2007-10-02

QJrインタビュー 田亀源五郎さん その2

gayero.jpgゲイ・
エロティック・
アーティストの誕生

伏見 大学卒業後はすぐフリーになったのではなく、いったん就職したんですか。
田亀 凸版印刷に入社して、デザイン部門に配属されました。会社でも最初からセクシュアリティをぶっちゃけていましたね。なにせ、就職活動中の面接のときにもう「ゲイでぇす」みたいな感じでしたし(笑)。
伏見 カミングアウトこそされてはいたものの、ノンケの友達が大半で、二丁目にもほとんど出入りされていなかった。あまりゲイコミュニティと接点がなかったのにもかかわらず、なぜ田亀さんはそれ以降も、ずっとゲイ・アートに関わってこられたんでしょうか。
田亀 就職した当初から、とりあえず会社という組織で修行を積んで、いずれフリーランスのデザイナーなりイラストレーターになろうと思っていたんです。これはまあ、そうした方面を目指す者には、ごくあたりまえのコースなんですが。修行したいという思いで就職したものの、マルチメディアの先端的なことを担当する部署に配属されてしまい、先端すぎたためにデザインの仕事もほとんどなくて開発業務ばかりやっていたんですよ。時間が余って退屈してしまったものだから、大学時代から描いていた作品などをゲイ雑誌に投稿しはじめたんです。最初はほんの小遣い稼ぎという気分で。その後会社を辞めてフリーのイラストレーターをはじめたころ、『バディ』が創刊されるという話を聞いて、好奇心もあって売り込みに行ってみまして。そこで出会った編集部のひとたちの、日本でも「ゲイ文化」というものを創りあげていきたい、といった言葉にすごく将来性を感じたんですね。それより前に仕事をもらっていた雑誌『さぶ』にはそういう部分がまったくなかったんで、飽き足らないものを感じていたところだったんです。それでわたしも本腰を入れようと、『バディ』に企画書を出したりするようになりまして。さらにそのあと、バディから離れた一部のスタッフが『G-men』をはじめて、そちらからもお声をかけていただきました。とにかく『G-men』には深く関わっておりまして、そもそもあの雑誌を企画した編集長の長谷川博史さんが、雑誌のタイトルを『源五郎』でいきたいと言ってくれたんです。で、わたしは「それだけはかんべんしてくれ」という感じで(笑)、「G」だけ残って『G-men』に。
伏見 あー、『G-men』のGはもともと、「源五郎」のGだったんですね!?
田亀 まあ、Gなら「GAY」というニュアンスも含みますし、なんだかいかにもガタイ系というか、マッチョな感じがするじゃないですか(笑)。そんなこんなで、『G-men』に落ちついたんです。平行して『バディ』の仕事もさせていただいたりと、順調にゲイ関連の作品を発表していけるようになりました。そのうち、あまりの忙しさに飛び込みのカットの仕事などを断らなければならなくなり、このままやっていくのはちょっと無理だな、という状態まできたところで、真剣に「わたしはどちらをやっていきたいのだろう?」と自問自答したんですね。そうしたら案外簡単に答えが出たんです。元々わたしのなかにはファインアート的な志向が強くありまして、自分にとって「余分なもの」がない表現、自己表現として最も純粋なものはなんだろうと突き詰めていったら、それはポルノグラフィだったんですね。それで思い切って、グラフィックデザインやカットのお仕事はちょっとお休みにして、ゲイ・アート一本に絞ったというわけです。
伏見 田亀さんほどの画力、才能があれば、ゲイやSMだけでなくもっとメジャーな世界でお仕事をすればいいのに、とつい思ってしまうんですけど。下世話な話になって恐縮ですが、ゲイメディアではそんなに儲からないんじゃありませんか?
