2007-09-27
QJrインタビュー 斎藤靖紀さん その2
秀才たちは、
東京で
気持ち悪く
はじけた?
伏見 大学は現役でお入りになられたの?
斎藤 そうそう。また偉そうですが、受けたの全部受かったんですよ。早稲田と名古屋大学。
伏見 あら、すごい。でもなんで貧乏なのに国立に行かなかったの?
斎藤 東京に行きたかったから。
伏見 アッパーキャンプのメンバーっていやがらせのように高学歴が多いよね。
斎藤 昔、ネットのいやみで書かれてたんだけど、「そういう子たちって、デビューしたあと気持ち悪くはじけちゃうんだよねー」って。すごく的を射てる(笑)。
伏見 当時はまだ今のようなゲイの状況ではないですね。
斎藤 現在のゲイメディア系の衝撃を最初に受けたのって、テレビ朝日の深夜番組「プレステージ」。斎藤綾子さんもタックさんも伏見さんもみんな出てた。あれが今に通じる「ゲイ」という言葉と出会った最初の衝撃でしたね。そのころはパソコン通信の人だったので、高3の時点で、東京にいくつかあったゲイのパソコン通信ネットに入ってたんです。
そこで知り合ったのが、その後ずっと続いている同居人のおまこさん。本名じゃないですよ。それで受験のときに受験パックのホテルを蹴って、おまこの家に泊まりに行った。受験の前夜、おまことヤッてたんですよ(笑)。今思うと気持ち悪いんですけど。そのまま受かって東京に住むことになって、同居を始めたんです。だから独り暮らしをした経験はないんですよね。一緒に住みたいと思ったのは、人柄も含めて、一緒に住んで間違いない人だと思ったから。勘だったんですが、全然抵抗なかったです。守ってもらえるかどうかに対して、本能が働くんですよ。生きる術(笑)。
伏見 いよいよ大学時代ですが、ブルさんは現在、ゲイ業界では一番の権力者でいらっしゃいますから、怖がってなかなかブルさんの過去の証言をする方がいらっしゃらないんです。1人だけ、覆面ならばブルさんの過去を話してもOKという人をやっと見つけました。Mさん、どうぞ。音声も変えてるんですけど。
(覆面のエスムラルダ登場)
伏見 早稲田のGLOWというゲイサークルに入ったんですよね。
斎藤 最初はパソコン通信側で遊んでたんですけど、2年のころに遊び仲間で知り合った子からそういうサークルが存在するのを知って入ったんですよね。メディアがゲイブームになっていたので、色々な場所で露出が始まって。
伏見 そのころはゲイということに肯定的だったんですか。
斎藤 本当に伏見さんに教え込まれた世代ですよ。
伏見 また姑息に持ち上げようとして(笑)。あのね、会場のみなさん、僕は昔からブルちゃんの大ファンなんですよ。でも、ブルちゃんが僕のファンだったことは一度もないの! 本なんて読んだこともないでしょ、あんた。
斎藤 『プライベート・ゲイ・ライフ』は本当に読みましたよ(笑)。でも文字に弱くて、一番最後に読んだ小説が『バトル・ロワイヤル』なんです。
伏見 当時から今のブルちゃんの原型はでき上がってたと思うんですが、エスムラルダさん、斎藤さんの第一印象を教えてくれますか。
エスム 最初に「ブルってどういう人?」って聞いたら、みんな口を揃えて「かわいいけど怖い人」って言うんです(笑)。初めて会ったのが、パソコン通信のオフ会で鵠沼海岸に行った日。当時から私は、性に対して頑なというか、オクテなところがあったんですが(笑)、ブルの口からは「穴がどうこう」みたいなセリフがポンポン飛び出して、「この人、性に奔放だ。怖い!」と思いました。自分とは違う強烈な人がいるというのが、第一印象でしたね。
斎藤 会う前に友達に聞いたエスムの噂は、「文通欄で知り合ったんだけど、1通送っただけなのに、向こうから“生き別れた兄弟と知り合ったみたい”って言われて、ちょっと大げさで怖いんだよね」って(笑)。しかもその子とエスムが一橋大学の生協で会ったとき、クネクネしながら手を振られて、「井田真木子の『同性愛者たち』読んだー?」ってデッカイ声で言われて困ってた(笑)。お互いエロとリブに暴走気味だったね。
伏見 エスム、デビューはアカーなんだもんね(笑)。ギョーカイ的にいうと、僕のイメージでは、小倉東さんがブルちゃんを拾ってきたんだよね。
斎藤 正確にはライターの萩原まみちゃんがうちのネットの会員だったんです。それでオフ会に来てくれるようになって。あとは溝口彰子さんとか、レズビアンでメディアに強い人がいっぱい入ってきてくれて、そっちから小倉さんを紹介され、伏見さんを紹介されたんですね。
伏見 当時、あなたがやっていたのはUC-GALOPでしたが、あれ、なんだったんですか?
