2007-10-06

QJrインタビュー トーマス・ソングさん

song.jpg37年間
育んできた愛
Love that has been brought up for 37 years.
This is the interview to Mr. Thomas Song.

37年もの長い間、パートナーとの共同生活を築き上げてきたソング氏に、カップルであることの経験を語ってもらった大先輩の言葉に、ぼくらは学ぶべきことがたくさんあるに違いない

● トーマス・ソング
1929年、韓国人を両親に東京で出生。
大連で少年期(1934-46)を過ごし、旧制高校一年のとき日本敗戦。
翌46年冬、ソ連占領下の大連から南朝鮮に脱出。
48年、単身渡米。高校、大学を卒業(53年)、徴兵され軍務服役後、
米国に帰化(56年)。大学の司書と教員生活20数年後、引退。
パートナーとの共同生活37年。
在米58年、フィラデルフィア在住。

伏見憲明●インタビュアー
トーマス・ソング●写真提供

財政面は僕が担当、
生活運営は
彼のリードで

伏見 メールでのインタビューになりますが、よろしくお願い申し上げます。
TS(トーマス・ソング) 僕は思春期の少年のまま、太平洋戦争直後にアメリカに単身でやって来ました。坊ちゃん育ちのほとんど何も知らない子供でした。東洋にいる東洋人との同性愛経験を僕は持っていません(残念ですけどね)。
 アメリカでの僕は、最初の5年間を高校と大学、1年を大学院、徴兵されてから3年間をアメリカ陸軍で過ごしました。そして除隊後、更に4年間を大学院で勉強し、結婚・就職後は司書と大学教員として生活を送りました。ですから僕が語れることは、アメリカ社会内の経験だけです。
 最近、日本のゲイの方たち(フケ専)数人と親密な文通を続けてきました。彼らは50代を過ぎた既婚者です。文通を続けて、彼らとの環境の差異とその複雑さに驚いています。広範さにもね。フケ専はアメリカにはほとんど見られない現象だと思います(もちろん限られた僕の経験のことですから、こちらにもそういったバイセクシュアルな関係が存在するかもしれませんけど)。
 日本社会のありように対して、知ったかぶりなアメリカ式判断を当てはめようとすると、とんでもない間違いを起こすかもしれません。
伏見 パートナーのチャックさんとのお付き合いは何年くらいになりますか?
TS 1969年の9月初旬に出会いました。もう37年目になるわけです。
伏見 お二人のなれそめについて教えてください。
TS 当時、僕は結婚生活が上手くいっていなくて、40歳でした。1969年に、ある大学の図書館副長に任命されてフィラデルフィアに赴任して来たあと、9月に行われた雇用最終面接に現れたのが彼でした。僕が採用を決定する責任者でした。採用後に、親密な関係が生じるまで相当な日数を経ましたが(最初から彼が僕に夢中になってくれたのではありません。「既婚者は厭だよ」なんてヌカシたり、いやはや散々でした)。
 一方、僕の妻との結婚生活はそれまでに完全に破綻していました。僕の責任です。僕は結婚すべき人間じゃなかった。
伏見 トーマスさんは女性との結婚生活を経験されていたんですね。女性との夫婦生活と男性とのパートナーシップにはどんな違いがあるのでしょうか?
