2007-10-29

QJ座談会「アザ」と「ハゲ」の政治学 前編

QJ3.jpg座談会「アザ」と「ハゲ」の政治学

初出/「クィア・ジャパン vol.3—魅惑のブス」(勁草書房/2000)

須長史生
社会学者
石井政之
フリーライター
司会 伏見憲明

すなが・ふみお
1966年東京に生まれる。社会学者。主著『ハゲを生きる——外見と男らしさの社会学』(1999年、勁草書房)。

いしい・まさゆき
1965年、名古屋出身。豊橋技術科学大学物質工学課程卒業。99年『顔面漂流記』(かもがわ出版)を刊行し、同時期に顔にアザやキズのある人のセルフヘルプグループ「ユニークフェイス」を設立。初代ユニークフェイス東京代表世話人。今年6月「人間にとって顔とは何か」を考える場『顔塾』をつくった。

「アザ」と「ハゲ」の共有する問題 

伏見 石井さんは当事者として「アザ」の問題を取材して『顔面漂流記』にまとめられました。須長さんは社会学の研究者として「ハゲ」をめぐる諸状況をフィールドワークし論文を著しました。どちらも容貌の問題を男性ということともからめて考察していらっしゃいます。まずは石井さん、須長さんの本『ハゲを生きる』をお読みになった感想などお聞かせ下さい。
石井 読ませていただいて、容貌の研究者で僕が認められる仕事をする人がやっと現れたなと思いました。須長さんの本は、きちんと聞き取り調査をした上で、「ハゲ」、脱毛症に関しての文献を引っぱってまとめられています。読んでホッとしたというのが感想です。
須長 やはり書くときに一番気になるのは、当事者にどう思われるのかということです。「ハゲ」の人たちというのは、ずっと嘲笑や侮蔑の対象でしかなかったわけですから、こちらがいかに真面目なスタンスでアプローチしているのかをわかってもらうのが重要でした。しかし、それでもやはり、自分の中にあるかもしれない嘲笑や侮蔑のようなものが出ないともかぎらない。それが怖かった。その人たちがしゃべったことをちゃんと受け止めて書けたか、こっちで面白可笑しくねじ曲げるような形にならなかったか、という点が一番心配でした。
伏見 須長さんご自身は30代ですが、平均的な毛髪量ですよね。どうして「ハゲ」というテーマで研究しようと思われたのでしょうか。
須長 いくつか理由はあるんですけど、私もけっこう髪型なんかでごまかしてるところがあって、昔から比べると薄くなってはいます。だからといって「私もハゲですよ」なんて言うつもりはないんですが、それでも自分ではずっと気になっていることではあるんですね。それと、大学生くらいになると、「おまえは薄くなった」「いや薄くない」とか友達どうしで話し始めるんです。それはそれで楽しいお互いのからかいなんですけど、考えてみると、年を取って頭の毛が抜けるというのは普通の現象であるのにもかかわらず、なんでここまで熱くなるのか、それがとても気になっていたんです。もしかしたらそこには社会的な要因がからんでいるのではないか、と。社会学をずっとやってきたので、社会学という観点からすると、対象としての「ハゲ」は魅力的で、学問的な興味がそそられました。
 ただ、私の問題意識のきっかけとなっているのは、小学校、中学校の頃に、「人は見かけじゃない。外見じゃなくて中身が大切なんだ」ということを学校の先生とか近所の人とかに言われて育ったということですね。現実は中身じゃなくて外見が問われることが多いのに、そういう言われ方をされてきた。実際、日常的な例で言うと、寝癖がついてるとか、汚い服を着てるとか、昨日と同じ服だとか、いちいち外見は重要なわけです。だから「外見じゃないよ。中身がすべてだよ」というのもウソっぽいし、一方で、「人間、外見がすべてだ」と言うと、それもまた共感できない部分がある。そういうことへの疑問がずっと根底にあったのだと思います。