斎藤 UC-GALOPって、アッパーキャンプ・ゲイ&レズビアン・オンライン・パーティの略なんですよ。
伏見 そこでなにを話してたの?
斎藤 よた話だよね。
エスム あと、ブルのパーソナリティが変わるとネットの雰囲気も変わる、というのが端から見てるとあって、初期のころはオタク系でほのぼの牧歌的な感じだったのが、ブルがクラブに行くようになって、ずいぶん変わりましたね。斎藤 オタク女がちょっと気取り始めたっていうやつ(笑)。
エスム ブルの中にパソコンネット・オタク・リブみたいのが芽生えてきて。「パソコン・オタク=ダサい」というイメージを変えたいという気持ちがあったんだよね。ほのぼのしたものから、言葉にすると恥ずかしいんだけど、都会的な方向性に(笑)。
斎藤 思い出した! 最初はアッパーキャンプじゃなくてアーバンキャンプだった(笑)。
エスム そのころはGOLDやイエローが華やかで、アフター・アワーズとか朝方にやるパーティもありました。みんなではしゃいで遊んでて、「あの子たち、絶対薬やってる」って陰で言われたこともあります(笑)。でも都会的な匂いのするネットに変わったことで、ほのぼのした雰囲気が好きだった人は、大量に辞めたよね。
斎藤 ただ、あれは作為的だったかも。オタクを排除したかったかも。それが93年か94年ごろ。
伏見 今聞いていて感慨深かったのだけど、ブルちゃんたちも青春を語る年頃になったんだね。90年代はアッパーキャンプがゲイシーンを席捲したという感じが僕の印象としてあるんだけど、最初はマイノリティな感じで始まってたんだね。
ドラァグ
クィーンの
ことはじめ
エスム 94年の9月に UC-GALOP の周年パーティを Delight(現在のACE)でやったんですが、そのころニューヨークでルポールというドラァグクィーンが流行っていて、「こういうのおもしろいからやりたいね」という話になった。ブルはクラブ系の情報も早く入手して、ルポールのミュージック・クリップを見ていたんだよね。
斎藤 UCのメイクは関西系の先輩に習ったんですよ。東京系はきれいでそつのないメイクで、関西系はやりすぎメイクなんです。UCはそれを真似て、しかも技術は拙かったので、本当に汚くなっちゃったんです(笑)。
伏見 最初は「ドラァグクィーンになるんだ」という志しでもなかったんだ。
斎藤 なんとなくパーティで楽しいかもということで。
伏見 ゲイムーブメント的な意味では、どんな意識だった?
斎藤 あんまり対社会は意識しなかったよね。
エスム 自分たちがやりたいことだけやってた。
斎藤 当時のUCに共通するのは、学生時代は真面目なむしろネクラぐらいの優等生系が、「大学でゲイ」というキーワードではじけて、というのがほぼ共通していたので、そういう特殊な環境下で育った人たちのいびつさが、業界的に珍しくてインパクトが強かった、ということだったと思う。要は鎖国状態だったところから生まれたことで、バーやクラブの中で培われたのとは違ったヘンなことをしてる人たちがいるって、おもしろがられたのかもしれない。
伏見 94年にパレードがあって、ブルちゃんは参加してないんだよね。
斎藤 当時はゲイだっていうことで表を歩くなんてとんでもないと思って(笑)。
伏見 でも、翌年は女装して堂々歩いてたよね(笑)。
斎藤 OKが出たら早いタイプで、最初にリスクを負うことはしたくないんです(笑)。
エスム 次の年ぐらいにはドラァグとは何なのかがだいぶわかり始めて、みんなで衣装を揃えて歩いたんです。
伏見 当時、パレードに出るのはまだまだ敷居が高かったけど、ブルちゃんがやろう!と言うと盛り上がる感じだったんですか。
斎藤 閉ざされた世界って、その中で盛り上がったことに対して異様な情熱を見せるパワーってあるじゃない。宗教団体みたいなもので。
伏見 元UCって巷にいっぱいいるわけですよね。メンバーはどれくらいだったのかな。
斎藤 3〜40人が中心メンバーだったのかな。
伏見 その3〜40人が真面目に勉強して大学に入っておかしくなっちゃったという感じなの?
