2007-10-01
QJrインタビュー 田亀源五郎さん その1
田亀源五郎×伏見憲明
初出/「クィア・ジャパン・リターンズ」vol.2(2006/ポット出版)
生き別れの姉妹か、
『悪徳の栄え』か!?
ゲイであることにこだわって同時代を濃く走り抜けてきた二人が
初めて語り合ったアート、コミュニティ、過去、現在……。
対話の中から、対照的ながら共有するものが多いことが浮き彫りになっていく。
日本におけるゲイネスとはいったい何か? ゲイにとっての表現とは何か?
● 田亀源五郎
たがめ・げんごろう ゲイ・エロティック・アーティスト。1964年生まれ。多摩美術大学卒業後、アート・ディレクターをしつつ、86年よりゲイ雑誌にマンガ、イラストレーション、小説等を発表。94年から専業作家となり、ゲイ雑誌『G-men』(古川書房)の企画・創刊にも協力。著書に、『嬲り者』(Bプロダクト)、『柔術教師』(Bプロダクト)、『獲物』(ジープロジェクト)、『銀の華(上・中・下巻)』(ジープロジェクト)、『PRIDE(上・中・下巻)』(古川書房)、『田亀源五郎短編集 天守に棲む鬼/軍次』(古川書房、全てマンガ作品)、『日本のゲイ・エロティック・アートvol.1 ゲイ雑誌創生期の作家たち』『日本のゲイ・エロティック・アートvol.2 ゲイのファンタジーの時代的変遷』(ポット出版)がある。 http://www.tagame.org/
「ゲイ・
エロティック・
アート」とは何か
伏見 おたがいゲイ業界はかなり古いほうなんですけど、田亀さんとオフィシャルにお話しするのは、今回がはじめてなんですよね。とくに仲が悪いということもなかったのだけど(笑)、考えてみたら不思議です。どうぞよろしくお願いします。
田亀 こちらこそよろしくお願いします。なにせ、出不精なもので二丁目にもめったに飲みに行かないものですから、忘年会以外でほかのゲイの方に会うことなんて、ほとんどないんですよ。
伏見 田亀さんとぼくは学年がいっしょで、よくもまあここまで好対照なふたりが同年代のゲイとして育ったものだと(笑)。そうそう、前々からお訊きしたかったんですけど、もうすぐvol.2が刊行される『日本のゲイ・エロティック・アート』(ポット出版)ですが、なぜ「ゲイ・エロティック〜」というタイトルをつけられたんですか? 「ホモ・エロティック〜」ではなく。
田亀 一種の戦略ですね。わたしはべつに「ホモ〜」でもいいんです。自分のなかで「ゲイ」と「ホモ」は俗語としては同一の存在で、さほど厳密に分かれてはいないので。ただ、「かつてホモと呼ばれていたひとびとが自分たちを示す名称として選んだのが『ゲイ』とするなら、当人が望むと望まないに関わらず、ホモセクシュアル全体を定義しなければならない」と思うんです。わたしはこうだからゲイであってホモではない、またはその逆、というのは矛盾な気がして。そうしたことも踏まえた上で、現代社会においてゲイ的にもノンケ的にもベクトルが偏らずに「同性愛」を表現できる言葉が「ゲイ」なのではないかと、この名称を選びました。
伏見 ぼくも90年代にゲイと言い換えることにこだわった時期がありましたけど、いまはもうそうしたこだわり自体に意味がないと思っています。ただ、個人的な感覚だと、「ゲイ」はライフスタイルや社会制度に結びつくような形での同性愛、つまりある種イデオロギー的な用語ですよね。「ホモ」はあまりそうしたこととは関係のない「欲望」を表す言葉というニュアンスがあると思っていて、そういう観点からすると、この本は「ホモ・エロティック〜」としたほうが適切な気がしたんですが。
田亀 そういう意見も当然あるでしょうね。アートに関心のある年配の知人のなかには、「ホモ・エロティック〜」という表現に強いこだわりを持つ方もいますから。とはいうものの、『日本のゲイ・エロティック・アートvol.1』に収録した描き手のみなさんは、自分のゲイネスにはあまり自覚的ではないんですよ。個人の欲望に従って絵を描いているという意味では伏見さんのおっしゃる通りなんですけど、わたし自身は、ゲイ雑誌に投稿するといった行為自体が、既にゲイ社会への参加であると捉えているんですね。新宿二丁目のような空間は、わたしには「ゲイ社交界」という気がするんです。昼間がないというか、お酒を飲む語らいの場という感じで、あくまでも目的がすごくはっきりしている。地域的にも、参加できるひととできないひとがはっきり分かれていますよね。そんな状況で、日本全国に点在する名もなき多くのゲイが、最もたやすくコミュニティに参加する方法が、雑誌への投稿だったんじゃないかと。本人の自覚の有無以前に、そのように投稿を介して集まってきたひとびとが、その結果としてゲイバーを開いたり、場合によっては新しい雑誌を生み出したりしているわけで、ある意味ゲイコミュニティの礎的なものになっていると思うんです。そうした意味合いを込めて、あえて「ゲイ〜」という表現を選びました。
