2007-11-08

QJ 寄稿・じゅんこ「カマ護士は見た!」その2

55.jpg● 仁義なき戦い・前編

 毎月の中頃になると、わがホームには、泣く子も黙る恐怖の痴呆老女がショートステイにいらっしゃいます。
 彼女の名前はマリコ。
 並み居る痴呆老人たちの中でも彼女の破壊力は、他の追随を許しません。先に登場したウメさんやキミエさんのような強烈な老人を相手にしている職員たちも、このマリコさんにだけはいつも敗北を喫してきたのでした。
 日中のマリコさんは、ニコニコと笑顔が絶えない一見優しそうな老女ですが、夕刻を過ぎた頃からその姿は豹変します。

 その日も、アタシがいつものように夜勤で出勤すると、ショートステイ用の居室からマリコさんがニコニコしながら出てきました。
「あら、マリコさんいらっしゃい。今日はよろしくね!」
と明るく声を掛けると、一瞬、マリコさんの顔に不敵な笑みが浮かんだような気がしました。今思えば、あれは間違いなくアタシへの挑戦状だったのです……。
 夕食前に、夜勤者に対して日勤者と看護婦から申し送りが行なわれます。その時にマリコさんについても申し送りがあったのですが、その内容は、これから一晩働くアタシの労働意欲を減退させるのに十分なものでした。
「マリコさんなんだけど、昨日はねぇ、一睡もしてないのよ。それで夜中の二時ごろまで徘徊があって三階の全部の部屋から苦情のナースコールがあったらしいわよ。で、その後は二時間ごとに失禁」
「日中はやっぱりずっと徘徊があったけど午後に熟睡してました。きっと今夜は元気でなかなか寝つけないでしょう。御愁傷様」
 ……ホントに御愁傷様だわ、まったく。アタシが怒りのあまり、
「ちょっと、身体張ってでも起こしといてよっ!」と非難の声を上げたのは言うまでもありません。
 しかし、自分で言うのもなんですが、アタシは割と不眠のお年寄りを寝かせることが得意な上に、今回のマリコさんは眠前にハルシオン(有名な睡眠薬です)の処方があったこともあって、あまり心配はしていませんでした。
 それからアタシは、夕方六時からの夕食の食事介助や、歯磨きと寝間着への更衣、オムツの交換、眠前薬の投与、水分補給を消灯時間である午後九時までに手早く済ませます。と書くとたったの数行ですが、この時間は朝に次いでもっとも忙しく、ホーム内は、大抵は怒声や奇声、泣き声や悲鳴、徘徊の足音などまるで動物園にでも来てしまったかのような騒がしさです。
 そうして並み居る強敵を次々と寝かし付けていきました。
 もっともこの間にも、家に帰ろうと、自分の身体の三倍もあろうかという荷物をよろよろと背負って出てくる素敵なお爺様や、アタシのことを嫁と勘違いして、
「ちょっとトモコさん、貴方まだ食事の準備をしてないの! まったくダメな嫁だねぇ!」
と橋田ドラマにでもなりそうな文句を並べる老女との素敵なラグジュアリータイムがあったのですが、そんなことは、これから起こる惨事の前にはちょっとした前菜、はたまた軽い食前酒程度の些細な出来事でした。
77.jpg 午後九時。各居室を消灯しに訪れると、意外なことにマリコさんはすでにスヤスヤと入眠していました。ただし、自分のベッドではなく、となりのマットレス剥き出しのベッドでしたが。これは意外でした。今まで幾多もの夜、幾多もの職員たちを数々の乱行で苦しめつづけてきたマリコさんが呆気なく寝付いてしまったのです。
 キャーーーーーラッキーーーー!