斎藤 ベースは真面目なんだけど、ひと癖、ふた癖抱えていて、それを出せるきっかけとなったところがたまたまうちだった、という感じの人は多かったみたい。
伏見 出会ったときから年齢差もあったので、ブルちゃんは僕には腰が低い感じで、しばらく謙虚な人なんだと思ってたけど、あとでいろんな人に聞くと、本当はそうじゃない人なんですよね(笑)。
斎藤 相手に合わせてるみたいで、「この人には腰を低くしなきゃ」というのがわかるみたい。
エスム やっぱりリーダーなんだと思いますよ。あと、自分が攻撃される前に、人を攻撃するタイプ(笑)。たとえば、ショーで同じ服を何回か着てると「またそれ着てる」って。自分も何回も同じの着てるくせに(笑)。
伏見 当時のあなたたちのDelightのパーティって、歌をうたう人がいたり、コントみたいなものがあったりで、いろんなことをしていたよね。
斎藤 ゲイの、なんでも表現したい人どうぞということをやってたので、珍しかったんじゃないですかね。とにかく余興の場だったんですよ、オフ会が。女装も強く出てましたが、なんでもよかったんです。
伏見 当時の仲間の多くは就職したんだよね。
エスム そうだよね。私は一度就職して最近脱サラしちゃったけど。
伏見 ブルちゃんはゲイメディアにいてゲイにこだわっているけど、他の人と方向のズレっていうのはあった?
斎藤 はっきりしてるのは女装サークルになっちゃったとき(笑)。パソコン通信コミュニティからお笑い女装サークルになって、しかも汚い系っていう(笑)。最後はゲイがパソコン通信で集まる感じではなくなっていたので、女装のほうが旬のネタだった。やりたいことがたまたまそっちに向かっていったんですよね。
エスム ちょうどインターネットが普及し始めるのと同じぐらいかな。
伏見 90年代半ばから定期的にパーティをやってたんだよね。
斎藤 二丁目のレインボーカフェだったところが空いてたから、月に1回貸していただいて。
伏見 当時、二丁目にオープンカフェなんてなかったじゃない。クローゼットな街で外に向かって開かれたイベントをやるというのは画期的だった。
斎藤 それも二丁目に出てる子が始めたわけじゃなく、突然変異的に始めたので、結果として伏見さんに「あれが二丁目初のオープンカフェだった」と言っていただけるものをやったんですけど、あんまり意識してなくて、外にもテーブルを置いたらいっぱい人が入れるね、ということで置いただけなんですけど(笑)。
伏見 ドラァグはどこがおもしろかった?