TS 実質的にあまり相違はありませんでした。
 ただ、チャックとの場合、喧嘩はしても、話し合うことができたと思います。お互いの立場をよりよく理解できたわけでしょうね。今でも残念に思うことは、家内とは意思の疎通が難しかったことです。もちろん僕に責任があります。
 男性どうしの場合、生まれつきかどうか知らないけど、互いに協力し合いながら仕事をするチームワークの能力を身につけていると思います。僕の世代の話ですけど、女性だとどうしても従属的な立場に置かれてしまう。夫唱婦随ってやつですね。僕は東洋の儒教的な家庭環境で少年時代を過ごしたから、ことさらにそうでした。
 僕の母親は大正末期に日本での高等教育を受けた医師でした。あの頃、日本の医科大学を卒業した朝鮮半島出身の女性は稀だったと思います。母が高学歴、高収入で事実上一家の稼ぎ手ではあっても、夫権が強く、父が常に家庭に君臨していました。それでも、家庭内の財布の紐は、彼女がしっかり握っていました。
 アメリカではそれがずっとあいまいです。見た目は女性尊重で、車のドアは夫が開け、食卓に着席する奥さんの椅子さえも夫が支えたりしますが、夫が財布の紐を握っている家庭がざらです。アメリカの女性は弱い。
 僕の場合、すべてを家内に任せたのが後日問題を引き起こしました。文化衝突ですね。
 チャックとの場合、僕にはそのようなジェンダー・バイアスがありませんでした。彼が財政的には僕に「任せる」傾向があったにしろ、問題が起きる前に僕たちは話し合えたから。
伏見 チャックさんとの関係で、どちらかが主導権を握っているということはないのですか? あるいは役割分担というのがあったら教えてください。 
TS 一緒になった当初は恋人関係というよりも、父子関係に近かったと思います。徐々に対等な恋人関係に変化していきましたけど。財政面だけは今でも主に僕の担当ですが、生活運営の主導権は彼が握っています。たとえば、僕の衣類は全部彼が選択し、買います。贈り物や交際のスケジュールもそうです。皆がトムはチャックの尻の下に敷かれているとも言います(笑)。
 以心伝心で、今では役割分担は意識しなくなりました。もう十年以上喧嘩していません。
 
ふたりが
直面した困難

伏見 チャックさんとの関係でこれまで直面した問題は何でしたか?
TS 何しろ37年の同居生活ですから、いろいろなことがありました。ほぼ10年ごとに問題と役割が変わっていったと思います。問題そのものよりも、覚えていることは、二人で金銭に苦労して、遊んだり飲んだりする機会があまりなかったことです。
 同居し始めてから、少しずつ周りに仲間ができました。ほとんどが相棒と生活するカップルばかりでした。ただし、僕たちはアウトするのが遅かったから、仲間に入れてもらうのは苦労しました。サークルが既に完成していて、入りにくく、二年くらい掛かりました。
 親密にしていたごく内輪なサークルの仲間は約25組。その外側に75組くらいのカップルがいました。その連中が第1期、第2期の20年を通じて僕たちを支えてくれました(僕たちの仲間は酒場にはほとんど出入りしません。社交のすべては個人家庭での催しなり夕食なりへの招待を通じてだけです)。
 第1期(1970─80)は、別居したにしろ、生活能力に乏しい家内を経済的にも援助する努力、娘二人の学費と生活費の捻出、そして僕たち二人の生活をまかなうための収入と支出に悪戦苦闘する時期でした(家内とはほぼ40年後の今でも、離婚していません。結婚形態はわざとそのままです。彼女にとっての老後社会保障年金の思惑もありますから)。