伏見 石井さんは「ハゲ」の問題と「アザ」という問題は、どこが共有する部分で、どこが違うところだと思われましたか。
石井 僕は顔の「アザ」のことを書きましたけれど、そのときに注意したのは、人間の顔についての考察にあまり深入りしないことだったんです。そこに入っていくとどんどん話が広がってしまって収拾がつかなくなってしまいます。ですから、あくまでも顔に「アザ」のある人の話を書くというスタンスを通しました。しかし、本を出してみると、首から上の問題を抱えた読者からたくさん手紙が来るんです。顔面麻痺、頭蓋骨変形、耳が小さい、火傷……。びっくりしました。アザ以外の何かが顔にある人たちにもインパクトがあったのかと、後で知った次第です。本を出してから頭に毛がない人、脱毛症だとか「ハゲ」の人たちについても真剣に向き合わないといけないと気づきました。ちょうどそのときに須長さんの本が出たんですね。自分の本の執筆中には、頭に毛がない「ハゲ」の人の問題については、ほとんど情報は集めていませんでした。
伏見 僕も最初に同性愛とセクシュアリティをテーマにした本を出したときに、他の性的少数者の人たちから連絡をいただきました。それこそレズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー……みなさんいらっしゃって、だんだんとネットワークが広がり、それぞれの紐帯が強化され、さらにそのうち敵対したりもして(笑)、現在は群雄割拠の時代に突入しております。それはともかく、一つのテーマを掲げると、近接する問題を抱えた人たちが集まってくるという現象はあるんでしょうね。でも、その人たちがすべての問題を共有してるわけじゃないんだけど。
石井 もうちょっと言うと、ありようはそれぞれ個別なんですけど、外見に何かシンボリックなものが存在しているために差別されたり侮辱されたりする人たちには、かなり共通した問題があるのも事実です。
 まず第一にじろじろ見られます。普通の顔をした人にとって僕たちの顔はみつめずにいられない存在なのです。その視線には、好奇心、警戒心、嫌悪感、侮辱などが入り交じっていて、当事者にとってとても厄介なものです。
 第二に、見ず知らずのひとからの質問があります。「なぜそんな顔をしているのか?」と聞かれます。
 第三に、あからさまな嫌悪感を抱かれることです。うつるのではないか、近づいてほしくない、と思うだけでなく、実際にその気持ちを口にだして当事者を責める人がいます。男性のハゲの人はこのような対応をされないと思います。
須長 切実さという点で比較するのは生産的ではないという気もしますが、私は石井さんの本を読ませていただいて、「ハゲ」の人、特にある程度の年齢になって「ハゲ」ていく人々の感じる切実さとは、「アザ」を抱えた人の問題はかなり違うと感じました。
 「ハゲ」の場合薄くなってきたときの寂しさとか、からかわれるわずらわしさとかが中心になってくる、そしてその中でじっと我慢せざるを得ない状況というのが生まれてくるんですが、「アザ」をめぐる経験の過酷さはそんな水準をはるかに超えている。からかいなら、遊びだからやりすぎないとか打ちのめさないとか、仲良しのムードを保つとか、いろいろとルールがあるんだけど、読んだ限りでは「アザ」に対してはそんなの全くないんですよね。関係を維持しようなんて相手は毛頭思っていない。
石井 須長さんの本は、女性や病気による「ハゲ」については対象から外していますよね。いま、僕のところに集まっている人は、基本的に病気の「ハゲ」なんです。例えば全身すべての毛がない、すね毛、鼻毛、まつげ、眉毛などがすべてない人もいます。
 老化にともなう健康的な脱毛と、病気などによる脱毛とでは、当事者の内面の複雑さには大きな違いがあると考えています。女性の脱毛症の人とも交流がありますが、男性以上の心痛を感じないではいられません。