斎藤 なんだろうね。
エスム なんだろうねえ……ここまでやってる2人なのにわからない(笑)。最初は本当に楽しいねということでやってたんだけど、私、96年ぐらいにUCと距離を置いた時期もあったんです。でも久しぶりにDelightでのパーティに復帰しようかなと思ってたときに、ブルが「エスム、最近ショーやってないし、おもしろいのできるかね」って言ってたという話を聞いて、「負けるもんか!」って思った(笑)。要するに、ドラァグをやる原動力は、「楽しさ」と「悔しさ」だったんですね。
伏見 ブルちゃん周辺って、ブルちゃんに対する愛憎、すごく世話になったっていう恩義と、相反するような怨念が渦巻いているように見えます。エスムさんが一時離れてたっていうのは、やはり憎んでたんですか。
エスム そう(笑)。でもそれはやっぱりブルが優秀だったからだと思うんですよ。はっきり言って嫉妬してました。ブルは話すことも書くこともおもしろいけど、自分はブルほどはじけられない。ブルって本当にいい加減なところが多いんだけど、でもなんとか生きていけるところも憎い(笑)。「同い年なのに、この違いは何?」って、いつも思っていました。だけどブルに会わなかったら、自分は全然違う人生を歩んでいたと思うので、本当に愛憎混ざり合ってましたね。
伏見 ご本人、憎まれてる部分についてはどうですか。
斎藤 知らなかった……(笑)。最近けっこう言われるんですけど、当時は本当に自分、性格がキツかったみたいなんですよ。外部の人に腰が低いのは変わらないんですけど、自分がやってるもの、UCの人なんかにはすごくキツいことを言ってたみたいで。
伏見 アッパーキャンプって1人ずつきちんとキャラが立ってるじゃない。でも、ブルちゃんって性格すごくだらしないでしょう(笑)。よくまとまってたよね。
エスム でも、キャラを立たせるのも、ブルの遠隔操作があったんですよね。その人に向いてるものをさり気なく提供してたから。
伏見 育ててる感じはあったんだ。
エスム 本人にその意識があったかどうかわからないんだけど、狡猾にやってましたよ。私は最初ホラー女装をやっていて、でも怖いだけじゃイヤだと思って、少しキレイにやろうかなと血迷った時期があったんですけど(笑)、そんな中途半端なことじゃダメだっていうのも遠回しにブルに言われた。
伏見 ブルちゃんの中でアッパーキャンプというコミュニティ意識はあったの?
斎藤 自分のホームのような気持ちはあったと思う。そのあとのゲイのこだわりにもつながるんですけど、多分寂しがり屋さんで(笑)、家族的集団のようなものに憧れているんです。パソコン通信のネットのときもそうだし、中学時代のパソコンオタクというアイデンティティだったときには、MSXパソコンのサークルをやってて、全国に会報を書いて送ったりしてたので、パソコンオタクでも女装でもそういうマイノリティは、身を寄せ合って集まるということが大事だと思ってたみたいですね。
伏見 今はアッパーキャンプという共同性はブルちゃんの中ではどうなの。
斎藤 もめて女装たちのアバレでほぼ解散。『女囚サソリ』とかに興奮してた時期で、女囚たちが「アバレだよ!」と脱走するシーンがあって、だからその時のことをアバレって呼んでます(笑)。要はUCをしきってたわりに、あまりにも自分がいい加減だったので、ギャラの支払いとか適当だったんですよ。ギリギリで脚本を渡されるとか、連絡が直前とか、そういうずさんな態勢に対して、「こんなんじゃやっていけません」みたいなのをいっせいにやられてしまった。まあ、全部自分が悪いんですけど、すっごい落ち込んだんです。3日ぐらい、ホントに落ち込んだ(笑)。自分が招いた結果というのはわかっていたんですけど、ショックでしたね。ある意味寂しさを元に集めた集団なだけに、それがダメになっちゃったのは、トラウマになってますね。
伏見 反乱? 組合争議? それで活動が休止したんですよね。みんな大人になって、難しくなったっていうこと?
斎藤 それはクラブ女装論になるんですけど、女装は最初は楽しいんですが、登るべき山としてはそんなに高いものではない。巧い人は1年ぐらいでトップに立てちゃうんですよ。地方にあるポンポン山とかレベルで、エベレストじゃないんですよ。だからその先、どうしたらいいのかっていうのがあって、別にそれで食っていけるわけでもないし、なにを楽しみにやるのかで迷いが生じるから、あとは人によって選択が分かれるんです。
エスム 私も、アバレの時はこっそりみんなを煽ったりしていたんですが、今考えると、ちょっとかわいそうな部分もあったと思います。
伏見 子どもたちの親に対する反抗期かな。
エスム それもあるし、女装仕事自体への不満もあったと思う。UCってイベントに呼ばれても1束いくらの扱いだった。苦労したわりには…っていうストレスもあって、それがまとめ役だったブルにぶつけられた感じがありましたね。
斎藤 芸人として求められることが多くなっていった時期で、毎月新しいネタで笑わせなきゃいけないというようなしんどさがあって、楽しい時期が終わって、期待に応える時期に入っちゃった。
伏見 エスムさん、ブルちゃんに対する愛憎というのは、今はいかがですか?