 第2期(1980─90)になると母親二人の介護問題が本格的になりました。それから、僕の定年退職が1987年でしたし、ある慈善財団の慈善基金運営の隠居職に転じる過程でもありました。ともかく第1期と第2期の20年間は金銭的に火の車でした。僕たち二人とも職員食堂で食事する金すらありませんでした。今になっても、僕はチャックが苦労を共にしてくれたことに感謝しています。僕にとって責任は責任でしたから。赤貧洗うが如しでしたが、面白いほどカップルの友達ができました。飾らない貧乏生活だったから、案外友人ができやすかったのかもしれない。
 社交生活が下火になったのは僕の母を韓国から連れてきて、チャックの母と、二人の母を世話することが重荷になってからです。友人たちとの交渉から遠ざかりました。こちらの不文律では「招待しないと招待されな」くなります(もともと、社交には金がかかりすぎます。ケチなことを言うけど)。
 第3期は1990年以後。1990年にチャックの母が、1995年に僕の母が亡くなりました。相談した結果、二人ともチャック一家の墓に葬りました。それまで、チャックの叔母や伯母たちが次々に亡くなり、僕は毎度葬式に参列したので、僕たち二人の関係を知らないチャックの親類はいなくなりました。1995年の僕の母の葬式を境に、僕たち二人は落ち着いた、平和な生活を営むことになりました。
 第4期に僕たちはもう入りました。僕は心臓発作で1998年に倒れましたが、幸いに回復しました。2000年以後(僕の古希以後ですね)、社交生活からほぼ完全に身を引き、チャックと僕たち二人だけに焦点をあてた生活になりました。友人たちとの饗応はもうあまりやっていません。
 僕たち二人ともカトリック教徒であるせいもありますが、教会でホームレス青年たちの世話をする奉仕事業に関係して、毎日を送ることになりましょう。
伏見 トーマスさんもチャックさんも、それぞれカルチャー・ギャップのある、血のつながらない母親の面倒を見ることになって、カップルの間で感情的な問題は生じなかったのでしょうか。
TS 最初の10年間、(第1期)、寡婦になった僕の母はソウルで開業医を続けていましたから、僕たちの生活とはあまり関係がありませんでした。ですから、チャックの母の世話だけが専らの努力でした。
 僕の母が痛風で1979年に倒れて、僕たちは入国手続きに苦労したあと、1981年に彼女をアメリカにつれて来ましたが、チャックが親身になって世話してくれました。二人で一緒に全てに直面したから、感情的な問題は全然ありませんでした。「僕の母だけを世話していたので済まなく思っていたけど、君の母が加わったから気が楽になった」と、チャックが語ったことがあります。
 僕たちの結びつきを強固にしたのは、母親二人の世話でした。それに、息子が母親の入浴や大小便の面倒を見ることは、僕たちの共同作業だったからこそ持続的にやれたのだと思います。一人だけの作業だったら辛かったと思う。
 東西の文化断絶はあるかもしれないけど、チャックのアイルランド、家内マリカのギリシャ、僕の背景にある日本、朝鮮の文化に共通点が多いのも事実でしょうね。家内マリカの母はギリシャのスパルタ区域出身で、僕の母がマケドニアの北あたりに住んでると誤解してました。How is your Mother in Europe?(欧州のお母さんはどうしてるの?)と僕に聞くのが、家内の母の口癖でした(笑)。
伏見 ゲイのカップルはなかなか関係を継続することが難しい、と日本のゲイたちは実感しています。アメリカの、トーマスさんの周囲のゲイたちはどんな関係性を構築しているのでしょうか?