取材のスタンスと方法論

須長 石井さんは『顔面漂流記』の中で、なんで人は顔にこだわるか、顔でその人を判断するか、あるいは「アザ」があるとなぜその「アザ」について聞くんだ、というのを問題意識の中心に据えて、あちこちで聞いてらっしゃいますよね。これは社会学的に言うと、あまりズルくない方法というか、真っ正面過ぎる方法なわけです。私にはその手法がすごく印象に残りました。あともう一つは、これは私自身のスタンスとも関係があるんですが、石井さんがハンセン病の人と話したとき、「私は『アザ』のある人間だから、『アザ』のある人間が話を聞いたほうが、普通の人がインタビューするよりも深く聞けるんだ」というのをこだわりとして持ってらっしゃって、それで差別される人々に話を聞いています。話を聞く作業をしたときに、自分にそういう痛みが実感としてあるから聞けたんだというような、あるいはわかり合えたんだというような点があったのでしょうか。私の場合は、自分の中では「ハゲ」について思うことはいっぱいありますが、ただ、インタビューをさせてもらう方々からすれば、こんなにいっぱい髪の毛があって、何も言われない人が取材者として来る、というところで、出発点でだいぶ違う。その意味で石井さんの仕事には凄みを感じ、同時に興味を抱きました。
石井 顔にこだわって取材し続けていった行動は、僕にとっては生きていく上で必要なことでした。もし、「人間にとって顔とは何か」「アザは人の心にどんなインパクトを与えるのか」という疑問に対する答えを、誰かが書いていれば僕は本を書きませんでした。この本の特徴は、当事者が当事者を取材するということでしょう。これは作業としてはものすごくキツい。二七、八歳のときに最初に一人か二人のインタビューをやっただけで、疲れ果ててしまいしばらく離れていたんです。ところが、レバノンに別の取材に行ったら、また「アザ」の問題にぶつかってしまったので、これはやらなければいけないと観念して再開したという経緯があります。精神的にも肉体的にも本当に厳しい作業なんですね。僕の精神は耐えられるのかどうか試されたと思います。
 ある人からは、「人の話を聞く前に、自分のことを書いてから来い」と言われました。でもそれはとても真っ当な反応だと思いました。取材することは、まさにストレスとの闘いで、自分の内面を見る闘いでもあり、他人の外面を見る闘いでもあった。自分の内面と他人の外面をつき合わせて、照合して、比較検討する作業もまた葛藤の連続です。その一連の作業は、楽しくはないけれど、その苦しさ以上にやり甲斐はありました。
 僕の社会学についての知識は素人レベルでしかありませんが、たとえば、黒人の取材は黒人がしたほうがいいのではないか、日本人の取材は日本人がしたほうがいいのではないかという信念がありました。当事者の話を当事者が聞くということによって可能になることがあります。相手が言い訳ができなくなる、ウソがつけないということです。須長さんの本の中で、微妙に当事者が逃げてるところがあります。僕の場合は相手がうまく逃げられませんから、そういう部分では取材する上での有利性は確かにあると信じています。
須長 なるほど。そうすると、話を聞いていて相手が逃げてるなと思ったときには、どんどん突いていくんですか。
石井 たとえば「昔いじめられた経験はありませんか」と聞くと「忘れました」と相手が答えることがあります。「ウソだろ、忘れてないだろ」と思って、「僕はこういう体験したけど、そういうのない?」と振ると、やはりうなずきますよね。そこを「もっと聞かせてくれ」と突っ込んでいく。そういうふうに僕には相手が言いたくないことや逃げたいときがわかるから、パッと回り込んで問いかけていくわけです。そうすると答えざるをえなくなる。
 ハンセン病については、日本における顔面に徴(しるし)のある人を差別する原点だという問題意識で取り上げました。日本人として当然やらなくてはいけないことだと思いましたし、しかもまだ解決してない問題ですからね。ただ、彼らは自分たちは感染症だから差別されたということを全面的に押し出して闘っていますから、あえて顔面というテーマ設定でいくのはズレているかなとも思いました。しかし、過去の文献を見ると、顔に出てくる赤い斑模様によって差別されてきたんですね。赤い斑模様が消えていくとマヒが起こって、唇が垂れるなどの変形が出てくる。そういう見かけの変形と変色による差別があった。それが最近の報道ではほとんど触れられていない。ハンセン病の取材自体は、そんなに成功した話だとは思いませんが、僕の個人的な関心から実行しました。僕にとってハンセン病の人は、日本の歴史の中で、顔に何か特徴をもってしまった人たちの歴史を語る生き証人なのです。