伏見 とても興味深いお話ですね。ぼくは80年代後半からゲイリブ的な活動に関わりだして、自分自身が若かったことや、さまざまな政治状況があったことなどから、どうしても先行世代に対して「それは違うんだ」という飛び出し方をせざるをえなかった。必然的に、ゲイを単なる「嗜好」としての枠にとどめようとする人たちに対して否定的なスタンスからスタートを切ったのですが、活動していくうちにしだいに時代的な条件なども変化して、選択肢の幅ができたんですね。それで、同性愛を「欲望の自己実現」として近代の同性愛の流れを捉え直そうとしたのが、「ゲイの考古学」(『ゲイという[経験]増補版』収録、ポット出版)という仕事でした。実際、ゲイ雑誌に投稿したりゲイ向けのお店を開いたりハッテン場に集うことも含めて、けっきょく欲望を実現していこうとする流れの延長線上にしか、セクシュアルマイノリティのネットワークが構築されることはなかった。嗜好と指向を区別することに意味がないというスタンスで、「ゲイの考古学」を書いたんです。ですから、いまのお話には非常に共感できます。
田亀 表現へのこだわりという文脈で、ひとつ触れておきたいことがあります。「アート」という概念が、日本語ではかなり歪んでしまっているという実感がわたしにはあるんですね。妙な権威がつきまとっていると言いますか。アートとは本来、単なる「技術」といった意味なんです。ですから、本のタイトルにこの表現を使うことに、抵抗がないわけではありませんでした。モダンアートのなかにはコンセプチュアルアートいう考え方があって、手段や目的をアートと定義しているんですが、わたしはそれには否定的で、「アートとは結果でしかない」と思っています。本人がアーティストと思っていようがアルチザンと思っていようが、結果としての作品のアート性にはまったく関係がない。出来上がった作品は、鑑賞者の印象によってアートになったり、あるいはただの挿絵というイラストレーションになったり、もしくはコマーシャルアートというレベルにとどまったりと、多種多様に変化する。そういう意味では、絶対率としてのアートなど存在しない、ひとりひとりの主観のなかにしかアートは存在しえないというのが、わたしの持論です。作者の意図と、でき上がった作品のもたらす役割との間には、わたし自身が作家でもあることから、完全に線を引いているんです。この持論を踏まえた上で言うと、『日本のゲイ・エロティック・アート』に収めた作品の描き手についても、背負った時代や社会背景も多種多様なら、性自認に関しても「わたしはバイなんだ」「自分はゲイじゃない」「いや、男色家だ」などと、さまざまなものがあったと思うんです。ただ、残った作品そのものを現在の視点で見ると、「ゲイ・アート」と言わざるを得ないのではないかと判断し、あえてこの表現を選びました。
伏見 その「アート」という定義ですが、こうした作品は元々ポルノグラフィとされてきたわけですよね。べつにアートとしての作品的な評価があったわけではない。それをあえてアートという定義で世に出されたのは、いったいなぜなのでしょうか。
田亀 これは、完全にわたしのポリシーによります。たとえば、10年くらい前に「パラレルビジョン展」という催しが行われまして、そこで「アウトサイダーアート」という表現で紹介された一群の作品があるんです。ようするに精神病理学的な「患者」の描いた作品や、それに類する作品を「アウトサイダーアート」と表記したんですね。その催しに集められた作品は、「作者が表現したいと思ったもの以外、なにもない」という意味で、これぞ根源のアートだと言われました。作品を他人に見せて評価されたいといった願望や、商業的な成功を狙った欲望とも無縁に、ただ作品のみがそこに存在しているという意味で、アウトサイダーアートは「根源のアート」たり得たのでしょう。とはいえ、これはべつに「純粋だから素晴らしい!」と主張しているのではありません。妙に美化して語られがちな「芸術」も、現実にはアートで食っていくためには商業的システムに載せなければならないし、大昔から多くのアーティストは、パトロンの支えがあってこそ作品に取り組むことができた。そういう意味では、アートとは根っから商業的なものなのですしね。