TS 関係の継続性に関するご質問ですか。僕たちのまわりのゲイ・カップルにはいくつかの特徴があります。
 第一の特徴は学歴、生活の知恵、金銭の扱いに関する点です。
 僕のまわりに「定着したゲイ」は、昔のカウボーイです。何でもやってのける。おおむね、高学歴で、料理、裁縫、大工仕事、左官仕事、自動車修理など暮らしの知恵が豊富で、金銭の取り扱い方、すなわち投資が上手であることでしょうね。
 親友のデリックは軍隊でMedic(衛生兵)をやったあと看護士免許をとり、医学大学で看護学の教授をしていましたが、今では全米医師検定試験をやる公社のコンピュータ運営を受け持っています。料理が上手だし、裁縫がうまい。夜会で誰かが着ているシャツや上着を気に入ると、帰宅してから同じような服をさっさと裁断して縫い上げる。数日後、それを着て出勤する猛者です。15年前に郊外で買った家も造作を全部自分で作り直したし、現に僕のコンピュータのメンテナンスも彼がやってくれています。
 それから、別の友人たち、デイヴィッドとアンディの二人が居ます。フィラデルフィア都心の白人と黒人の混住区にある、一般白人が見向きもしなかった三階建てのロウハウスを1950年代後期だったかにたった2万8千ドルで買って、二人で内部をすっかり改造してしまいました(二階居間の便所に洒落た洗面器が据え付けられていて、下水パイプが露出してました。そのパイプは純金製でした)。共稼ぎの生活でしたから、相当な購買力を二人が持っていたことも事実ですが。稼いだ金は株と不動産に投資して、現在はアパート・ビルディングを数軒もっていますし、最近お隣のロウハウスが売れましたが、300万ドルで売れたことを新聞で知りました。お分かりになるでしょう? 元値の10倍です。
 まとめて言えば、金銭の取り扱いが上手なこと、共稼ぎで可処分所得が大きいこと。
 第二の特徴は、皆がちゃんと住宅を持っていること。
(僕たちの交友範囲に限りますが)自分たちの家屋を買って、洒落た、行き届いた生活環境を作り、ノンケ夫婦よりももっと気品のある中流生活をしていることです。これは請け合えます。こちらの友人たちの住む住宅を見せたいものです。貴方たちには想像できないことでしょう。隠されている事実ですから。僕たちには原則として扶養する子供がいません。そして二人とも稼ぎがあります。住居が充実していることは関係の持続にとって重要だと思います。
 第三の特徴。遊び方が上手なこともあるでしょうね。
 彼らは馬車馬みたいに年がら年中働いていません。年に数度は何処かに一緒に遊びに旅行しています。欧州、カリブ海、ギリシャの島々、アフリカ沖の群島、タイ、インド、イビザの島。コッド岬、ニューヨークのファイア・アイランド、フロリダのキーウエスト、フォート・ラウダデール、メキシコ、ハワイなど。ゲイ専門の遊び場所は腐るほどあります。貧乏な僕たちだって、英国に毎春行くのですから。二人で楽しく遊ぶことは長続きの秘訣です。みみっちく、せこせこしないでね。
 第四の特徴は、僕たちが団結力をもつようになり、政治的発言権をほぼ獲得する過程にあることです。
 フィラデルフィアの推定ゲイ人口は18万だと聞きました。市議会でゲイ保護法がだいぶ前に通過し、パートナーとしての登録が承認されています。性指向に基づく迫害(解雇、侮辱、暴行)が存在しないということは、同居生活が安全でもあることになります。アパートの契約や家屋売買に際しても、差別による忌まわしい事件が起きません。
 第五の特徴は、老齢期における生活。
 僕たちゲイは隠居しても、ノンケ男性のように生きる方向を見失って絶望にそうたやすく落ち込みません(日本でも、隠居するノンケさんは、境遇の急激な変化でタイヘンでしょう?)。遊び方を僕たちは知っているし、元来僕たちは指をさされながら生き延びて生活してきたし、お上の理解ある法的保護なんて考えもしなかったでしょう。だから、僕たちは強いし、面の皮が厚い。僕たちはひっぱたかれて伸びたから、鉄面皮です(笑)。
 第六、最後の特徴は、父母の世話をするカップルが多いこと。
 老いた父母の面倒を亡くなるまでよくみた、あるいは現在よくみている。
 元来、アメリカ社会では子供に親を扶養する法的義務がありません。半世紀前に日本からの旅行者がよく指摘していたことですが、こちらでは暖かい小春日和の公園で、よくみなりの整った老人女性がぽつんとベンチに座って孤独なまま読書していたり、リスや鳩に餌をやっていたりするのを見かけたものです。日本人旅行者にとっては奇異な光景だったと思います。死ぬ直前まで、自分の始末は自分でするという不文律があるわけです。
 この点で僕たちはノンケ男たちと違います。現に、僕たち二人はチャックの母を24年、僕の母を14年ばかり世話しました。僕たちの周りには数え切れないほどのカップルが親に仕えています。これは明言できます。数字をあげることはもちろん不可能ですけど。
 元来日本のノンケ社会でも、年老いた親の世話は事実上は女性まかせでしょう? 「女性」を「ゲイ」に置き換えたらよい。僕たちが「女性的」だとみなされるから、お鉢がまわってくるのかもしれない。既述しましたが、親の世話を二人ですることが僕たちの絆を強固にしたと思います。

浮気の礼儀

伏見 男性どうしにも結婚は認められたほうがいいと考えますか?