伏見 方法論の問題ですが、いま石井さんがおっしゃったように当事者であるがゆえに有利な場合、僕なんかもそういうふうにして相手の口を割らせることってよくあるんだけど、それがうまくいく場合といかない場合がある。ゲイどうしだとホモフォビアがぶつかりあって、逆にコミュニケーションが円滑にはいかなくなるということがままあるんですね。だから、当事者と第三者のどっちが有利なのかなというのは、僕にとっても疑問な部分もあるんですが、ただ、当事者でないとわからないことがあるというのも確かなんです。須長さんはそういう点はどのように考えていらっしゃいますか。
須長 「ハゲ」ると女性にもてないとずっとからかわれて、そういうことばかり言われてきた人というのは、その話を信じ込んでいたりします。まぁ、そういったことは広く信じられている話でもありますが。しかし私のような立場からだと、当事者でないからこそ常識的に言われてきた言説を、外からもう一回洗い直すことが可能です。インタビューしているときも、角度を変えた質問の仕方ができるという利点はあるかもしれません。私たちが研究目的でインタビューする場合、最初に徹底的に勉強して行けよというのは先輩から言われる話で、基礎的な部分を知らないと本題に進めないからインタビューにならないし、相手と本当の共感を獲得するのが難しい。そういう関係性ができない段階でのインタビューは資料として不足がありますし、それでは社会学の研究として評価されない。
伏見 ただ、取材者が学者の場合、「この人は私たちの「ハゲ」を利用して、また出世しようとしてるのね」と相手から思われることもあるんじゃないですか(笑)。でも、それも事実だったりするわけでしょう。
須長 もちろんそういうスタンスで行くわけで、だから最初に立場をちゃんと申し上げた上で了解いただいてインタビューするんですが、そのことは一番大変な作業でした。おそらく相手と親しくなって信頼関係を築くことで乗り越えるんじゃないでしょうか。「何回も足を運んで話を聞いて、信頼関係が築けて、それではじめてインタビューになる」みたいな言い方をしたりもします。
石井 僕は取材対象者と仲良くなろうという気がなかったんですよ。格闘技みたいに、向かい合って、視線と言葉で激しくコミュニケーションすることを企図しました。すると、磁石どうしが同じN極でボーンとはじけるような感じになります。お互いに見たくないし、嫌な記憶を見つめたくもない、ときには反発して、それでもこちらからソロソロと近づくと、とりあえずこの距離なら話せるという距離を見出せるようになります。まったく会う気のない人は僕のところに現れません。実際、当事者のなかには、僕が怖いという人もたくさんいます。過去の記憶や体験を洗いざらい聞かれてしまうんじゃないかと怖がる人は近づいてきません。
伏見 僕らゲイの場合、ゲイのゲイ嫌い、ゲイのホモフォビアというのも濃厚なのですが、社会から負の記号を烙印された人たちというのは、まず基本的に自分が嫌いだということから出発するじゃないですか。だからどうしても同じものを持ってる人というのは、共感より先に見たくないという気持ちが出ちゃうんですよね。
石井 だから僕もこの本を出すときに、「石井さん、頼むから、石井さんの顔写真などは表紙にしないでほしい。本屋さんで買えなくなるから」と「アザ」を持つ人から言われました。そのこともあって、表紙は手でアザを隠す抽象的なイラストにしましたが、その前の原案はアザをさらしたイラストでした。出版社と話し合って、アザを隠すイラストに換えていただくまでハラハラしていました。本の表紙はひとつの例ですが、当事者同士がコミュニケーションするのは、一見簡単そうに見えますけど難しいです。
伏見 須長さんの本のタイトルは、ズバリ『ハゲを生きる』じゃないですか。いまの文脈で言うと、「ハゲ」の人たちが買いづらいという話はないんですか。
須長 それはあると思います。知り合いの人にも「本を買ったらすぐに『カバーしますか?』と聞かれたよ」って言われました。「ハゲ」という言葉はそれ自体すごく差別的で侮蔑的な言葉ではありますが、私は本の中で使用しています。社会の中でそういう不当な扱いを受けてるということ自体がテーマだったわけですが、その言葉を「脱毛的傾向」みたいな形で自分だけ語るというのも、なんだかウソくさく感じられたんです。ですから全部「ハゲ」という言葉で通しました。タイトルもそのままで。