田亀 おっしゃる通りで、ゲイアートに仕事を絞ったことで、モノクロカット1枚15万円の世界から、いきなりカット5千円の世界へ行ってしまいました。ですが、「この世界なら、自分は好きなものだけでやっていける」というお金では買えない状態が得られましたから。それまでのわたしは、いつも「自分の表現」を探していたんです。遠近法が確立する前の絵画にこだわったり、壁絵を描くのに夢中になった時期もあったりと、あれこれ試行錯誤を繰り返した末に「先達の写し絵でもなければ単なる憧れでもない、これこそが本当に自分のなかから湧き出てきたものだ」と思えた分野が、ポルノグラフィだったんです。
伏見 なるほど、田亀さんにとっては、ゲイ・アートこそがご自身の核である、と。
田亀 とはいえ、最近はゲイ雑誌自体がメディアとして成長したこともあって、わたしとしても意に沿わぬものを描かざるをえなくなった部分があります。わたしの考えるゲイ雑誌というのは、コアなものが寄り集まることである程度の量になるというものなんですが、最近のゲイ雑誌は、読者のニーズをある程度括った上でマスの需要にターゲットを絞り、コアな部分は切り捨てる傾向になりつつあって、わたしの考え方とズレてもきている。『G-men』や『バディ』といったゲイメディアでSMものなどをやっていくという点では、これまでと変わりありませんが、ゲイメディア以外の分野で活動する予定もあります。
伏見 ずいぶんと多くの作品を描いてこられたわけですが、やりつくしたといった感覚はありませんか?
田亀 多少あります。わたしもいちおうプロなので、仕事の注文と自分の趣味の重なる部分を出しているわけですが、これをやっていると要求されるものの方向性が決まってしまいますから、いままでゲイ雑誌でやってきたパターンについては一段落した感覚がありますね。たとえば、先日終了した『G-men』の連載『君よ知るや南の獄』は「純粋ポルノグラフィ」をどこまで追求できるか、というテーマだったんです。長編ならではの性描写にこだわり、とにかくセックスシーンを入れて、ダイアローグの代わりに性描写を用いて話を転がしていく、といった表現手法的な実験ですね。こうした手法は、やってみたいと思う題材が見つかったら、また挑戦するつもりです。
伏見 田亀さんにとって、「ゲイとして」の目線というものは、ご自身のなかではどういった位置づけなんでしょうか。
田亀 ゲイであることは、人間関係の中心にはならないものの、やはりアイデンティティの核ではあると思っています。わたしが絵を描くから、というのもありますが、他人の作品を鑑賞したときに、無意識的にせよ意識的にせよゲイという要素が必ず関わってくる。つまり、ゲイである以上、女性のヌードを描いた絵を見て、美術的な美しさはわかってもエロティシズムとしては観念でしか理解できない。逆に、ノンケさんにはピンとこないような男性ヌード作品などを見ると、絵としてのおもしろさと同時に、欲情としての「あ、この男素敵!」といった部分も湧き上がってきますから。わたしにとってゲイであるということは、自分が見たり感じたりすることとは切り離せない要素ですね。

SMは
タブーを侵す快楽
ではない?

伏見 田亀さんが著作に書かれた序文に「日本社会におけるセックスフォビア」という表現がありますが、これはどういう意味なんでしょう。
田亀 単純に、性表現を「たかがポルノ」と切り捨てることや、欲情すること自体を悪しきものとする風潮ですね。これはわたしのエロ作家という職業柄もあって、よりそうした感覚に接する機会が多いのかもしれませんけど。
伏見 セクシュアルなことは、世間から「蔑まれている」といった感覚なんでしょうか?
田亀 というよりむしろ、「区別されている感」でしょうか。たとえば、いわゆる大手と呼ばれる出版社の場合、エロには手を出さないし、出している会社はランクが下と思われてしまったり、もしくはエロ部門を切り離して別の会社の名義にしたりといった状況がありますよね。
伏見 ぼく自身はあまり、そういう感覚を覚えることはないんですが。
田亀 では、逆に伏見さんにお聞きしますけど、この社会は性に大らかだと思われますか?