TS はい。ただし、宗教的結婚と法律的結婚は混同されるべきではありません。
 法律的結婚に、教会は口出しするべきではないと思います。アメリカ社会では伝統的な理由からその混同が持続していると思います。
 日本社会での結婚は「イエ」を前提しているのでしょう? 僕にはよく理解できないけど。アメリカの僕のまわりにいる第四世代の友人は曾祖父母の名前を知らないし、会ったこともない人がほとんど。僕の世代の移民は親とは生き別れになるのが常識でした。ですから、「イエ」としての観念もないし、固執もありません。親が息子の結婚に口出すなんてもってのほかだとされています(まわりから指差されます。頑固者、息子に偏執する親として)。
 僕たち二人としては法的な保護は欲しいけど、宗教的結婚なんて眼中にありません。アメリカ社会は民主的な社会です。結婚を自己の宗教で定義して、他人に押し付けることは許されるべきではないと思います。
伏見 宗教的な結婚は同性同士には認められないということですか?
TS 謙遜と思慮が足りないキリスト教徒が僕たちのアメリカにはあまりにも多すぎます。
伏見 ところで浮気についてはどう考えますか?
TS 根本的には衛生問題だと思います。乱交的な浮気は非常識ですね。
 カップルの場合、何年も一緒に暮らしていても、礼儀はあるべきでしょう? 礼儀のない愛情って僕には理解できません。「嘘をつかない、隠さない、盗まない。I do not lie, I do not cheat, I do not steal.」というのは、紳士としての最低信条だと思います。もし他の誰かと寝たら、ちゃんと相棒に告げます。告げた結果に関係なくね。だから、37年一緒に暮らせたのだと思う。要するに僕にとって相棒の気持ちへの配慮が至上命令です。もし、誰かと寝たかったら、三人で寝ます。だけど、もうそんな「結構な」機会なんてありません(笑)。
伏見 他の誰かと寝たことで、二人の間で感情的な対立が生じたことはないのですか。嫉妬の問題。
TS アメリカのゲイ社会の面白い特徴は「嫉妬」の扱い方です。ノンケ社会では、離婚するとたいがい口もきかない間柄が普通です。
ゲイ社会はそんな無粋な社会ではありません。離別した相手とパーティなどで遭遇すると、その相手を「This is my ex. この人は昔の恋人だよ」だとか、「This is He with whom I used to live together ten years ago. 10年まえに同棲したカレなんだ」だとか言って、離別した前の相棒「ex」を平気で紹介するのがあたりまえになってます。
 パーティーで、出席している皆が「むかしむかし」マクラを通じて知り合い、関係を持っているなんてことはざらです。これは断言できます。
 そして、別れても仲良くしている例がほとんどです。ノンケ社会では別れが憎悪のもと。ゲイ社会の男たちは別れても「擬似親族的構造」(交友関係)は崩れない。そして、交友の輪は広がり続ける。これは一夫一妻構造と多夫多妻構造の違いかも知れない。エンゲルスだったかが執着したブナルア制度かしらね。今更マルクス・エンゲルス神話でもあるまいけど(笑)。
 別居している家内と僕が40年ぐらい経った今でも行き来しているのは、僕がゲイだからだと思います。
 大体、一緒に寝ることは生理現象にすぎない。
伏見 僕などはとても浮気心が盛んなのですが(笑)、そこでお聞きしたい。それだけ長い付き合いの期間に、チャックさんが他に心ときめく人と出会ったとか、あるいはトーマスさん自身、チャックさんと別れて誰かと暮らしたいと望んだことはないのですか!?