 アタシはその時、ウエディングドレスを着た花嫁よりも幸せな顔をしていたことでしょう。死ぬほど忙しくても、腐るほど暇でも夜勤手当はまったく変わらないのですから、暇な夜勤ほどお買い得感がある勤務はありません。
 しかし、アタシのこの時の喜びは、思いっきりぬか喜びだったのです。
 午後一一時。深夜のオムツ交換を終え各部屋の巡視をします。いつもなら朝と勘違いして「おはよー」と清々しい顔をして出てくる年寄りが必ずいたりするのですが、今夜はそんなこともなく、気味が悪いくらいに平穏な時間が続きます。しかし、だからといって職員が思いっきり爆睡するわけにもいきません(注1)。この貴重な時間をどう使おうか思案した結果、アタシは普段忙しくて出来なかった入居者の生活記録や、ケアプランの下案の作成などを済ませるべく、寮母室の机に向かうことにしました。
 じーっと座って行なうデスクワーク、しかも真夜中。カフェイン剤を服用し(まくり、だって効かないんですもの)書き物を続け、ふと時計を見るともう午前一時。再び、巡視の時間です。何年も仕事をしていると誰がどこで何をしているのかがある程度、音で分かるようになってきます。あ、サイゾウさんがポータブルトイレ使ってる。とかキクさんが目を覚ましている、などなど。しかし、それでも捉えられないような変化や急変がないかを巡視でカバーします。
 書き物をしている机はフロアの中で一番音を拾いやすい場所でした。しかもフロアの大半を見渡すことが出来ます。アタシの耳にはいかなる特変も感知されませんでした。
 ところが、巡視に行こうと寮母室を出ようとしたところでナースコールが鳴りました。女性トイレからです。特別何の音もしなかったし、恐らく備え付けのトイレットペーパーが切れたか何かだろう。と思い、トイレットペーパーを片手に女性トイレへと急行しました。
 現場に向かうと入居者の一人で、職員たちや他の入居者から影で「女帝」と呼ばれるヤマコさんがいつもの三倍の音量で怒ってます。
「ちょっとこれ見てよ! トイレの床が尿塗れよ!!」
 現場は凄惨な様相を呈しておりました。
 床には尿が溢れ、トイレットペーパーは仙女の衣よりも長くビロ〜ンと垂れ下がり、たっぷりと尿を吸っておりました。
 ヤマコさんは、
「きっとあの人よ。マリコ! あの人いつもそうなのよ。まともにおしっこしたことないんだから」
と、怒り心頭です。
 アタシはとりあえず、怒れる女帝をどうどうとなだめ、女性トイレの復旧に努めます。
 ところが、女性トイレの床をモップ掛けし、トイレットペーパーの交換を済ませ、「ふぅ。終ったわ」と額の汗をぬぐった時のことでした。
 別の場所で、マリコさんは幕府の隠密よりも静かに、しかしドラァグクイーンの衣装よりも派手な行動に出ていたのです。
 「きゃーーーーーーーーーっっ!」
というけたたましい叫び声がフロア中に響きました。
 何事!?
 アタシは慌てて、声がした部屋の方に急ぎます。すると、マリコさんが自分の居室ばかりでなく他の人の居室にまで侵入し、
「起きなさーい! あはははははは」
と満面の笑みで寝ている人の布団を剥ぎまくっていたのです。
 真夜中に響き渡る笑い声。そうでなくても眠りが浅く、夜中に起きてくることが多いお年寄りの巣窟です。その声に反応して、ワラワラと涌いて来るかのごとくいろいろな方が起きてきます。
 マリコさんの両脇には同室者のアイコさんとサトコさん。二人とも夜中になると不安になるのか「家に帰らなきゃ」と繰り返し訴えてくるタイプの方々です。更にアタシの後ろに目を向けると、野次馬根性旺盛な女帝、ヤマコさんとその取り巻きのヒロコさんとオリエさん。実に厄介なメンツがアタシの周りを取り囲みました。
 こうなってしまっては一人ずつ、丁寧に説得して入眠してもらうなどという悠長な時間はありません。アタシの後ろの女帝率いる「ホームのスケ番三人組」は、先程のトイレ事件と今の奇声で、マリコさんに怒り心頭です。
「いったい、アンタ、何時だと思ってんのよ!」
などと厳しい罵声がバシバシ飛んでいきます。
 まずい。非常にまずいわ、この状況……。アタシは焦りました。何せマリコさんは自分に対して高圧的な態度を取った人がいると烈火の如く暴れ出すのです。これは短期決戦でどうにか収めなくては。そう答えを出したのと同時にアタシはすぐさま行動に移りました。まずはくるっと踵を返し、三人組に、「もういいでしょう、っていうか貴方たちの声も相当迷惑です。寝て下さい」と鋭い口調で牽制します。
 三人組は一瞬怯みましたがなおも、「だって……」などと口撃を続けます。
「いいかげんにして! この人に今何言っても意味が無いのは貴方たちなら分かるでしょ。てか夜なんだから寝るの。おやすみなさい!」
 アタシはウダウダ言う三人にカッと目を見開き、一喝しました(注2)。
 すると三人はアタシの強い態度に屈したのか部屋へ戻って行きました。
 そうなると残るは三人です。まず、両脇にいたアイコさんとサトコさんにカーテンを開けて外を見せ、
「そとはまだ真っ暗だし、こんな時間に起きてたら明日寝坊して家に帰りそびれちゃいますよ?」
と諭すように言いました。
 するとアイコさんは「まだ夜中なのね」と一言言ってベッドに戻って行きました。
 サトコさんも程なくして大きなあくびをし、素直に部屋に帰りました。
 しかし、一人残ったマリコさんだけはその光景に怯むことなく、それどころかまた新たな仲間を作るべく、ニコニコした顔で、
「みんな朝よー」
と歌いながら他の入居者を起こそうとします。
 このままじゃあ絶対この人寝ないわね。そうだわ、とりあえず寮母室にいてもらいましょう。さて、マリコさんをいかに寮母室まで連れだそう。相手は人間です。犬やネコのように首根っこ捕まえて、「ほら、行くわよ!」というわけにもいきません。
 そうだわ! お菓子とお茶で手なずけちゃいましょう。
 名付けて「ゴキブリホイホイ作戦」などと考えながら、マリコさんに、
「あっちでお菓子とお茶でもどうですか?」
と尋ねました。
 すると、マリコさんは嬉しそうに「お菓子あるの?」と聞いてきます。
 よっしゃーーー! 食いついたわ!
