2008-12-12
勢古浩爾 『こういう男になりたい』
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● 勢古浩爾 『こういう男になりたい』(ちくま新書)
★★ こういうところからしかジェンダー論は更新されないのではないか
近ごろ男は分が悪い。若い男たちは女たちに相手にされないと、「性的弱者」を名乗るはめになる。歳を取れば威厳が身に付くどころか、若い世代から「オヤジ」と嘲笑される。
そうした状況において男が「男である」ということがどういう意味を持つのか、を追求したのが本書である。著者は、「メンズリブ」などの、「男らしさ」から「自分らしさ」「人間らしさ」へという考え方を支持しつつも、「男」である根拠をすべて放棄してしまうことを潔しとはしない。一方で、格闘技やヤクザへの憧憬に見られる「力」の獲得を男の理想型とする立場にも与しない。
著者は、フェミニズムの時代を通過した男として、あらたな「男らしさ」をつくりだすことを志向してやまないのだ。「わたしが獲得したいのは、他人を抑圧しない自律的な『男らしさ』である」。
なぜ著者は「男らしさ」といったものにこだわるのか。それは「男らしさ」が「他律的にして自律的な行動規範(倫理原則)を意味している」からである。それに対して、「自分らしさ」は「欲望の解放しか意味しない」とする。ここでは「男らしさ」は男の本質ではなく、目標として語られるのだ。そこが新しい。
けれども本書において、人がなぜに行動規範をジェンダーにおいて設定せざるをえないかという問いは、結局、著者の意気込み以上には深められていない。男は男でしかない、というトートロジーが少し物悲しくもある。その「男」へのこだわりに、著者の世代感覚が多分に反映されているのもたしかだろう。
しかし、我々が「自分」や「人間」といった曖昧模糊な切り口より、「男」「女」といったジェンダーを手掛かりするほうが、自己と、そして他者と了解を通じやすいというのは、いまのところの現実である。そういった実存を、思弁的になりがちなジェンダー論に繰り込もうとしたところに本書の大きな意義がある。
*初出/山形新聞(2000.7.3)ほか