TS もちろんです。もちろんありました。だけどね、僕たち二人の春はあなたたちのより、四半世紀ばかり先行しましたからね。1981年頃(僕たちの共同生活第2期)を境に、僕たちの世界はがらりと変わりました。アメリカではHIV感染者が1981年のゼロからほぼ10年間で8万人に飛躍したからです。
 それまでは性行為が野放しの世界でした。1ドル、300円から360円。日本製品がMade in Occupied Japan. と銘打たれた、米国経済が世界を制覇する時期でしたもの。言い換えれば「米国元禄時代」だったわけですね。
 1981年以前の思い出は夢のようです。ニューヨークに、あのころボビイとエディという二人の友人がいました。僕たちよりほぼ10歳年上でしたが。ボビイはミシガン大学出身の織物デザイン技師。エディは海軍士官学校を卒業したエレベーター会社の主任技師。二人とも太平洋戦争で歴戦した帰還将校でした。
 米国中部の古臭く保守的でホモフォービックな故郷を嫌って戻らずに、除隊後、ニューヨーク市に落ち着いたカップルでした。戦後景気のアメリカでですよ。ニューヨークの金持ち区域CPW(Central Park West)に豪奢なマンションを構え、ファイアーアイランド(Fire Island)のチェリイ・グローヴ(Cherry Grove)に素敵な別荘を持ってました。僕たち Academic Proletariat とは次元が違う暮らしぶりでした。
 フィラデルフィアの夜会で僕たち二人は彼らと親しくなりました。母がアメリカに来る前で、チャックの母親も養老センターに入所して、ある程度、週末が自由だった時期でした。毎春一度、週末にファイアーアイランドに招待してくれたものです。二人で、12年間に毎春一度行くのが楽しみでした。
 金曜日の午後にフィラデルフィアから汽車でニューヨーク駅について、スーツケース片手に地下階段を降りてロングアイランド鉄道駅に移り、セイヴィル行きの通勤列車に乗り込みます。乗り込むのは普通の客車じゃなくて、酒場車。乗り込んだ途端に気がつくのは女性が皆無なことでした。当時僕はまだまだ独り狼たちをきょろきょろ品定めする習癖があったので、カップルには全然関心がありませんでした。
 大きな花束を抱える少年、愛猫を携帯用檻籠にいれて大事そうに膝の上に載せている金髪男、果物籠を下げる中年男、高価そうな背広からネクタイを外したばかりの白髪勤め人、なんとなくひよわな、それでもなめたくなる大学生風の美男子、週末用食物をしこたま入れた籠を横に立つ定着族。列車内の酒盛りは出発まえに始まっていたものです。飲むのはビール。ビールだけ。バーテンダーに支払って、受け取るのがやっとこさ。酷く混んでるから、優雅なコクテールなんて考えられない。チャックと乗り込んだ途端に、誰かが少し呂律が可笑しくなって口説き始めたり、触りだしたのが分かる。そんな具合でセイヴィルまでだべり続けました。身動きができない下半身はお隣に密着している(笑)。
 セイヴィル駅で降りると波止場行きのバスが待つ。波止場でファイアーアイランド湾を往来するフェリーに乗り込む。物好きを除いたら、もちろん乗客は全員ゲイ。
フェリーが快速艇なのは当たり前。15分ぐらいで、彼方にタジマハールのようなベルヴェデール・ホテルが現れ、チェリイ・グロウヴ村のコンクリート堤が見え出す。
 レインボーフラッグが夕風にへんぼんと翻り、ムウムウを纏う青年たちが出現、パトカーが横付けになってることさえある。パトカーとは呼べるものの、警官全員がゲイじみている。ノンケには見えない。村内は自動車禁止。走れるのはパトカーと救急車だけ。
 5時頃友人の別荘についても、あの村の夕食時間はいつも8時以後でした。それから連続飲み放題、食い放題のパーティー。一晩に友人宅10軒を飲みまわったものでした。