 「ありますよ。じゃあ一緒に行きましょう」
とマリコさんの手を引いたところ、彼女の顔が夏の夕立前の空模様よりも早く一気に曇りだし、いきなり、
「キャ〜〜〜〜ッ! 誰か来ておくれぇ〜、殺されるぅ〜!」
 一気にアタシはパニックです。深夜、老女とはいえ女の手を強引に引っぱろうとするオトコ(アタシも一応)って、変質者じゃない!(そんなので捕まるのはいくらなんでも嫌……)
 仕方がないわ、かくなる上はアタシの超必殺技、「抱え込んでの高速移動」でマリコさんを寮母室に連れてっちゃいましょ♪
 敵も負けじと身体を硬直させたりしてアタシの行動に抵抗します。が、力比べになれば、オカマとはいえオトコのアタシが老女に負けるはずもなく、三〇秒後には寮母室に連行成功。
66.jpg 大半の入居者は、夜間騒いだりして寮母室行きになっても、職員の夜食などを差し出されたりしているうちに大概落ち着き出し、一五分後には静かに部屋に帰っていきます。しかし、マリコさんは一向に諦めません。寮母室にいる間中、出したお菓子とお茶だけはしっかりと飲み干しておきながら、
「何すんのよ!」
「アンタの事を警察に言うよ!」
などと騒いだり、
「アンタそんなにアタシ(の身体)が欲しいのかい?」
と凄んでみたり(お願い、それだけは言わないで)。
 はたまた、足をバタバタ動かしながら「足が折れた!」と訴え続ける。という理解不能なパフォーマンスを延々と続けていました。
 もはや、こういう状態の人に何を言っても意味がありません。それどころか何か言えばかえって相手を興奮させてしまいます。アタシは自分の耳の中で、マリコさんの壮絶なまでの罵詈雑言を一切「単なる音」という風に処理し、ただひたすら彼女の不穏の嵐が通り過ぎるのをじっと待っていました。
 三〇分程するとマリコさんの声のトーンは見る見るうちに小さくなり、一時間ほど経った頃にはウトウトとしていました。
 時計を見るともう三時。再び巡視の時間になりました。アタシも寮母室を離れなくてはなりません。マリコさんもすっかり平静さを取り戻しているし、そろそろ寝かさないと今度は朝方起きて来なくなっちゃうし。そう考え、ウトウトしているマリコさんに声をかけ、巡視がてらに居室まで送っていくことにしました。マリコさんは寮母室に連れてきた時とは打って変わって、天気の良い日の波打ち際の波よりも穏やかな表情をしています。
 ふぅ。これなら大人しく寝てくれそうだわ。後は、「おやすみなさい♪」で終了ね。そうアタシが確信したその時、大人しかったマリコさんはしたたかに「復活」を遂げたのです!