エスム 今は適度に距離置いています、憎しみ合わないように(笑)。距離は大事だよね。あと、お互いに年をとって、それぞれキャラクターは別なんだということが自分でも認識できるようになったのが大きいですね。人は人自分は自分だと、ちゃんと思えるようになった。
伏見 ブルちゃん、最近、女装はあんまりしてないでしょう。
斎藤 そうですね。オファーがあって、それが納得いく内容、相手に恩があるとかギャラが高いとか、自分がこれをやったら得だなと思ったらやるという感じ。
「ゲイ」は
家族
伏見 今は『バディ』を中心に書きつつ、やっぱり、トレンドメーカーな仕事をしていますね。斎藤靖紀が作ってることが流行りになってる。「ヤリ部屋」っていう言葉もあなたが作ったんでしょう。
斎藤 アメリカ的には「クルージング・スペース」とか言ってたけど、長いじゃないですか。特集のタイトルを考えてたときに、「ヤリ部屋とかどう?」みたいに言ってたら流行りましたね。
伏見 ゴメオも?(笑)
斎藤 自分はネットでもマニアックな掲示板やいやらしい掲示板とか大好きなんです。「え、こんなフェチがいるの?」っていうような。クラブ21とか見てると、風船フェチの部屋もあって(笑)。そういうのをチェックしてたら脱法ドラッグ(※現在ではゴメオは違法)が流行り出していたので、『バディ』の危険地帯特集でとり上げた。でも、自己弁護じゃないですけど、あれは自分の記事以上にネットの口コミパワーで広がったと思いますが。
伏見 斎藤さんは普通に就職しようと思ったことはなかったの? 最初から『バディ』に就職しようと思ってたわけでもなかったんでしょう。
斎藤 就職活動とかしなかったですからね。
伏見 それはゲイに対するこだわりで就職しなかったわけ?
斎藤 いや、それも含めていい加減。なーんにも考えてないんですよ。『バディ』もすごく昔からやってるけど、社員になったのは3、4年前。それより前はただの外注さんだったんですよ。
伏見 ゲイのことで食べていこうという決意があったわけでもなく。
斎藤 はい、なんとなくです。
伏見 みんなよく言うんだけど、斎藤さんぐらいの才能があったら、もっとメジャーなステージでもやっていけるでしょう。なんでゲイのことだけをやっているんだという疑問がある。
斎藤 そんなことないです〜(笑)。なぜIT方面に行かなかったかということと同じで、自分はエロとかゲイに対しての引力が強すぎるから。
伏見 どのへんにゲイに対するこだわりがあるの?
斎藤 悩んでるわけではないんですけど、ホモフォビアが根強く、いまだに、「ゲイ」って書いてある本があったら、電車の中ではカバーをかけなきゃ読めないですね。
伏見 それは僕もそうだけどね(笑)。
斎藤 女装は鎧を着てるから大丈夫なんですが、普通の状態でゲイの私として存在するのがすごく怖くて、そのギャップを埋め合わせるかのように、閉ざされたゲイへの思いが高まるという感じですね。
伏見 じゃあ、古式ゆかしいリブガマの動機と近い。
斎藤 昔の怨念系ですよね。女装のキャンギャルをやったことで、女装で外に行くのはOKになって、女装してノンケに対して何かを言うというのは、楽しい作業に変わったんですけど。あとは壇上とか守られた立場で素顔でゲイを語るのも多分OKなんですけど、普通の人としているときは、やっぱりまだ怖いんじゃないかな。
伏見 ゲイの共同性の中でヌクヌクしてるわけね。怖いから外に出られない。
斎藤 怖い、ノンケ怖い! 本当にノンケ、怖いんですよ。
伏見 『バディ』では下の世代に向けてメッセージしていますが、違いは感じますか。
斎藤 怖さみたいのはなくなってる人は多いですよね。KABA.ちゃんみたいな素晴らしいキャラのお陰で、クラスでオカマキャラとしての存在が許されているような、そんな世界が広がっている気はするんですよ。だから防御壁を張らなくても良くなっていて、以前よりはガス抜きされてるのかも。自分はこの防御壁のお陰で、ドラクエで言うと気合いをためた状態だったんですね。自分が突拍子もないことができたのだとしたら、気合いをためていた期間が長かったから。逆に今のゲイの子がもしたれ流しのようにガス抜きができているのなら、強烈なゲイ性のおもしろみにはなっていかないのかもしれないですね。
