2007-09-27
仏国民に根強いミッテラン氏への想い 没後11年、国父ドゴール氏に次ぐ人気
『日刊ベリタ』に【仏国民に根強いミッテラン氏への想い 没後11年、国父ドゴール氏に次ぐ人気】というタイトルの記事を執筆しましたので転載します。
【本文】
フランスのフランソワ=ミッテラン元大統領が1996年に亡くなってから今年で11年になる。ミッテラン氏は生前、「私は最後の偉大な大統領になろう」と予言したという。ミッテラン氏は社会党の出身で、1981年から95年まで2期14年にわたって大統領を務めた。フランス国民の間で、今なお大きな人気を集めているのは、第二次大戦の英雄で、国父とされるシャルル=ドゴール元大統領だが、ミッテラン氏はそれに次ぐ高い人気を誇っている。同氏の予言はいまのところ、当たっているようだ。
やや資料が古いが、日刊紙フィガロが2005年2月にフランスの有権者953人を対象にアンケートを行ったところ、「フランソワ・ミッテランはどんな人物として思い起こされますか」という問いに対して、「ミステリアスな人」という項目で「ハイ」と答えた人が79%もいた。
「教養豊かな人」という項目では91%が「ハイ」と答えている。政見や随筆をしたためた20冊以上の著作を残したから「教養の人」として記憶されているのだろうし、単純には言い表せない複雑なキャラクター故に、「ミステリアスな人」として覚えられているのだろう。
前述のフィガロ紙の調査では、ミッテラン氏の政策の中で最も特筆すべきものとして、「死刑廃止」が一番だった。次が「(年間の)有給休暇を5週間にした」で、その後が「労働時間の短縮」などだった。
ミッテラン氏は、サルコジ大統領のように「決然」「断固」という言葉に象徴されるような猛々しさを演ずることのなかったが、死刑廃止への決意は例外だった。
ミッテラン氏が死刑廃止を掲げて大統領選挙に出馬した1981年は、フランス人の63%が死刑に賛成し、反対はわずか31%だった。
ミッテラン氏の周囲ですら死刑廃止を掲げることに慎重な意見が多かったという。にもかかわらず、信念に依って彼はその主張を翻さず死刑廃止を公約にして、大統領に就任するなり、死刑を廃止した。
フィガロの調査では「大統領だった頃のミッテランを総合的に見た場合、あなたはどちらかといえば肯定的ですか、否定的ですか」という問いもある。60%の人が「肯定的だ」と答え、36%の人が「否定的」と答えている。ミッテラン氏は後世から支持される人物のようだ。
ミッテラン氏には「愛」にまつわるエピソードがいくつもある。
一つは氏のスキャンダルに絡む話だ。彼にはダニエル夫人の他に、30年来付き合いのあった愛人アンヌさんがいた。二人の間には、58歳も年の離れた彼そっくりの隠し子・マザリーヌさんがいた。
前立腺ガンに冒されたミッテラン氏は死ぬまで女性との逢瀬を楽しみ、朝帰りを繰り返した。ダニエル・ミッテラン夫人にも恋人がいたというから、2人はまさに成熟した大人の関係だったのだろう。
ミッテラン氏は死ぬ約2週間前の1995年のクリスマスのバカンスをアンヌさんとマザリーヌさんとエジプトで過ごし、大晦日はダニエル夫人らと過ごした。ガンを煩い病床に伏せていたミッテラン氏は、絶命する2日前に投薬による延命治療を拒み、死期を選択した。
愛人のアンヌ親子が見守るなか、静かに息を引き取った。彼が亡くなったのは、大統領退任から1年もたたない1996年1月8日のことだった。
栄華を極めた権力者というものは死の間際に立たされると往々にして、生にしがみつこうととりみだすものだが、ミッテラン氏は自らの死を静かに受容した。
政治家として人生のほとんどを過ごしてきたミッテラン氏は、やっとのことで手に入れた私人としての生活が束の間で終わってしまうという現実を前にして、何を思ったのだろうか。政治家ミッテラン氏にとって、政治家として生き、政治家として死んでいく自らの生に、悔いはなかったのかもしれない。
ミッテラン氏の死後、パリのバスティーユ広場で開かれた社会党主催の追悼集会には、その死を悼む数万人の人々が参加した。ミッテラン大統領の時代には、政治難民として多くのクルド人が受け入れられたからか、クルド人も多数参列し「クルド人民のために尽くしてくれてありがとう」と書かれた横断幕を掲げた。
写真脚注:在職中のフランソワ=ミッテランミッテラン大統領(フランス大統領府)。