 「いやぁぁぁ!」
と大声を上げ、このアタシを背後から鋭い爪で引っ掻きだし、続けざまにパンチ、キックを繰り出してきました。
 マリコさんのあまりに激しい抵抗にアタシが苦戦していると、再び、あたりの居室から寝ぼけ眼の入居者達が涌いて出てきたのです。まるでゾンビにようにゾロゾロゾロゾロ……。
 その光景に、アタシは完全に力尽き、マリコさんの前に膝を屈したのでした。

● 仁義なき戦い・後編

 あれから一ヶ月。
 アタシはマリコさんとの死闘には完敗を喫したものの、その他の夜勤や日勤では、あのような醜態を晒すことなく無事にやってこれていました。
 ところがまた、その日はやってきたのです。ショートステイの利用予定表を見ると、今度のアタシの夜勤に再びマリコさんが来るではありませんか! しかも、一番落ち着きがないステイの初日。
 アタシは誓いました。今度こそ、オカマの意地にかけて、ショート利用のお年寄りを手懐けるのが一番難しい初日の夜勤で、マリコさんを完膚なきまでに熟睡させ、平穏無事な夜勤をこなしてみせるわ、と。
 そして当日。前回のアタシの夜勤での出来事があったからなのか、マリコさんの眠前薬のハルシオンは以前のよりも有効成分量の多い青玉に代わっておりました。
 今回のマリコ対策はそれだけではありません。まず、アタシは夕方から消灯の一時間前までの間、マリコさんと割と波長の合いそうな入居者を幾人か彼女にピッタリとつけ、一緒に徘徊させることで、彼女の体力消耗を謀りました。
 さらに、水分補給の時にはいつもならお茶を飲んでいただくのですが、マリコさんには精神安定効果の高いホットミルク(カルシウムっていいらしいですわ♪)を飲んでいただきました。
 今回はそれだけではありません。アタシは前回の闘いを踏まえて、ありとあらゆる方法を使ってマリコさんに勝利する策を練っていました。その一つの武器として、あるアイテムを自腹を切って用意しました。その名は、コーララムネ。そうです。駄菓子屋などで三〇円で売られている筒型の入れ物に入った胡散臭いコーラ味のラムネです。
 マリコさんは割と薬が好きな方のようで、時折夜中に「眠れる薬を下さいな♪」と寮母室を訪れることがあるとの話を聞き、アタシは、彼女に「プラセボ(プラシーボとも言います)」を謀ってみようと思ったのです。「プラセボ」とは簡単に言ってしまえば、人間の「思い込み」を逆手に取ることで、効果のない薬や治療法を効果のある物に仕立て、実際に効果を上げてしまう、という意味です(注3)。
 案の定、マリコさんはアタシが使った「コーララムネのプラセボ」に気付かず、錠剤の薬と良く似た形をしているラムネでコテッと寝てしまいました。
 しかも、今回の夜勤は前回と違い、マリコさんの部屋には他に誰も寝ていません。マリコさんは他の入居者に対して何かの行動を取ろうとする場合には必ず一度、廊下に出てくる必要があります。しかしアタシは、前回の反省を踏まえ、マリコさんを始めとする入居者の居室の方に意識を注いでいます。今度はどんな小さな足音でも耳で感知することが出来ます。
 作戦は完璧でした。
 午後一一時に一度、マリコさんは寝ぼけ眼で起きて来ましたが、その時すかさず先程飲ませていなかった本物のハルシオンを服用させ、再び彼女を熟睡の海へと戻すことに成功。
 その後もマリコさんは、午前三時の巡視の時、居室中央に「尿の水溜まり罠」を仕掛けてくる程度の行動しか起こしませんでした。
 そしてアタシの完全勝利が訪れる! 一ヶ月の間待ち望んだその時が来るまであと六時間。朝まで六時間というのは微妙に長い時間ですが、一番の難関である夜間帯を無事に過ごしたアタシには、それは大した問題ではありませんでした。
 痴呆老人の特性の一つとして、「主に問題行動は夕方から夜間に出現することが多い」というのがあります。なぜなのか詳しいメカニズムは分かりませんが、朝方は眠くて機嫌が悪いというのはあっても、夜間帯ほど問題行動(徘徊や奇声など)は多く出現しません。仮に徘徊があったとしても起床時間を過ぎてしまえば、誰がうろうろしていようとそんなに問題ではありません。
 しかし。
 アタシの思惑を大きく裏切るマリコさんの猛攻は、この後始まりました。彼女は闘いの設定を朝方に合わせていたのです……。
 午前六時、入居者を起こし、一時間後に控える朝食に向けてホームはまるで戦場のような状態に突入します。衣服の更衣、洗顔介助、ポータブルトイレの片付け、朝食を食べる席への誘導、食事用エプロンなどの準備、特変などあった人や、申し送られた人のバイタルチェック等々。これらを早番勤務の職員が来るまでの一時間でこなしていきます。
 当然その日の朝もバタバタとアタシは駆けずり回るように動き、寝坊の常習犯の年寄りに目覚し時計よりもけたたましい声で、
「起きろぉぉぉ!」と声をかけたり、起きたはいいが寝ぼけてゴミ箱の中でトイレをしてしまったサトルさんの尿を片付けたりと、膨大な仕事量を着実にこなしていました。
 そんな最中、六時一〇分過ぎのことでした。入居者の一人から、
「大変ーっ! 職員さん来てーっっ!!」
とただごとではない大声で呼ばれました。
 すぐに駆けつけたかったのですが、ちょうどその時アタシは入居者を車椅子へ移乗させるべく彼を抱えている最中でした。時間にして三〜四分後、声がした女子トイレに向かう途中、何やらトイレの方から朝日を浴びてキラキラと光る液体が、真っ直ぐに廊下に伸びていました。
 ん、何これ?