知識とリアクションの貧困

伏見 「ハゲ」という言葉がそれ自体に差別を含んでるんじゃなくて、使う人の文脈で差別的に色付けされるわけですよね。一方で、「アザ」という言葉は差別語として流通しているのでしょうか。
石井 現代においてアザに差別的な意味合いがあるという話は聞いたことがありません。「アザ」で問題はないと思います。ただ、僕の場合、自分の本のメインタイトルには「顔」という言葉を入れたかったんですね。なぜかというと、過去に僕がこのテーマで調べたときに、「顔」というキーワードでいろいろな情報を探し出したので、書名は「アザ」ではなくて「顔」だろうと考えました。
伏見 いまの話で言うと、「アザ」は差別語としてエントリーしていないが、「ハゲ」は認知されているとも言える。
須長 私が研究の対象にしたのは、女の人や、小さい子供が病気などの副作用で髪が抜けてしまうようなケースではありません。そういった症状の人の「ハゲ」の問題は切実で、「アザ」と近いものがあると思うんです。「アザ」を隠すという行為はからかいにつながりにくいと思うのですが、中年、高年の男の人が、いわゆるすだれ頭とかカツラで頭部を隠すと、ハゲ頭自体よりもその行為が徹底的にからかわれる。それゆえに「ハゲ」の人はいっそう「ハゲ」を隠せないというねじれがあるんですね。
伏見 「ハゲ」って笑いが伴うじゃないですか(笑)。でも、「アザ」の場合は、笑えないところがある。子供はともかくですよ、成人した、普通の常識を持った人間だったら、「アザ」に関してはふつう笑えないでしょ。
石井 「アザ」のある人を排除する言葉として、「気持ち悪い」「お化け」というふたつの典型的な表現があります。たしかに、顔に「アザ」があると、「ハゲ」の人を見たときのように屈託なく笑うということはありません。それよりは人間以外の何者かを見てしまったような、ホラー映画を見たときの「ウワーッ!」「オーッ!」っていうリアクションと感じじゃないでしょうか。四谷怪談のお岩さんみたいな人を現実に見たぞという意味でのスリルを含んだ笑い。畏怖の念をはらんだ笑いです。
伏見 「ハゲ」だとこっちも余裕を持って「あぁ、頭の薄い人なんだ」と眺められるけれど、「アザ」の人の場合、例えば、僕が石井さんと向かい合ったとき、どこに視線を置いたらいいか、どの程度顔を見たほうがいいのか、あまり「アザ」から目をそらし過ぎても怒られそうだとか(笑)、いろいろなことを考えてしまうわけです。つまり慣れてないということがひとつありますね。
須長 「アザ」に関しては我々の側に「知識の貧困」というのがあります。痛いのか、病気をしたのか、うつらないのかなどいろいろと推測はするけれど、知識がないから対応に困ってしまう。こちらの「感受性の貧困」という問題もある。あとは伏見さんがおっしゃったように、「リアクションのストック」がない。いわゆる「ブス」の人とか、背の低い人とかはいっぱいいるわけだから、いくつかリアクションの方法にストックがあるのだけど、突然顔に大きな「アザ」があったり、顔の変形の度合いが大きい人が突然前に立たれたら、やっぱり目のやり場に困ってしまう。もしかしたらいわゆる悪気のない人まで、そういうことであまり良くない選択肢を選んじゃってるような気がします。
伏見 あと、「アザ」の場合、素人では見たときに、ケガなのか病気なのか生まれつきなのか判断がつかないところが難しい。例えば、明らかにケガしてる人を見かけたら、止血しましょうかとかなるじゃないですか。でも、そうしていいのかわからない。
石井 アメリカへ行くと、バラエティに富んだ外見の人間がいるので、多少傷があろうがなかろうが、注目される率はガクンと減ります。反対に日本では、外見的にバラエティがない、単一性を強く感じます。変わった容貌の人間をみてもおたつかない感性をほとんどの日本人はいまだに体得できていないのかもしれません。

