2007-09-22

QJrインタビュー 生島嗣さん

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*初出「クィア・ジャパン・リターンズ」vol.0(2005/ポット出版)

● 36歳で脱サラ、
啓発活動へ飛び込む
生島嗣さん

年を追うごとにゲイのHIV感染者数は増加している。
そんな深刻な状況の中で、啓発や支援活動に奮闘する、
ぷれいす東京の生島嗣さん。
なんでそこまで献身的に行動できるのか。
感染者やコミュニティから厚い信頼を得ている彼の、
素顔に迫りたい。
(聞き手/伏見憲明)

■ 生島嗣(いくしま・ゆずる)
NPO法人ぷれいす東京の専任相談員として、
1994年から多くのHIV陽性者や
その周辺の人たちの相談サービスに携わりつつ、
HIV予防の啓発活動にも従事。
社会福祉士。

・ぷれいす東京って?

伏見 生島さんはエイズネットワークやゲイコミュニティの中心人物で、「ぷれいす東京を束ねてる人」というイメージが僕にはあります。でも、個人的なバックグラウンドはよく存じ上げていないので、今日はそういうことも含めてお伺いしようと思っています。まず、ぷれいす東京とは、どんなことをする団体なんですか。そもそも怪しい名前ですよね(笑)。
生島 よく通信社や雑誌社にまちがえられるんです。「ポジティブ・リビング・アンド・コミュニティ・エンパワーメント(Positive Living And Community Empowerment)」の頭文字を取って「ぷれいす」、そして東京にあるからこのような名称になりました。1994年に東京で、もともとHIVの活動に関わっていた10数人のメンバーが、セックスでHIVに感染した人たちのために何かできないだろうかという思いで集まって、創立しました。活動の中心は3つあって、感染した人とその周辺にいる友達やパートナーたちの相談に乗ること、日常生活を営むことが困難な人にボランティアを派遣する直接的な支援と、エイズ予防に関するパンフレットの作成。そして研修や研究事業をやっています。こちらはHIVの予防とケアについての研究が大きな柱となっています。お金がない団体なので人手がそれほどなくて、フルタイムで働くスタッフは僕1人。あとはパートタイムのスタッフが5〜6人、事務所には毎日2〜3人のスタッフがいるような体制です。
伏見 その財源は何なのですか。
生島 東京都の外郭団体から助成金をいただいて、あとは外資系企業と個人の方々からの寄付ですね。日本の企業からの寄付はほとんど皆無に等しい状況です。約2500万円の年間予算で事業を行っています。
伏見 それだけの予算では足りないのでしょうか。
生島 予算もそうですが、人手が足りないですね。現在では相談を受ける件数が多く、仕事量もどんどん増えて休みが取りづらい状況になってます。
伏見 失礼ですが、その予算の範囲で、生島さんはそれできちんと生活できるようになっていますか。
生島 それは一応大丈夫です。専従になるまでサラリーマンをやっていて、最初、給与は3分の1ぐらいに減ったんですが、今は前の仕事よりもちょっと少ないけれど、そこそこ生活できるぐらいのお給料をいただいています。

・ゲイに感染者は
増えている!

伏見 現在、HIVというのは広がっているんですか。
生島 専門家が言うことによると、日本国内では微増という状況がずっと続いていて、東京ではとくに増えているようです。ただし、検査を受けた場所の報告なので、それがどこに住んでる人なのかはわかりません。東京では毎年約400人の感染者が新たに報告されています。
伏見 以前「感染爆発が起こるんじゃないか」ということを読んだりしましたが、それは起きなかったということですか。
生島 そうですね。オオカミ少年のように専門家の何人かが、特に1992〜94年ぐらいは爆発前夜と言っていたのですが、結局微増のままずっときているので、予想と違って「あれ?」と思ってる人もいるようですね。
伏見 実際に感染爆発が起こらなかった理由は。
生島 予想されたような状況にはならなかったという事実だけで、僕もはっきりした理由はわかりませんね。アメリカと日本のセックスのスタイルが違うからなのか、原因はよくわかりません。
伏見 生島さんが現場で当事者の方と話されたり、ゲイのネットワークの情報を収集されたりしている中ではどう思われますか。
生島 皮膚感覚で言えば、明らかにゲイの間での感染がすごく増えているなとひしひしと感じますね。毎年新たに感染がわかった200人ぐらいの人から、僕のところに連絡があるんです。その中には僕のネットワーク上の友達や昔会ったことがある人たちもいるんですよ。ぷれいす東京はゲイの人だけではなく女性や異性間での交渉で感染された人からの相談も受けているんですが、サービスの利用者の8〜9割ぐらいはゲイ&バイセクシュアルですね。
伏見 ゲイ&バイセクシュアルの人が、ストレートの人より感染者が多いという感じはしますか。
生島 多いと思います。
伏見 「エイズ検査にゲイが行く機会が多いから、感染が発見される人の数が多いんだ」という考え方がありますが、それはどうなんでしょうか。
生島 それは事実でしょうね。検査を受ける人の割合は、一般の住民集団とゲイの集団とは全然違って、ゲイのほうが検査を受けている割合は高いです。みなさんの意識が高いということだと思うんですよね。
 ただ、以前はゲイの間では、発症の段階で感染しているとわかる人はとても少ないと言われていたんですけど、発症でわかる人が最近は見られるようになってきました。要するに病院にかつぎ込まれた段階で、自分はエイズだとわかる人です。ぷれいす東京では、日常生活を自分1人で営むのはちょっと大変な人たち約15〜16人に、ボランティアを派遣しています。感染の発見が遅くて発症してからの症状が影響して、半身マヒなど身体に何らかの不自由が残ってしまう場合が多いんです。もちろん発症しても治る人はたくさんいて、むしろそちらのほうが多いのですが。感染が早くわかるメリットというのがあっても、現実的に検査を受けたくない人もいるんですよね。
 今、最も大事なことは感染者を見えやすくすること。「感染している」と言うと感染者が不利益を被ったり、あるいはその人自身へのデメリットしか見えてこないのが現状です。身近に感染している人たちがいるんだということをもう少し見えやすくして、多くの人に感じられたらもっといいのになあと思いますね。