 アタシは光る液体の先を目で追いかけます。するとそこには、マリコさん。そして彼女の股のあたりはぐっしょりと濡れています。ズボンの裾からは、ポタポタと光る液体。そうです、光る液体の正体はマリコさんの「尿」だったのです。廊下に一〇メートル近い尿の川。マリコさんは満面の笑みを浮かべながら、何やら独り言を呟きつつ、その尿の線を少しずつ更新しておりました。
 うげっ、こりゃ大変だ!
 アタシがその光景に一瞬固まってる間にも被害は拡大していきます。
「きゃーーーっっ!」
「何、これは!」
「ちょっと、あの人おしっこ漏らしてるわよっ」
「うわッ、滑った!」
 入居者の様々な声が飛び交う中、アタシは「尿の川」を掃除すべく、雑巾と消毒用アルコールを手に持ち、アルコールをシュッシュと振りまきながら放尿徘徊している敵を追います。しかし、注意力散漫な入居者達が尿を踏んだりして被害を広げてしまい、なかなかマリコさんに追いつけません。
 お、おのれぇ、マリコめぇ……この時間帯を狙うとは! 敵ながらあっぱれ。
 時計は無情にもそろそろ六時三〇分になろうかとしています。これ以上、手をこまねいている暇はありません。アタシは猛然と雑巾掛けのスピードを上げました。
 これでなんとか、マリコさんから伸びる「尿の川」を無事拭き取り、入居者が尿に足を滑らせて転倒してしまうという、カマ護士として情けない失態を生じる可能性はなくなりました。あとはマリコさんをトイレに連れていき、排尿介助を行ない、ズボンを更衣させるだけです。
 そんな時、別の場所からまた新たな大声が響きます。
「おい! メシゃまだかっ!」
 声の主はタキさん。男顔負けの迫力を持つかなりの痴呆老女です。タキさんは朝必ずと言っていいほど不機嫌で、いつもこの時間は自分の周りにいる他の入居者や職員にケンカを吹っかけて来ます。
 何もこんなタイミングにそんなベタなセリフ吐かなくったっていいでしょっ。心の中で毒づきながらアタシはタキさんに向かって、
「タキさん、メシゃまだよーーー!」
と大声で返します。
 タキさんは麻痺などはないのですが、自分で車椅子を漕ごうという意欲がなく、動き回れないので、たとえ誰かにケンカを吹っかけたとしてもすぐには問題になりません。いまはそれよりも「移動性核爆弾」のマリコさんズボンの処理の方が圧倒的に重要です。タキさんの方はこの際とりあえず後回しにしましょ。
 ところが、タキさんはたまたま側に居たエイジさんに向かって、
「何でメシが来ないんだぁーー!」と怒鳴り散らし出したのです。
 げっ、マズイ!