伏見 なるほど、夾雑物の入り込む余地のない表現という意味で、「アート」と。
田亀 ええ、作者のファンタジーのみを母体として生まれた作品、欲望を突き詰めれば突き詰めるほど濃く、そしてユニークになっていく。そういう意味では、『ゲイ・エロティック〜』に収めた作品群ほど「アーティスティック」な表現もないかもしれません。これぞ、邪念の入りこむ余地のない純粋な「アート」だと、わたしは思っています。
伏見 ぼくの場合は、若いころからアートという分野にはさほど関心がなかったのですが、田亀さんは最初にゲイ雑誌で男性の裸体画を見たとき、アートとしての感銘を受けられたのですか?
田亀 いや、そこまで深くは考えていませんでしたね。単純に、好きでたまらなかった。アートうんぬん以前に、やはりポルノグラフィ的に好きというのがあるんですが、同時に絵として「きれいだな……」という素朴な感銘も受けました。三島剛さんの毛筆の作品などを見たときは、大変な衝撃を覚えましたしね。三島さんの場合はどこか日曜画家的なところもあるんですけど、わたしが大学生くらいになると長谷川サダオさんや竹内譲二さんなどが台頭してきて、ゲイものの作品はテクニック的にもコマーシャルアート的にもかなり洗練されていきました。わたしは美大でデザイン科を専攻していたんですが、将来ディレクターとしてひとり立ちしたら、こういう方たちにお仕事を頼みたいと思いましたしね。
伏見 たとえば海外には、トム・オブ・フィンランドなどのゲイ・アーティストと言える画家がいるわけですが、「日本の」ゲイ・エロティック・アートには、他の国々に比較して特徴的なものはありますか。
田亀 「これぞ!」と言えるほどのものは、おそらくないですね。というのも日本の近代美術は、実質的には明治期にいったん断絶していまして、以降の日本美術はヨーロッパ美術の流れに組み込まれているんです。端的に言うと、現代の美術界には恣意的に浮世絵の技法を取り込んだ作家はいても、浮世絵がそのまま発達して現在に至ったというジャンルは、残念ながら存在しません。その点が、スムーズにルーツを辿れる欧米の美術界とは大きく異なる点ですね。ですから、アート的な文脈から捉えると、日本のゲイ・エロティック作品にも、この国ならではの独立性はあまり見て取れないと思います。
伏見 田亀さんから見た日本のゲイ・アートの始原は、どのあたりになるんでしょうか。
田亀 わたし個人の体験からすると、1960年に創刊された『風俗奇譚』あたりですね。これは同性愛に限らず、SMなどの当時「異常性愛」とされたマニアックな性愛ジャンルの、総合誌的な媒体です。それ以前にも、『風俗奇譚』の前身にあたる『奇譚クラブ』という雑誌がありますし、52年に『アドニス』も出ています。『日本のゲイ・エロティック・アートVol.1』に所収した船山三四さんは、『風俗奇譚』のころから描かれています。それ以外の方はちょっと、タッチなどで「これはあのひとかな?」と思うものはあるのですが、基本的には詠み人知らずならぬ「描き人知らず」な状態ですね。わたしが『風俗奇譚』に重きを置いているのは、描き人知らずの状態で、個人の趣味で激情に駆られて描いていたひとたちが「はじめて得た、作品を発表する場」だからかもしれません。
伏見 日本のゲイ・エロティックアーティストのなかで、田亀さんが「これだ!」と思われる作家はどなたでしょう。
田亀 代表作家とするなら、やっぱり船山さんでしょうか。先ほど言った「余分なもののない純粋さ」ゆえの力強さを、彼の作品には強く感じます。それと、船山作品のタブーのなさが好きですね。自分自身にブレーキをかけていないところ、といった感じが。
伏見 三島剛さんというのは、あの三島由紀夫にも覚えがめでたかったとかで、旧『クィア・ジャパン』に所収した三島の匿名原稿の「愛の処刑」の挿絵を描いた人ですが、彼の位置づけは?