・罪深いキリスト者
になった美少年?

伏見 個人的なことに話を進めますね。生島さんは1958年生まれで現在46歳。その、クネクネとひっくり返ってしまう手の動きを見ていると、相当年季の入ったオネエだとお見受けいたしますが(笑)。
生島 そうですね、20歳デビューですから(笑)。
伏見 小さい頃は「オカマ〜」とからかわれるようなタイプだったんでしょうか。
生島 今とはだいぶ違う雰囲気で鎧を着まくっていたから、うまくごまかしてましたね(笑)。中学・高校時代はそんなに数多くはないんですが、よく男の子から誘われてたんですよ。学校帰りにいつも送ってくれる男の子がいたり、暗がりで抱きつかれたり。
伏見 美少年だったんでしょうね。
生島 そうでもないと思うんだけど、そういうふうに感じてくれた人がいたんですね。その当時の僕はノンケぶっていたので「やめろよ、気持ち悪いな!」ってはねのけていたんです(笑)。
伏見 心の中では?
生島 どうだったかなあ(笑)。僕の記憶のすごく深いところ、例えば小学生時代にジャングルジムの上にいる友達の半ズボンから、横チンが見えないかなあとじっくり見たり、家に来たお兄さんの膝に乗ったとき、なんとなく後ろのふくらみを意識したりとか、そういうことはいくつか思い出すとあるんですけどね。
伏見 一般の家庭とは違うご家庭で育ったんですよね。
生島 うちの父親がキリスト教の牧師なんです。そういうこともあって、セックスに対しては否定的で、「結婚するまでセックスはしちゃいけません」という教育をずっと受けていました。街中でイチャついてる男女がいると、それを軽べつしたような眼差しで両親は見ていたし、テレビでラブシーンが映ったらすぐ消すような家庭でした。それに、男性同士の性行為に対して否定的なことが聖書には書かれているし。家の中でも教会に行ってもそのような話をずっと聞いてるので、「男の人に魅かれてしまうのはいけないことなんだ」と無意識のうちにずーっと感じながら育ってきました。
伏見 「自分はゲイかもしれない」と思ったのはいつですか。
生島 高校生ぐらいかな。
伏見 けっこう遅かったんですね。高校生の頃に気づいた具体的なきっかけは。
生島 教会関係で泊まりがけの合宿があったとき、男の子同士で相互オナニーをしたんですよー(笑)。
伏見 なんだか楽しそうに思い出してますね(笑)。
生島 よく修道院にはゲイが多いと言われてるじゃないですか。それと同じような感じ。
伏見 厳しい戒律の中で、相互オナニーというのはすごいですね。
生島 そのときは勢いでしちゃったんだけど、そんな自分に対してものすごく罪の意識があって。
伏見 そんなことをさせた人に対して、悪魔!とか思ったんですか。
生島 相手に対しては思わなかったけど「そういう誘惑に負けてしまった罪深い私」みたいに思いました。
伏見 今なんか罪まみれじゃないですか(笑)。
生島 そのとおり(笑)。
伏見 僕も当時は「こんなことしちゃいけない」と思いました。でも、それよりもっともっと深いところで生島さんは苦しんでいたんでしょうね。
生島 僕も当時は熱心なキリスト教徒だったので、神に祈ってたんです。「男性に魅かれてしまう罪深い私を癒してください。治してください」と。でも、なんの返答も変化も起こらずにずっとそのまま。祈りながら、時々誘惑に負けちゃう自分もいて。
伏見 そういう誘惑があったんだ。僕なんか誘惑されたくてしょうがなかったのに、どこからも誘われなかった(笑)。
生島 スキがいっぱいあったんですよ(笑)。
伏見 手練手管でしょうかね、相手に誘わせる技(笑)。悩みながらも、それはいつまで続いたんですか。
生島 ちょっとした男同士のいじり合いのような、サラッとしたものはずっとあって、20歳ちょっと過ぎまで続いていました。