伏見 アメリカなんかに比べると、ぜんぜんOKなんじゃないかと思いますよ。それどころか、「日本以上に大らかな国がほかにあるの?」という気さえしますが……。
田亀 アメリカに比べると、というのならわたしも同感ですし、確かに日本は一見性に寛容に見えるかもしれません。ただし、そうした日本の体質は、あくまでも「明文化されない大らかさ」なのではないでしょうか。性表現ひとつとっても、「ここがだめ!」ときっちり一線を引くのではなく、「いまの時期なら、まあこのあたりまでは大丈夫かな?」といったものでしょう。ですけど、その基底にあるのは「性器を描写してはいけない」という、明治時代から延々と続いている暗黙の規律なんですよ。時代の流れで単に曖昧になっているものを、果たして寛容と呼べるのだろうか。境界線に関して大らかなだけであって、根底にあるのは非常に儒教的な厳格さで、そうした体質はいまだに根強いんじゃないでしょうか。
伏見 一理あるお考えだとは思います。ただ、セックスフォビアとエロティシズムの境がいまひとつ見極められないんですね。エロティシズムは、タブーとして排除されたものをもう一度取り入れる構造で成り立っている。SMなんて、まさにその好例だと思います。そうすると、なにがセックスフォビアでなにがエロティシズムなのかがわからない。
田亀 わたしには「排除されるからこそエロティシズムが有効になる」という感覚がないんですね。なにせ、先ほど申し上げた通り、小学生のころから鈍感だったくらいですし(笑)。タブー意識に乏しいというか、社会通念自体がほとんど自分には影響をもたらしていないと思いますし、SMに付き物と言われる「後ろめたさ」も、どうでもいいんですよね。
伏見 え、では「やっちゃいけないことをあえてやる」からSMプレイに興奮するわけではないの?だとしたら、なにに興奮するんですか?!(笑)
田亀 単に「気持ちがいい」から。痛み自体も、わたしはけっこう好きですしね。
伏見 ではプレイをする者同士の関係性はどう考えたらいいのか……。
田亀 わたしが奴隷で相手が御主人さまというシチュエーションなどですか? 一般的にはそうした関係自体は、あってはならないとされているものでしょうけど、べつにそのタブー性に興奮しているわけではないですね。あくまでも、奴隷である自分に酔うだけ、といった感じです。純粋に「支配されるのが気持ちいい」となるわけですよ。まあ、一般的な話をすると、いまの社会にはいわゆる「身分」がない分逆転も起こりえず、必然的にあんまりエロは醸造されにくいとは思います。なにせ、SM的に言えば、封建社会なんてもれなくエロですしね(笑)。ただ、ファンタジーに関してはなんでもござれなわたしからすると、SMも「実際にやるひとじゃないとわかんねーだろうな」と思っています。我々ゲイが「なんで男が好きなの? あなた、男と寝ることのタブー性にドキドキしてるんでしょ!」と言われたら、「違うよ!」と返すじゃないですか。それといっしょだと思うんです。
伏見 ああ、その例えは非常にわかりやすいですね(笑)。
田亀 わたしの場合、ものすごいMの方がその嗜好を突き詰めていった状態なんかを見ると、純粋に「カッコいー!!」と思っちゃうんですよ。これもタブーを踏み越えているからどうのというより、わたしには到底できないことをこの方はやっている、という次元で。自分はフィストファックができないから、やれるひとはスゴいなぁ、と。最近いちばん夢中なのは、「バックエンジェル」というアメリカのポルノスターなんですけど、その方はFTMのトランスセクシュアルで、性器は女性のままでホルモン投与と乳房の除去はしていて、スキンヘッドで刺青だらけでプロレスラーみたいな鬚面なのにも関わらず、アソコはマンコなんですよ(笑)。ここまでファンタジーと自分を同一化できる強さは本当にすごいと思うし、文句なしに「おお!!」と感動してしまいますね。
伏見 ぼくはどうしてもバタイユ的な発想をしてしまうというか、エロティシズムと「死」はある種裏腹になっている、という感覚なんですね。それがぼく自身のセクシュアリティに、最も近いあり方という気がするんです。そんなにコアなSMは経験したことがありませんが、ぼくのなかの被虐性や加虐性に関しても、バタイユ的な発想が非常にあてはまるという実感がある。実際、自分自身の性的な興奮を「これはエロティシズムとして解釈すべきなのかセックスフォビアとして解釈すべきなのか、そのあたりの線引きはどうなんだろう」と自問自答することもありますし。