田亀 大きな存在ですよね。ただ、三島さんは船山さんよりも職人的な側面が強いと思います。三島さんは本業が人形の絵師だったこともあって、同じものを量産することに違和感がなかったようで、二度、三度という使いまわしも見られますしね。全体像としては非常に惹かれるものを感じるんですが、作家性としては、船山三四のような一点一点にただならぬ力の迸りが感じられる作家とはちょっと違って、仕事で流しているような部分も見て取れます。ファインアート的には、微妙な部分もなくはないといったところです。
田亀源五郎の
意外な過去!?
伏見 では、このへんで田亀さんご自身のお話をうかがいたいと思います。田亀さんは、ご自分のセクシュアリティに気づかれたのはいつごろのことなのでしょうか。
田亀 いまから考えると、小学校の低学年のころからテレビで『十戒』や『ベン・ハー』といった裸の男がいじめられる映画を観ては、キャーー!と喜んでいたりしましたね。親はそれを見て「ああ、歴史に興味がある子なんだな」とか無邪気に感心していましたが(笑)。あと、男優さんに対する興味も半端ではありませんでしたね。小学校高学年のころにはとにかくアラン・ドロンが好きで、自分のお小遣いで写真集を買って小学校に持ち込んで「アラン・ドロンは美しいんだ!」とクラスメートに力説していたんですよ。で、ついたあだ名が「オカマ」。でもわたし、生来鈍感なのか、まったく傷つかずに「オカマってなぁに?」と聞き返したりしていました。生徒の顔写真とあだ名の入った卒業文集の表紙には、わたしの場合は写真の下に「オカマ」と刻印されています(笑)。
伏見 あのォー、田亀さん、そんなこと言っちゃって商売的にいいんですかァー、「田亀源五郎はその昔、『オカマ』と呼ばれていた!」なんて(笑)。
田亀 全然いいんです、マッチョなイメージ、というか幻想を引きずるのは、わたしはもう嫌です、疲れました(笑)。
伏見 ぼくも子供のころは男の子っぽくなくて、「中性」なんてあだ名で呼ばれていたんですけど、田亀さんも女の子っぽかったんですか?
田亀 近所の女の子たちを引き連れて、「お料理教室」を主宰したりしていました(笑)。木の根っこを刻んで、缶で煮てみたりとか。それを見たうちの親が「危険だから」という名目でお料理教室禁止令を出したんですが、あとから考えてみると、あれは絶対近所の目を意識した行動だったんだろうな、と(笑)。
伏見 ぼくの場合は小学校の高学年くらいから、男の子に胸キュンな感じがありましたね。「やりたい」より、まず恋愛モード。初恋はいつごろでした?