伏見 エイズ・アクティビズムについて違和感を感じるって言ってますよね。
斎藤 えっ、そんなことないです(笑)。
伏見 『バディ』でいやがらせのように「危ないセックス特集」するでしょう。
斎藤 あれは違いますよ(笑)。団体系の方だと、お金が出ている先が国だったりするので、いわゆる社会運動的な立場からのアピールしかしにくいと思うんです。真面目な団体が発行するものも大事なんですが、世の中の考え方の作られ方って、週刊誌とかバラエティの影響がすごく大きいじゃないですか。商業誌がもしそこに食い込むなら、要は人の興味をそそるということが大前提で、ブッチャケ系な記事をやるべきじゃないかと。それを自分の仕事の範囲でやってるだけで、今あるものがダメというわけではなくて、足りないことがやりたかっただけなんです。
伏見 今、ゲイを取り巻く状況はゆるくなってるわけでしょう。みんなゲイだから一緒になにかをやろうっていう雰囲気でもない。今後、どうなっていくと思いますか。
斎藤 今は個人戦に入ってるところがある。でも自分も『バディ』のように他の人に伝える場では、今言ったような興味をそそることは念頭には置いているんですけど。
伏見 同性婚の問題にしても当事者からの要求の声ってほとんどないじゃないですか。それは雑誌の場にいて、どう思いますか。
斎藤 盛り上げ方が難しいかなっていう感じですね。雑誌としてはムーブメントが作れたらステキなわけでしょう。それが最終的にゲイ的にも価値があることならばなおさらいい。でも商業誌としてはまずその話で盛り上がれるゲイの共通の話題が提供できるかどうかのほうが重要だと思うんですよ。同性婚の話が盛り上げられれば、ゲイにとって確実にいいものもくっつくから、大手を振ってできますよね。ゴメオなんかは流行ってるものとして商業誌的な立場で紹介したんだけど、すごいダークなイメージになっちゃって、イヤなものもくっついてきた。どっちにしても旬のネタを素直に取り上げたい、それをいち早く伝えておきたいということは雑誌的な考え方としてすごくある。同性婚がうまくいけば、『バディ』が紹介したことが良かったなと自分でも思えるのに、ゴメオみたいなものはどんどん勝手に広まっていくのに、同性婚は広まらない(笑)。
伏見 最後に、斎藤さんにとって、「ゲイ」とはどういうこと?
斎藤 自分、親戚とかまったく気にならないし、母親のことも好きだけど2年に一度会えばいい。出身校も郷土もどうでもいい。つまり、自分にとってのアイデンティティはほとんど「ゲイ」なんです。最近ちょっと「エロ」にも揺らいでますが。東京で生まれ変わって、幼児のようなブルを大きな愛で包んで育ててくれたのが、同居人のおまこさん。ゲイネットやったり、女装やったり、雑誌の仕事をしたり、狂ったようにそのためた気合いを放出できた場も「ゲイシーン」。恩師とかも「女子バディ部の鬼キャプテン=マーガレット様」「気にかけていろいろ勉強になる場所に連れてってくれる近所のおばさま=伏見先生」「ちょっとうちの喫茶店で働いてみない?と言ってくれる親戚のおばさま=タックさん」「かわいがってくれる、時々すごい怖い元気な家長のおばあちゃん=うちの社長」……と、ゲイ業界とかゲイシーンにこだわっている人には「血」のような親近感を感じるんです。僕は最初のレインボー祭りの花火が見られた時点で、いったん「イキ終わって、倦怠感を感じた」んです。今は受精の責任をとって結婚=テラ出版に入社して、残る課題に向けて、かなりロクデナシではあるが親心のようにゲイシーンに何かを伝える義務感を感じているところです。
伏見 どうもありがとうございました!
(2005.2.9 新宿 aktaにて)