おうとする小谷野の誠実さに共感するだけにとどめておこう。

*初出/福島新報(2001.10.27)