2008-11-25
上野千鶴子編『構築主義とは何か』
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● 上野千鶴子編『構築主義とは何か』(勁草書房)
★★★★ すべてのカテゴリーは構築されたもの、というところでこの議論は一周する。本当に難しいのはその先で、では何を持って価値があるとするのか、というスタートラインに戻る。
本格的な学術書であるにもかかわらず、『構築主義とは何か』は、SF小説を読んだときのような刺激的なビジョンを、脳に想起させてくれる。
現在、哲学や思想の先端では「世界が言葉で表現されているというよりも、言葉が世界を構成している」という了解があるとのこと。「私」というのは、自由な意志を持って世界と向かい合っているようなフリーハンドの存在ではなく、言葉を介してしか事物を認識したり、自ら存在したりすることができない「エイジェンシー」と呼ばれしもの。しかしどうしたわけか、その「エイジェンシー」は、言語の宇宙から言葉を選択する自由だけは与えられているらしい。
そして、本書の構築主義が闘っているのは、本質主義という巨悪。なぜなら、世界がそのように言語によって構築されているにもかかわらず、本質主義は言語以前に物の本質があるかのような虚妄を人々に植え付けるからである。例えば、「ホモセクシュアル」という言葉ができる前には、自らを「ホモセクシュアル」だと思う人は存在せず、ただ慣習的な行為があっただけだと、セクシュアリティとアイデンティティの結びつきを撃破する。
構築主義の戦士たちは、「病気」も「身体」も「女性」も「歴史」もすべて構築されたものとして、その実体としての特権を剥奪し、構築を策謀した「権力」に光線を照射する。
カテゴリーの無根拠と、その背後に作動するパワーの陰謀を暴いていった果てに何がビジョンされるのか。構築主義によって、あらゆるカテゴリーや同一性は破壊されるだろう。最後には「人類」というカテゴリーでさえ、そのカテゴリー化に伴う暴力や嘘が明らかにされることによって、さまざまな特権を他の生命体に明け渡さなければならない、といった結末になったりするのだろうか。
構築主義の理路の行方に、SF的な想像力は果てしなく広がっていく。
*初出/共同通信→静岡新聞(2001.3.25)ほか