・牧師である父との
関係

伏見 それって時代的には80年代ちょっと手前ぐらいですね。
生島 当時、新宿に有名なパレス座という名画座の映画館があったんです。そこに映画を見に行ったら、うしろに人がたくさんいるんですよ。
伏見 懐かしい光景ですね。お若い人にはわからないでしょう。そういう映画館って、席は空いてるのに、なぜかうしろに人が立ってる(笑)。
生島 そこに入った瞬間、なんとなく懐かしいような、一瞬で何かを悟ったんです。
伏見 蛇の道は蛇ってやつでしょう。
生島 僕は20歳ちょっと過ぎで相手は28歳ぐらい。知り合った日にお持ち帰りされて、そこで初めていじり合い以上の行為にステップアップしました。
伏見 気持ちとしての変化はありましたか。
生島 宗教観から自分で自分を縛ることはずっと続いていたんです。自分なりの対処方法として、日曜日は教会に行き、それ以外は教会とは関係なく暮らすといったふうに、都合のよいダブルスタンダード。日曜日に教会へ行くときは信仰深い清き人間風の顔をしながら、それ以外の日は違う人というように状況を二元化させたんですね。自分の中では矛盾だらけなんだけど、ずーっとずっと深く考えないようにしてきたんです。映画館で会った人にお持ち帰りされてから、知り合った友達に誘われて2丁目に遊びに行くようになり、ゲイディスコブームのときは朝まで踊って過ごすという生活も経験し、ダブルスタンダードながらけっこう楽しくゲイライフを送っていたんです。
 でも、それが変わったのが1991年頃。タックスノットにもよく行っていて、大塚隆史さんが『別冊宝島/ゲイのおもちゃ箱』を常連のお客さんたちを中心に分担して作りましょうと言い出したんですよ。僕はふだんから教会関係でいわゆる奉仕活動というのはさんざんしていたので、その中のゲイのボランティアの取材を任されたんです。3〜4つの団体が全部エイズ関係のボランティア団体でした。
 取材をしてから、自分にもできることがあるんじゃないかなという予感がして、ゲイオンリーの団体ではないHIV・エイズ関係の団体にボランティアとして参加するようになりました。そこでボランティアをしているクリスチャンの女性と出会って、彼女に「僕はキリスト教徒でゲイなんです」ということを初めてカミングアウトしたんです。そうしたら彼女は「そうなの」と言いながら、何事もないように自然に接してくれた。それで僕は、キリスト教徒でゲイである自分を受け入れられたと初めて感じたんです。僕は彼女との関係を軸に考えを広げていって、二元化させていたものをだんだんひとつに重ねていくように変化していきました。
伏見 二元化してたときは、苦しかったんですか。
生島 考えないようにしていたけど、一元化するにしたがってやっぱり苦しかったんだということがより鮮明になってきましたね。今まで神に祈っていたことに対して答えはなかったけど、ボランティア活動をしてるうちに「ゲイでクリスチャンのおまえはその活動をしろ」と言われてるような気がしてきて。
伏見 神からのミッションかもしれませんね。
生島 ゲイである自分を消したい、治したいと思っていたけど、逆にゲイだからこそ役に立つこともあるんじゃないかと初めて思えたんです。