田亀 恋をしたと言えるのは、中学校の1、2年のころでしょうか。同級生の男子にときめいていたりしましたから。でも、あまり恋だという自覚はありませんでしたね。
伏見 卒業文集に「オカマ」と書かれたにのも関わらず(笑)。
田亀 ややこしいことにわたし、13歳の当時、ゲイ雑誌よりも先にマルキ・ド・サドを読んでショックを受けてしまった、という原体験がありまして。同性愛以前に、「SM」という刷り込みがまずあったんですね。それで、その密かに思いを寄せているクラスメートを主人公にした漫画を描いたりしたんですよ。SMが入っているものだから、その子が敵にとっ捕まって、裸にされて拷問されるといったハードコアな漫画を。そのモデルにした本人にも見せて、クラス中にまわされて評判になっていました(笑)。
伏見 な、なんだか漫画家としての田亀源五郎の原点がほの見えるようなエピソードですね……。
田亀 ゲイ雑誌を発見してオナニーを覚えたのは、その後のことです。さらに高校に入ってから、これまたクラスメートに惚れてしまいまして。当時は電車通学だったんですけど、朝、行きがけにその子と同じ車両に乗り合わせると、一日中幸せな気持ちが継続していましたね。そんなことを繰り返しているうちに「ひょっとしてわたしは『ホモ』ってやつなのかな?」という自覚が出てきまして。高校時代にはそれなりに悩んで、ゲイ関係の本を読みまくったりしたものです。デズモンド・モリスの『裸の猿』のなかに「生物学的に、同性愛という現象は起こりうる」といった記述を見つけて、「ああ、偉いひともこう言ってるんだから、そんなにとんでもない現象でもないんだな」と安心したり。それから『遊』や『ムルム』といった雑誌からもその手の情報を見つけて、貪り読みましたね。
伏見 同性愛よりもSM的な嗜好のほうを先に自覚的した、という点は、三島由紀夫あたりとも共通していますね。
田亀 なにせいまだに、SMが出てこないゲイ小説を読むよりも、ノンケの男マゾの小説のほうが興奮したりしますし。おかげで、事態がかなりややこしくなってしまったといいますか。わたしにとってゲイとSMは必ずワンセットで、作品にはたいてい両方の要素を配置するんですね。わたしの漫画の主人公はノンケが多いんですが、これはSMという文脈のなかでは、ホモが男にやられるよりもノンケが男にやられるほうが、より深い屈辱だからです。こんな作品ばかりを描いているので、「ノンケ好き」と思われがちなんですが、現実のわたしはノンケ嫌いでして(笑)。実を言うと、「野郎好き」というわけでもなかったりします。「野郎好きのファンタジーと自己を同一化させたいあまり、自分自身が体育系であろうとする」といった美学には、かなり批判的ですしね。こうした感覚が捻じ曲がって、野郎くせえ男をあえて破壊することにエロティシズムを感じるようになったのかもしれません。
伏見 なんでも田亀さんは若い時分に、映画『クルージング』『メーキング・ラブ』などの影響を受けられたとか。同じ世代を感じました。でも『クルージング』は田亀さんらしくもあるけど、『メーキング・ラブ』になぜ!?みたいな(笑)。偏見ですが。
田亀 特に『メーキング・ラブ』には感銘を受けましたね。海の向こうの話とは言え、リアルな男同士の恋愛の話や、ゲイだと自覚した上で偏見に反論する、といった場面をスクリーンのなかに観たというのは、大変な衝撃でした。ゲイが自分を肯定的に捉えていくプロセスをこの目に焼きつけたのは、たぶんあれが初めての体験だと思います。
伏見 『クルージング』については、ゲイコミュニティ的には非難しなければいけないという意見が大勢のようですが、ぼく、あの映画で「ヌイて」たりもしたんで、どちらかというと感謝しなければならないような気もします(笑)。
田亀 そうした映画の影響もあったのか、高校以降は「ゲイであること」に極めて自覚的でしたね。三年間片思いしていた相手に振られる、という一種の転機もありましたし。大学に行くと環境が一変するわけですから、いまが最後のチャンスと思って、高校卒業と同時に好きだった子に告白して、みごと玉砕したんです。それでかえってさっぱりしてしまい、なぜあんなに悩んでいたんだろうと自分を振り返ってみまして。けっきょく、わたしが恐れていたのは「告白することで相手に自分がゲイだと知られて、それまで築いてきた友人関係が壊れること」だったんですね。その結論を得たことで、一気に吹っ切れてしまいました。以降はほとんど怖いものなしでしたね。なにせ最初からゲイだと表明しておけば、関係が壊れるもなにもないわけですから。ゲイ嫌いの人間も、わざわざ近づいてくるはずもありませんしね。だから、大学に入学した当時から、自己紹介のさいに「わたしはゲイです」とカミングアウトするようになったんです。