笑いの中の差別

伏見 「ハゲ」の場合、日本の社会の中でかなりのパーセンテージに上るわけじゃないですか。つまり、男性なら誰もがなる可能性が高いにもかかわらず、それが差別的な現象として現れるのはどういうことなんでしょうか。
須長 それもストックの貧困の問題と関係してくると思うんですが、その人に対する評価の仕方が少ないんですね。ハゲ頭というのはカッコ悪いとか、外見的に女にモテないとか、あるいは、ハゲ頭でそれを自ら話題にする人は、もう必然的にそれは明るい人だということにされたり。逆に、それを話題にするのを拒む人というのは、心が狭くてウジウジ気にしているということになる。「ハゲ」に対する見方がワンパターンかツーパターンぐらいに固まっているんです。
伏見 どちらにしても、どう解釈していいのか、理解していいのかというのが、「ハゲ」に対しては少ないし、「アザ」のほうはないに等しい状態なんですね。
石井 僕から見ると、「ハゲ」の問題というのは、社会に公認された問題だと思います。「ハゲ」の存在をみんな知っている。ところが「アザ」については、「石井さんみたいな人は初めて見た」という人が多いし、逆に僕と会ってから、街角で「アザ」がある人を見かける機会が増えたと言う人がいますね。イギリスには約四〇万人、顔にアザやキズのある人がいるとされています。日本の人口はイギリス以上ですから四〇万人以上いるはずです。街角や職場、親戚にかならずいる。しかし、意識化されてこなかった存在、それが顔に「アザ」のある人なのです。
伏見 ただ「ハゲ」の問題も、差別というか痛みの問題としてはそれほど認知されてないわけじゃないですか。そういう意味では、須長さんのお仕事というのは、「ハゲ」の問題を社会的差別の文脈を入れるきっかけになったと評価されるべきものだと思います。
須長 「ハゲ」の場合、これまでは「そんなのは気にするものじゃない」とか「そんなのは誰でも乗り越えてるんだ」というような軽いものとしての位置づけでしたよね。たしかに、他の痛みの程度の高い経験から比べれば軽いかもしれないけど、軽いと言っても当事者にとっては重くもあるわけです。そこがやっぱり気になりましたね。それに「軽い」と他人が決めるのも何だか変ですし。
伏見 軽い笑いの中に含まれてる毒というのがあるんだよね。
須長 和やかな雰囲気の中で、ハゲの話題が出て、軽く笑われたら、言われたほうは怒れないですよね。黙るしかない。
伏見 笑いの中の差別って、相手の笑いの文法にこちらが取り込まれざるをえないような力が働くときなんですよね。いじめと一緒で、いじめられてる子はいじめられてるときにその状況自体を笑うことで自分の痛みを解消しようとする。「ハゲ」の会話もそういうところがある。「アザ」の場合には、どっちかというとその中に入るのを排除されることのつらさではないでしょうか。
石井 「ハゲ」については「ハンディキャップって笑っていいんだよね」「笑ってもいいハンディキャップがあってもいい」というコンセンサスがみんなにあって笑ってるのに対し、「アザ」の場合、「うわあ」っていう恐れられる感じになってしまう。よくそんなんで生きてるなという皮肉を込めた嘲笑、あざけ笑いになるので、「ハゲ」とは笑いの意味、質はかなり違うと思います。
伏見 僕は「ハゲ」の人を笑うというのは、案外自分でもやっちゃってることですが、「アザ」の人の場合、すれ違いざまに声を発したりするなんて考えられない。そういう態度や言葉を、大人から向けられることが実際にあるんですか。
石井 はい。大学の図書館に通う道すがら、すれ違う大学生たちにやられた経験が何度もあります。だから僕は学生というものに対して不信感を持ってます。別にすべての学生がそうだとは思いませんが。
須長 小学校や中学生ぐらいのガキだったらわかるけど、大学生や大人がそういうことを言うというのは……。そういうふうに笑ったら、たしなめる人がいて当たり前のような気がするんだけど。
石井 駅からキャンパスまでの二〇分程度歩くだけで、数回言われるわけです。これってどういうことなの? 本当にこの連中の感性は大丈夫なのか、って逆に思わずにはいられませんでしたが(笑)。