・36歳にして
脱サラ

伏見 生島さんは36歳までどんな仕事をしていたんですか。
生島 薬関係のビジネスです。いや、別に街角に立って怪しい薬を売ってたわけじゃなくて(笑)、病院の調剤薬局チェーン店の本部で、薬剤師を雇ったり、店舗開発をしたりしていたんです。だから医者に会うことも多く、医療関係に携わった仕事だったので、そこからエイズ関係の団体に入った僕としては違和感も少なかったですね。
伏見 でも、サラリーマン生活からの転職は勇気のいることだったと思うんですが。
生島 それも二元化から一元化への流れで、勢いがついてたんですよね。こういう活動をすることに僕の意味があると思いはじめたことも重なって、だったらもうちょっと長い時間それをやってもいいんじゃないか、と。95年頃に「ぷれいす東京でフルタイムのスタッフとしてやってみませんか」と誘われて、ちょうどその時期、数字を追いかけるサラリーマン生活にとても疲れていたので、それもいいかなあと思って。収入は減るし経済的にも大変になるけど、精神衛生上いいほうを優先させたんです。
伏見 その後、クリスチャンであることとゲイであることはどうなりましたか。
生島 NPOの職員として働きはじめてから4〜5年たってから親に話したんです。サラリーマンを辞めてNPO職員になったことには、こんな意味があるからだと両親にカミングアウトをしました。母はなんとなく合点がいったみたいで、「これでいろいろな謎が解けたわ」というような反応をしてくれました。父親は、牧師であり、宗教的な僕の指導者でもあったんです。だから「もしゲイであるということを話すなら、教会を出てからにしてくれ」ということを言われました。
伏見 「うちの敷居はまたぐな」と同じ感じですよね。それは息子としてはどんな気持ちでしたか。
生島 すごく辛い体験だったし、父親と全くコミュニケーションしなくなりました。3年たった頃、再び父と話をする機会があったんです。これで縁切りされるんだったらそれでもいいやぐらいの気持ちで、「キリスト教関係の雑誌の座談会に実名で出て、自分はゲイだということも話すから」と言ったのですが、彼は「出ればいいんじゃない」と。
伏見 3年間でお父さんも息子の同性愛についていろいろと考えて、肯定的に受け止められるようになったんでしょうか。
生島 息子がゲイだということを理解はできないけど、受け入れようと思ったそうです。息子を拒絶した父親としては、そのことで自身も深く傷ついていただろうし、反対に僕も、父親から迫害されて被害者気取りだったことにも初めて気がついたんです。そこから親との距離も少しずつ、お互いに歩み寄ろうという感じに変わりましたね。
伏見 神様との距離はどうなりましたか。
生島 教会は父親が働く場所、僕は今やりたいと思うことをするのが、自分が神様から与えられた役割なんだと感じているので、それに携わっていれば神との関係はそれでいいんだと思えているんです。だから宗教的なところで僕とは違う解釈で考える人もたくさんいるだろうけど、僕の中では矛盾もなく、何の問題もないですね。

・自分らしく
生きていればそれで
いい

伏見 NPOの活動をはじめて、それまでサラリーマンをやっていた生島さんと比べて変化がありましたか。
生島 感染した人たちの相談を受けていると、ふだん2丁目で会わないような人ともたくさん会うんです。例えば女性と結婚しているゲイの人とか。僕は以前、実はバイセクシュアルの人をちょっと蔑んでいたんですよ。相手の女性に対しても中途半端で失礼だと思っていたんです。それがある日、女性がうちの事務所を訪ねて「うちの主人、感染しちゃいました。いつかそうなると思ってたんです」と。彼女はダンナさんがゲイだと知っていて結婚したんです。みんなそれぞれの生き方をしていて、そのカップルがそれでいいと思ってるんだったら別にいいじゃないかと思えるようになって、勝手に判断するのは自分の思い上がりなんだと思いました。自分の中の「ゲイとはこんな人でこういうライフスタイルを送ってる」というのが一回粉々になって、もっと広くなりました。自分らしく生きていればそれでいいんじゃないかというふうに変わりましたね。
伏見 それぞれ人には理由があって、それぞれの生き方があるということが見えてくるようになったわけですね。今はサラリーマン時代よりも充実していますか。
生島 はい、してますね。
伏見 ご自身のライフプランニングについては。
生島 今は46歳だけど四捨五入すると50歳でしょう。いろいろと考えはじめますよね。サラリーマンを辞めたときは、自分の将来は考えないようにしていたんですよ。でもずいぶん時間も経ってきたので、最近少しずつ考えるようにはなってきたところですね。
伏見 例えばエイズが完治できるようになれば、こういう活動は必要なくなるものですか。
生島 ハンセン病問題に関わられている人から「治療法が解決したら終わりだと思ってるでしょうが、それは違います。ハンセン病の歴史が証明しているように、治療法ができても人々の中にあるネガティブな気持ちはずっと残るんです」と言われました。だから、完治できるようになっても、活動は継続する必要があると思うんです。ただ、僕がずっとこの活動を続けていくかどうかについては、ちょっと曲がり角にきていますね。うちの団体も小さな政府でずっと続けていくのか、組織化してもっと大きくしていくのか、というところにいます。もしも違った生きる術を見つけられれば、何らかのかたちで活動には加わるけど、フルタイムのスタッフとしての関わり方は変えるかもしれないというふうに思っています。

(2005.2.16 新宿 aktaにて)