 タキさんがケンカを吹っかけたエイジさんは、このホームで最も短気で凶暴な男性入居者。いくら男勝りなタキさんでも相手が悪過ぎます。エイジさんは若い頃、「御勤め」をしたこともあり、今もその頃の気質をたっぷりと残しているナイスガイなのです。つい最近も、ケンカした相手の顔にアザを作ったばかりでした。エイジさんは度重なる暴力が問題になり、「今度はないですよ」と退寮を最後通告をされています。
 エイジさんの顔はあっという間に真紅へと色を変えていきます。軽い言語障害があり、興奮すると聞き取れない言葉になってしまう彼の言葉は、既に何を言っているのか分かりません。今からニ人のところへ駆けつけても間に合うかは微妙です。
 夜勤の責任者であるアタシ、タキさん、エイジさん、そしてそうこうしている内に再び徘徊を再開し、廊下に地雷を仕掛けるマリコさん。その地雷を踏んでしまい悲鳴を上げる他の入居者たち。阿鼻叫喚とはこのことでしょう。
 アタシはまず、一触即発のタキさんに向かって、
「タキさん、メシはまだ来ないの! 関係ない人にケンカ売るんじゃないの! そんなにメシが欲しけりゃ自分で車椅子漕いで取りに行きなさい!!」
と怒鳴りました。
 するとタキさんの怒りの矛先がアタシに向きかけました。あと一歩で彼女の意識はこちらに固定されます。
「なにぃぃぃ〜〜!」
とタキさんがアタシに対して声を上げたので、すかさず続けました。
「何か文句があるんだったらこっちまで漕いで言いに来なさい!」
 アタシのその言葉で、タキさんのターゲットは完全に替わりました。
 続いて、タキさんに向かって拳を上げようとしてたエイジさんに、鋭い声でこう言いました。
「エイジさんも婆さん相手にムキにならないの! 自分の株下げるよ!!」
 けれども、エイジさんはまだタキさんにその怒りを向けようとしています。
 アタシは更に大きい声でエイジさんを一喝しました。
「アンタその人殴るんだったら先にアタシを殴りな! その人殴ったら承知しないよっ!」
 エイジさんの動きがピタッと止まりました。
 理性が働いたのでしょうか。それともアタシから極道のヲンナようなオーラでも感じたのでしょうか。アタシはエイジさんに一言、「ありがとう」とだけ言いました。
 大きな問題の一つは無事解決しました。
 しかし本題である宿敵マリコさんとの対決が残っています。
 再度、アタシの視線がマリコさんを捉えた時、彼女はよろよろと他の入居者の部屋へと移動しておりました。そしてマリコさんは驚くことに未だに排尿もしているのです。いったい、このババァ、何リットルの量を排出するのかしら!
 アタシは一瞬怯みかけますが、再び雑巾掛けでマリコさんを追い詰めます。
 あと少しで捉まえられる。そのままトイレに連れて行けさえすれば、七時までにはやるべき仕事は終えられるわ。アタシがチラッと時計を見ながらそう考えていた時、目の前のマリコさんが不意にニヤリと笑いました。いえ、笑った気がしました。
 何か嫌な予感……。
 アタシの予感は的中しました。
 アタシがマリコさんに手を伸ばした瞬間、ブッ、ブリブリブリブリブリ〜〜! と
もの凄い音が響きました。そうです……マリコさんはその瞬間、脱糞したのです。
 うっ、くっ、くっさーーーーー!
88.jpg アタシがあまりの異臭に顔を歪ませると、マリコさんは、
「あははははは、出ちゃったーーー!」
と高らかな笑いと共にブリブリと脱糞し、勢い良く異臭が広がりだします。
 これはたまりません。こんなところでこれ以上粗相されてしまっては、みんなの朝御飯は「うんちの香り漂う御飯」になってしまいます。アタシはマリコさんを有無を言わせぬ勢いでトイレに連行します。
「いやー、何するのよーー!」
と彼女は抵抗しますが、はっきり言ってその台詞はアタシの台詞です。
 トイレで、マリコさんのズボンをまるで不発弾の処理を行なうようにゆっくりと下ろすと、ボトボトと落ちる便、便、便。
 アタシが少々たじろぎながらその始末を行なっているとマリコさんの非情なまでの
反撃が始まりました。
「キャーー! 何するのよぉぉぉ!!」と言って激しく身体を揺するマリコ。びちゃべちっぴっっ! 大量の便がトイレの壁やアタシに向かって襲いかかります。うわぁぁぁぁぁぁぁ! アタシが悲鳴を上げて飛来する便から逃れると、マリコさんは、
「誰かーーーー来ておくれーーーー!、いやぁぁぁぁ!!」
と叫びながらトイレの外へ歩き出しました。
 マリコさんは便まみれの下半身を露出したまま廊下を徘徊し、決死の覚悟で取り押さえようとしたアタシに陰部に付いた便を投げて逃走したのです。もはや廊下や居室の床は糞の海へと変貌させられていました。
 刀折れ矢尽き。
 今回もアタシの完全なる敗北で舞台は幕を下ろしたのでした。
(つづく)