田亀 いまのお話に則して言えば、わたしにとってはバタイユなどの説は、「観念の所産」という印象があります。あれはあくまでも頭で考えた結果であって、ご本人のセクシュアルな欲望とはかなり隔たりがあるのではないかと。同じエロス/タナトスの構造で言うと、たとえば三島由紀夫の場合、彼はものすごくオチンチン主体のひとで、自分の内面に生まれたセクシュアリティをその頭のよさゆえに観念で分解していたような印象があるんですね。その「観念で分解してしまうこと」自体を、わたしは「セックスフォビア」ではないかと考えているんです。分解せずにそのまま受けとめてしまえばいい、生と死の境目だの、社会的な禁忌だのといったものとはいっさい切り離して。タブーであることは社会が規定することだから、それ自体は世の中を変えない限り変化しないわけですよ。なぜあえて世間一般のタブー意識に合わせて、分解再構成してエクスキューズを入れなくてはならないのか。SMにせよホモにせよ、セックスに関しては「好きなら好きでいいじゃない」というのが、わたしの基本的なスタンスです。
伏見 そのあたりがアーティストと、ぼくのようなチンピラ評論家(笑)の差なのかもしれませんね。ぼくは欲望というものは、かなり社会によって構成されると思っていますから。
田亀 以前社会学者の宮台真司さんのお話を伺ったときに感じたことなんですが、社会学という学問は、ものすごく社会、もしくは「世界」を基準にするじゃないですか。わたしのベースにあるのは「作家性」だからでしょうか、世界というのは個と個の集合体であるとしか、認識できない。
伏見 なるほどね、そこは確かにぼくとは世界観が違うのかもしれない。
田亀 ただ、わたしはなにも「絶対的な基準を個々のなかに置くべき!」と考えているわけではありません。たとえば、いわゆる古典作品は重要視すべきだと思っています。古典というのは時代の風雪に耐えてきたというだけで相応の価値があって、それを見て「つまらん!」と思った場合は、個々人の基準以前に、鑑賞者の教養不足を疑ったほうがいい。時代ごとに変化する多様な眼差しをくぐり抜けて残ったものを理解する感性は、持ち合わせていたほうがいいと思うんです。とはいえ、もちろん時代によって評価されたりされなかったりする作品のなかにも、瞠目に値するものはありますが。わたしがゲイ・エロティック・アートの原画の保存を強く訴えているのも、作品さえ残っていれば後世の目で評価されるようになるかもしれないから、ですしね。バイロンではありませんけど、ある朝目覚めたらいきなり有名人になっていたというケースもあるわけですから。

田亀源五郎と
ゲイリブの距離

伏見 田亀さんはアメリカや日本のL&Gパレードにも参加されていますが、そうしたゲイムーブメントとの関わりについては?
田亀 ゲイリブ的な活動に、かつてわたし自身も近づいたことはあります。80年代の後半に南定四郎さんがILGA(International Lesbian&Gay Association)の日本支部を立ち上げたときに、会報などを取ったりしていましたから。
伏見 あら、意外な経歴!(笑) 当時、ぼくもその周辺にはいました。
田亀 ただ、そこで見聞きしたものは、わたしが目指すベクトルとは違うなと感じたんですね。それならば、自分がゲイコミュニティや一般社会に対してできることとは、いったいなにか。そう突き詰めて考えた結果、「作品の発表」という答えが出たんです。わたしに限らず、ほかの方たちも根っこはいっしょで「自分が幸福になりたい」んだと思うんですよ。自分が置かれている環境をよくしたいという素朴な思いから、あるひとはリブ的な方向に邁進し、あるひとは好きなバーを経営したり、ハッテン場をつくろうとしたりする。そういったものが寄せ集まって形成されているのがゲイ社会だと思うんですね。そのなかでわたしがやりたかったのが、雑誌をおもしろくしたいとか、ゲイのエロ漫画を提供したいということだったんです。
伏見 田亀さんが既存のゲイリブに相容れないものをお感じになられたというのはどのあたりでしょう。日本のゲイアクティビズムにはどのような問題点があると思われますか?