 あの頃、朝晩、あの村の浜辺じゃほとんど誰もが全裸。町外れの松林が「ミート・ラック、肉陳列棚」、月もない真っ暗な林に入ると、あそこにぶらさがった小さな燐光輪が暗闇に散らばってる。よく抱きつかれたものでした。
 しかし、1981年頃、そんな雰囲気がエイズの恐怖で突然消えました。
 その恐怖は僕たちの間では失われていません。毎週、お葬式に出席したから。アメリカのファッション産業が壊滅したとも一時騒がれました。僕たちが今、品行方正である理由の一つは、病気が怖いからです。
 食指が動く凄まじい標本が目前にいるとしても、病気が怖い。標本の群れはね、今でも存在はしますがね(笑)。

フィラデルフィアの
ゲイライフ

伏見 ゲイカップルのセックスライフは年齢とともにどうなるのでしょう? ご自身の経験からでも、友人、知人の経験からでも。
TS 親密に性の問題について話す相手は相棒のほかにはいません。頻度、機能が歳とともに落ちるのは当たり前でしょう。僕だって古希以前は別の世界でした。古希を過ぎたら、人生視野の焦点が移ってきたと思います。性はそれほど重要でなくなりつつあります。僕にとってはそれで良いのです。ただし、僕は十分に機能しています(笑)。
伏見 ゲイのカップルの場合、長い間付き合っていると、相手が性的な対象ではなくなってしまうというケースがよく語られます。関係が性愛的なものから家族的な情愛に変わってしまう、と。そのあたりについて経験的に何か助言していただければ。
TS 僕の場合、娘二人のことで常に頭が一杯でした。そして、チャックのことを第二次視する傾向があったことは事実です。その結果としてチャックに欲求不満が生じたかも知れませんね。反省いたします(笑)。
 ノンケ生活ではたしかにそうでしょうね。女性の場合、更年期の問題がありますし。子供ができたあと、関心が子供に移るわけでしょうね。僕たち二人にはそのような老齢期経験はありません。
伏見 アメリカのゲイカップルはそんなに安定した関係を築いているのでしょうか? 男女の離婚率は日本よりもアメリカの方が高いわけですが、それに比べてゲイどうしの場合、あまり別れたりするケースがないということですか?
TS 僕がもしアメリカのゲイ・カップルが安定した関係を築いていると申し上げたら、言い過ぎだと思います。限定された環境のことだけを話しているのですから。僕はフィラデルフィア郊外の連中についてのお話しかできません。他の区域と他の世代からは隔絶しているからです。そして、フィラデルフィアは小都会めいた田舎でもあります。
 僕の印象では、都市のゲイバー中心の若い人たちには三日恋愛が多い。まるで回転ドアです。そういう環境に僕は浸っていないから、よくお話しできないけど。それに、この前訪日した時に感じたけど、日本には「居酒屋」めいた集団が散在している。あなたたちの「居酒屋文化」でマスターが演じる役割はもっと調査されるべきでしょうね。アメリカではそんなに制度化されてないし、設備投資が豊かな酒場がそんなにない。新宿には圧倒されました。
 老けた僕たちの仲間は、少なくても十年の共同生活の歴史をもつ者が多い。同棲二十年は序の口です。繰り返しますが、僕たちは酒場に通わない。通う必要もない。
 「離婚」は稀です。僕たち仲間の離婚率でしたら、ノンケ・グループよりずっと低いでしょう。40年同棲、50年同棲なんて珍しくもないから。だから、日本と違って、要求として、フェアな遺産相続、養子養育の権利、相棒が病気になった時、瀕死の場合でさえ拒絶されてきた臨床権利などが表面化するわけでしょう。
伏見 一人の相手とパートナーシップを続けることはどんな意味があるのでしょうか?