伏見 なんかある意味、恐ろしいほどぼくと似ていますね……。影響を受けた映画のことなどもありますが、ぼくも大学1年でカミングアウトをしはじめましたから。最初から言っておけば問題ないだろう、と。
田亀 たぶん、わたしに絵を描くという表現手段がなかったら、伏見さんのように学究方面へ行っていたかもしれません。わたしの場合、セクシュアリティ以外にも、小学生のころに転校などを機にいじめられっこになった時期があるんですね。上履きを隠されたり、といった。そうしたなか、「自分はどうやら、ほかのひととは違うらしい」と感じるようになった。世界と自分の間に、見えないんだけど触れられる薄い膜がある。その膜を破る手段が、絵を描くことだったんです。転校先でいじめられたときも、小学生ですから、チャチャッと先生の似顔絵や漫画なんかを描いたりすることでスターになれましたしね。わたしにとって、思うようにコミュニケートすることのできないこの世界に対して、唯一接続する手段が「絵」だった。そうした幼児体験がベースになっているせいか、ゲイであることに自覚的になった大学以降の作品は、セクシュアルマイノリティとしての自意識が濃厚ににじみ出ているものが多いですね。大学の課題なんか、ものすごくゲイゲイしいんですよ。「自分」を出さなきゃいけない、という強迫的な衝動があったような気がします。
伏見 そういえば、ぼくも大学時代にカミングアウトしてからは「もっと強く激しく、ゲイである」ことの強迫観念に取り憑かれていましたね。相手かまわず、やたらとカミングアウトしていましたし。楽しかったというか、それで特権を得た気分になっていたというか。安直になんでもゲイのせいにできた。
田亀 わたしも、わざわざ教室で『ムルム』を読んだりしていました。よく考えたら、そんなことをする必要性はまったくないのに(笑)。
伏見 80年代の当時、大学でオープンにしているゲイなんて、逆に二丁目なんかではすごく浮いていたと思うんですが、田亀さんの場合、ほかのゲイとの関係はどうだったんですか?
田亀 わたしはお酒が飲めないので、二丁目にはほとんど出入りしていなくて。大学3年のときに、クローゼットな友人が「実は自分もそうなんだ」とカミングアウトしてくれまして、それがはじめてできたゲイの友達ということになりますね。彼に「あんたダメよ、二丁目くらい行かなきゃ!」と焚きつけられて、『薔薇族』の編集長の伊藤文学さんが経営されていた「祭」に送りだされたんです。地図を手に覚悟を決めて店の前まで行ってみたら、「『祭』は何年の歴史を閉じました」という札がドアにかかっていて、思い切り出鼻をくじかれてしまったという一幕があります(笑)。
伏見 二丁目は田亀さんのほうがぼくより後発なんですね。
田亀 後発もなにも、わたしはいまだにあの街にデビューしていない気がします(笑)。恋人やセックス・パートナーを探すための手段も、もっぱら雑誌の文通欄を活用していましたし。というのも、わたしの性的嗜好はSMなんですが、SMは射精さえすればいいというものではないから、ハッテン場はいまひとつおもしろくないんですよ。その点、SMの相手を見つけるには、おたがいのしたいことがはっきりわかる文通欄は、非常に便利なツールでした。そのせいかどうか、文通欄ユーザーにはSM好きが多かった気がします。わたしにとって文通欄は、基本的に相性のいいプレイのパートナーを見つけるのが主目的で、そこを軸に人間関係を積極的に広めようとしたりはしませんでしたね。
伏見 では、大学時代のお友達は?
田亀 ええ、ノンケの友達が大半です。彼らはわたしがカミングアウトした上で親しくなれた間柄ですから、絆はそれなりに強いと思います。セクシュアルマイノリティの友達は、例の大学3年のときにカミングアウトしてきたクローゼットの彼と、そのつながりで知り合ったゲイやビアンの子と遊んだり、といった感じで。当時の友人とはいまに至るまでつきあいがあるので、そんなにゲイの友達に飢えた記憶はありませんね。逆に『G-men』などに関わるようになってから、「あら、ゲイ関係者になっちゃった!」とあらためて自分自身に驚いたりしているくらいで(笑)。