田亀 わたし自身が、ひと昔前のゲイリブの文脈に近づきながらけっきょく遠ざかってしまった最大の理由は、運動が内包する攻撃性ですね。具体的に言うと、欧米のゲイリブを真似たのか、活動家の方たちは「仮想敵をつくる」傾向が強かったんです。彼らによって「これがゲイ差別だ!」とされるもののなかには、確かに差別と解釈できるものもあるけど、その一方で、単に日本社会特有の問題にすぎないものもあると思ったんですね。たとえば「男同士だと部屋が借りられないから、ゲイ差別だ!」という論法。これには業者の側にも言い分があって「夫婦でもなければ内縁関係でもない以上いつ別れて出ていくかも知れないし、男はガサツで乱暴だから部屋を汚されたり壊されたりされかねない。そんな連中に貸すのはリスクが高い」といった理由から不動産屋が敬遠する、これはこれで理解できます。こうした事柄を、残らず「ゲイ差別」で括ってしまうスタンスに、神経をチクッと刺されてしまうような違和感を覚えたんです。そうした反面、伏見さんのなさっているご活動については、ずっと「おもしろいな」と思っていました。ゲイリブの渦中にいながら、運動の問題点をも常に総括していらっしゃいましたから。
伏見 いえいえ、ぼくも活動の初期のころは、アメリカのゲイリブの影響をまともに受けたような発言もしています。ただ「ゲイ=セックス」という世間からの見方に対しては、「NO!」というのが当時のぼくのスタンスだったのですが、それはセックスが駄目なんじゃなくて、それだけで語られることへの反発でしたが。
田亀 そういえば、以前伏見さんがゲイセックスの手引書を翻訳して刊行されたときに、『さぶ』の編集部でその出版記念イベントの案内状を見せられて「こんなのがあるんだけど、行かない?」と言われたことがありました。じゃあ取材してきますから、ぜひ本誌にレポートを書かせてくださいと言ったら「いや、うちの雑誌はそういうのはいらないから。ただ見てきてくれればいいの」と。あれが当時のゲイメディアの普通の対応だったのかな。
伏見 あのイベントの目的は、HIV予防の啓発だったりしたんですけど、それでもゲイ雑誌はソッポを向いた、という。いったいどういう時代だったんだか(笑)。とにかく、「ゲイ=セックス」という世間の見方への反発もあって、ぼくの最初の著書の『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房)では、あえて戦略的にセックスそのものについては触れなかったんです。でも、それでは片手落ちだと思って、次に出したのが斎藤綾子さんとの共著である『快楽の技術』(学陽書房)でセックスについて徹底的に語った。おそらく、ゲイとしても男としても、あれだけ自分のセックスライフを語りまくった本は本邦初という気がするんですけど、今度は逆に真面目な方から反発が来る。もう、いったいどうすりゃいいのよ、って感じでしたね(笑)。
田亀 けっきょくみんな、印象論で語っているだけなんですよね。わたしのことをとやかく言うひともけっこういるんですが、そういう方に限って、わたしの作品をきちんと読んでいるわけではなかったりしますから。以前、編集部にお許しをもらって、登場人物の手足を切断する話を描いたんです。そうしたら、わたしが毎回作品のなかで手足を斬りまくっているような言い方をされるわけですよ。いままで描いてきた数千枚の漫画のなかで、手足を斬ったのなんてただの1回だけだというのに(笑)。まるで、それが田亀源五郎のスタンダードであるかのような物言いをされてしまう。
伏見 田亀さんもぼくも、虚構のイメージのなかで居心地の悪い思いをしているということですね(笑)。

ゲイを
濃く生きて来た
同志

伏見 ところで、ゲイが90年代以降世間に受け入れられてきて、それにつれて「ゲイネス」的なものが重みを失いつつあるように思うんです。実際に、昨今のゲイ・エロティック・アートを昔の作品と比べると、なんとなくゲイであるというこだわりが薄れてきている印象があるんですね。ゲイ・アートを手がける立場から見ると、そうした現象はどう見えますか。
