2008-12-01
加藤秀一『“個”からはじめる生命論』
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● 加藤秀一『“個”からはじめる生命論 (NHKブックス)』
★★★★ 大筋共感なのだが、どこかに違和感が
「生命」という抽象的な概念で人間を一律にとらえる価値観は、果たして何をもたらしたのか。それは生の肯定というよりはむしろ、我々を生きられるべき生命とそうでない生命に分別し、その序列化を押し進めているのではないか、と著者は問う。
「生命倫理」なる知はまさに、具体的にどんな人が生きるべきなのか、死んだとされるべきかの線引きを行ってきた。その営みは、本書の議論に従えば、まさに近代になって「生命」という共通の尺度が導入されることで可能になった。
かつて著者は中絶をめぐる論争で、中絶批判論に対し、「妥当な線引きの原理を追求する」べきだという立ち位置で論陣を張った。そして問題の本質は胎児と女性の対立ではなく、女性と性差別社会の対立にあるという主張を展開した。しかしそれでもなお、胎児と女性とのあいだに横たわる矛盾を掘り下げないわけにはいかなかった。
本書においてその批判は、そうした利害対立の基盤となっている「生命」を至上価値とし、そこに介入する近代の知/権力のありようへ差し戻される。そして重篤な先天的障害者が、苦痛に満ちた生を損害として起こしたロングフル・ライフ訴訟などを手がかりに、人が「生きている」とはどういうことなのかを思索する。
結果、到達したのは、「生命」という抽象名詞からではなく、「〈誰か〉が生きているという事実」そのものに生の価値を見るべきだという視点だ。〈誰か〉とは、人々の関係のなかに見出される人称性のことである。それによって著者は、「倫理的配慮の対象」を最大限に広げようと目論む。
具体的には、それは脳死者による臓器提供を否定することにもなるし、中絶は胎児が〈誰か〉であるかどうかが両義的なので、周囲の利害調整のなかで決められるべきだとされる。ただし、障害があるという理由での中絶は、その〈誰〉性には関係がないので、特権化できないと釘を刺す。
さらに〈誰〉性が関係において生じるのなら、「倫理的配慮の対象」は人間のみならず、ペットや、将来的にはロボットをもふくみうると示唆する。
人々の暮らしのなかで、そして法において、これまでとは異なる可能性をどうのように具現できるのか、思想は現実に試される。この議論がいかに着床するのか見守りたい。
初出/時事通信