TS 今年の8月15日に定年退職するまで、僕の相棒はトラピスト僧みたいに、午前三時起床、祈祷、朝食、午前四時十五分出勤の日課を繰り返していました。僕は彼の出勤寸前まで寝るけど。見送るために、僕は起きるわけです。
 退職したら、僕たち二人は教会の地下食堂でホームレス青年のための給食活動を続けるつもりです(ただし、付け加えますが、僕は彼のようなモーレツ・キリスト教徒ではありません。無神論者に近い、完全なグータラ教徒です。これで丁度よいのです。二人ともモーレツだったら、どうなるかな?)。
 今後何年僕たち(ことに僕自身)が生きるか分からないけど、ホームレス青年たちの給食世話を主にしてやっていくつもりです。
 二人の母親を亡くなるまで二人で面倒みたし、娘二人もどうやらうまく育て上げて社会に出しました。そして40年近く前に別れた家内とも断絶せずに援助を続けてきました。今では家内は難問題に遭うと、チャックに電話してきます。そんなふうに、間違った結婚をした責任をできるだけ、そしてある程度果たすことができました。
 そうできたことに、僕たちのパートナーシップは意味があると思います。もちろん、これは個人としての意味ですけど。
伏見 お二人の関係がずっと続いてきたことに、信仰心による倫理観のようなものは影響されていると思いますか?
TS 僕たち二人が少年時代からCatechism(公教要理)を叩きこまれて育ったのは事実です。
 成長する過程で、それに反発したこともね。僕の場合、あの太平洋戦争中、日本の軍国主義に反抗し、いやな民族蔑視を経験し、少年ながら朝鮮独立と僕の民族の自由と解放を夢見ました。美濃部達吉の「憲法撮要」を読んだのは中学二年のときでした。
 たどるべき道を模索しては教会堂の暗闇で聖ヨセフの聖像の前に跪いて泣きながら祈り続けた思い出があります。その教会が教えてくれたことは、「愛する」ことは、所詮無条件に「赦す」ことでした。「絶対に憎まない」ことでした。
 アメリカに来て、かつてのJap憎悪時期に、「お前はJapだろう?」ってよく訊ねられました。その時、「僕はJapじゃないよ。僕はKorean 朝鮮人だよ」と逃げるのは容易なことでした。僕の良心はそうやって逃げる臆病を絶対に許さない。許さなかった。
 僕は沈黙を守りました。僕の良心を護るためにね。逃げなかったことだけは誇りに思います。それだけは、教会が教えてくれた信仰です。
 「You are a fag, ain’t you? テメエ、ホモやろな?」と右拳を握り締めた奴から、憎々しげに訊ねられる日が来るかも知れませんね、今の原理主義的アメリカでは。その暁、勇気と、正義に関する信念は必要なことでしょう。
伏見 振り返って、チャックさんとの生活のなかで得られた最高の喜びは何でしょう?
TS 37年間二人で、常に一緒に歩けたことです。独りでなく二人で。
伏見 日本の若いゲイカップルにメッセージを。
TS 僕たちに比べてあなた達はずっと恵まれた世代かもしれません。ただ、「愛の重要さ」を見失わないようにね。抹香くさいことを申して済みませんけど、聖パウロの言った言葉が僕は好きです。
「愛は寛容にして、慈悲あり。愛は妬まず。愛は誇らず、たかぶらず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を念わず、不義を喜ばずして、真理の喜ぶところを喜び、おおよそことしのび、おおよそこと信じ、おおよそこと望み、おおよそこと耐るなり。─げに信仰と希望と愛とこの三つのものは限りなく残らん、而してそのうち最も大いなるは愛なり。」
(コリント前書、13:4─7、13.)