田亀 80年代以降、「ゲイ・アートといえば、こんな感じ」というスタイルができ上がってしまったような印象はありますね。そうした風潮に反発してか、わたしはある時期、「ゲイ・テイスト」「ゲイ・アート」といった括り方にかなり否定的な感覚を抱いていたんです。あくまでも一部でしかないものを、あたかも全体のように語るスタンスが嫌だった。ところがその後、『バディ』などで斎藤靖紀くんが出てきましたよね。彼は、いままで「ゲイ・テイスト」の一言で括られていたものの一部を、「オカマ好きがする」という表現で、ポロッと言い換えたじゃないですか。あれには個人的に、ストーンと腑に落ちるものを感じて、以来彼の大ファンになってしまいました。
とにかく、多種多様なキャラクターがひしめき合っているゲイというカテゴリーを一言で括るようなスタンスに関しては、わたしは非常に批判的ですね。『日本のゲイ・エロティック・アート』シリーズにしても、あくまでも「個としてのホモ」にこだわり、それらの総体をまとめ上げたつもりです。
伏見 『日本のゲイ・エロティック・アート』のお仕事もそうですが、ぼく、田亀さんの過去の先達に対する敬意の深さには、心から共感します。ぼくもそういう意味で「ゲイの考古学」の仕事をして、いまでもご年配の方はなるべく持ち上げるようにしていますし(笑)。
田亀 海外の例ですが、たとえばトム・オブ・フィンランドの画集なども、序文を載せているのは、あの世界的な写真家のブルース・ウェーバーだったりするわけですよ。そうしたひとたちが、自分のルーツにあたるものをきちんとリスペクトしている。対象がポルノグラフィだろうとなんだろうとね。わたしは三島由紀夫を非常に大きな存在だと思っていますし、最近では文壇の一部にも、同性愛者としての三島を再評価する動きまで出てきています。そのこと自体は素晴らしいことだと思いますが、同時に、それだけ由紀夫のほうの三島を持ち上げるのなら、もう少し三島剛のことにも触れてくれてもいいんじゃないか、と思わずにはいられません。三島剛の画集が第二書房から刊行されたときに、高橋睦郎さんが序文を寄せていたんですけど、その文脈も「トム・オブ・フィンランドの絵がポルノであるならば、三島剛はポルノではない」といった趣旨で、エロティシズムを否定することによって三島作品を持ち上げようとするものでした。この点はとても残念に思いましたね。亡くなられた長谷川サダオさんを、やれ素晴らしい作家だ、オーストラリアでも紹介されたなどと賞賛する昨今のゲイメディアの視線にも、同じものを感じるんですよ。長谷川さんを評価するなら、なぜご存命のうちからそういう形で取り上げなかったんですか?と。この国の多くのゲイは、ゲイの先達に対してきちんとリスペクトしてこなかった。これは非常に大きな損失だと思います。
伏見 それは本当に言えていますね。最近はそうでもなくなってきたとはいえ、やはりゲイリブ陣営はリブ的な先達しか見ようとしない傾向があるし、ポルノグラフィティを含めたゲイのポップカルチャー的な領域でも、同様の現象が見られますから。
田亀 消費する側も、もう少し意識的になってもいいような気がするんですよね。我々が比較的自由に日々楽しくセックスできるようになった源泉のひとつに、リブという文脈もあった。逆に、素朴に楽しいセックスライフを送りたいという願望から生まれたハッテン場などのシステムが、リブ側に還元されている部分もある。二項対立で捉える必要はなくて、全部おたがいさまだと思うんです。
伏見 そのお考えは、とても素晴らしいと思います。
田亀 ですから、わたしは基本的に、ゲイとして生きたいんだったら、まずセクシュアルマイノリティとしての自分の幸せを自力で追求するのがいちばんだ、と思っています。で、ヒトのことはほっといてくださいな、って感じかしらね(笑)。
伏見 いや、実は対談に入る前は、田亀さんとぼくは好対照の極致で、ほとんど異種格闘技戦のような様相を呈するんじゃないかと予想していたのですが、実際に話してみると共通点も山ほどありますね。
田亀 まるで「生き別れの姉妹」か『悪徳の栄え』か(笑)。
伏見 これだけゲイとして「濃く」生きてこられたことに、ある種の同志的な感慨を抱かずにはいられません。本日は興味深いお話を、ありがとうございました!