他者の痛みへの想像力

伏見 人の痛みがわからないというのは、僕にもすごくあって、それは世代というか時代の問題にもかかわっていると思うんですよ。例えば僕自身を考えてみると、少し前にゲイが集まるハッテン公園で「ホモ狩り」殺人事件があったんです。もちろん悲惨で、許しがたい事件ではあるのですが、あるいは自分が被害にあったらたまったもんじゃないわけですが、その事件の痛ましさがなかなか自分とつながってこないというのがありました。被害者を知らなかったり、たまたまそのハッテン場に行ったことがないということもあるのかもしれないけど、僕みたいに比較的、差別を経験してきて、その問題をテーマにしてる人間でも、同胞の事件にすらリアリティを持ちづらいところがある。気持ちの中の半分くらい、「立場上、怒らなければならない」と自分に言い聞かせているところがあるんです。いまの情報社会の中で、他者への想像力を掻立てるのは難しいと内省してみたりもします。
石井 取材を受けていて僕もそれは思います。「石井さん、顔の『アザ』くらいで大袈裟じゃないのか?」という態度をとった人もいたし、ジロジロ見られ観察されて不愉快なこともあった。しょうがないなあと思って、「あなたは僕の『アザ』の問題をたいしたことないと思ってるでしょう? だったら、赤いペンキで顔を塗って、一日過ごしてみますか」と振ると、「それはできません」と言う。そういうシミュレーションを僕から取材相手に示してあげることで、その深刻さに気づかせるというのはよくありますね。非常に初歩的なシミュレーションで「相手の身になって考えなさい」という道徳的な話です。でも、取材者から、そのシュミレーションをしたように感じられないこと、つまり、「壁」を感じることがあります。普通の顔をした人にとって顔にアザのある人間の人生をリアルにイメージするのはまだ難しいかもしれません。でも、自分の顔に赤いペンキを塗って一日歩けるか、ニコニコ笑って仕事できるのか、と問う意義はまだあると思っています。
須長 さっきのゲイの殺人事件の例のように、すべてにおいて差別の問題を知っていて、すべてにおいてそれに共感するというのは難しいですよね。だけれど、一番欠如していると部分は、顔に「アザ」があるという人を初めて見て、「どうしたんですか」と尋ねてしまったとき、相手が答えにくかったり、あるいは答えてはくれるけれど、それが相手にとってつらいことなんだとわかった瞬間に、相手にズカズカ踏み込んでいった自分の恥ずかしさに気がつくということですね。気がつけるか、気づかずに通り過ぎてしまうかという、その感受性は大切だと思うんです。
伏見 僕はけっこう講演の仕事をやっているけど、「伏見さんもアナルセックスとかなさるんですか」って質疑応答のときに聞かれることがたまにあります。僕は講演なんて所詮、[蒙ビジネスセと思ってるから、そういう質問に対して別に怒りもしないんだけど、あるいはそういう人たちがいるから自分の商売が成り立っていると思うんだけど、教育的配慮で、「すみませんが、あなたは、最近どんな体位でセックスなさいましたか?」って聞き返す(笑)。言われた本人が、いまおっしゃったみたいに、「あ、恥ずかしいことを聞いちゃったんだな」と思うのか、「あら、正常位だったかしら……?」とか思うかはそれぞれだと思いますが(笑)。

化粧とジェンダー

伏見 石井さんの本の中で、「アザ」のある人の一つの対世間的な対処法に、特別な化粧品を使って隠すというのがありました。比較的、女性の場合には、そういう方向にいきやすいんですか。
石井 そうですね。女性の中には、スッピンで学校に行っていたときはいじめられたけど、化粧をしたらリラックスして学校へ行けるようになったと言う人や、それで安心してOLができるようになったと言う人がいます。そういう意味では、「カバーマーク」に代表される「アザ」を隠すための化粧は社会に適応するための必需品になっています。
伏見 男性でも化粧をなさってる方はいらっしゃるんでしょう。
石井 いますね。
伏見 石井さんはされましたか。
石井 僕はトータルで二〇回はやってないんじゃないかな。十数日ぐらい、アザを隠した顔で外出したことはあります。
伏見 でも、石井さんにはそれが合わなかった。
石井 なんていうのかな……屈辱感を感じましたね。メイクアップアーティストが「この色とこの色が近いでしょう」と、こめかみにファンデーションをつけたときに、すごくイヤでしたね。
伏見 その屈辱感は何なのでしょうか。
石井 この顔で生きていくことができないとしたら、そういう世の中が間違っている、という確信はありました。僕のほうが世の中に合わせる必要はないんだと漠然と思っていました。化粧をしないと生きられないなら、それは屈辱的な人生ではないか、と。
伏見 でも女の人は「アザ」のあるないにかかわらず、みんなそれぞれ化粧品で欠点を修正して、それを素直に受け入れてるわけですよね(笑)。石井さんの屈辱感って、「ハゲ」の男性がそれを隠そうとすると、そのことで「男らしさ」を問われてしまうような抑圧感とつながっているのではないでしょうか。
石井 なるほど。そうかもしれません。当時の僕は一七歳でした。プライドとコンプレックスの塊でした。「男らしさ」よりも、この顔で生きることの不自由さをより強く感じていた。この顔のままでどうしたら自由に生きられるか、その道筋はまったく見えなかった。だからイラついていたと思うのです。化粧によって自由が手に入るとは思えなかった。
須長 ずっと「アザ」のことを言われてきた石井さんが、一七歳のときに化粧品を使ってみた、だけど塗っていくにしたがって、「アザ」を含めて自分という存在をすごく意識していきますよね。「なんで俺は化粧をして、アザを隠さなきゃいけないんだ」と。それは、私の「ハゲ」の取材の中の、すだれ頭を隠さず堂々としようという「男らしさ」の文脈とは若干違うような気がしました。もうちょっと「アザ」とアイデンティティのせめぎ合いというか、そのふたつが向かい合うところが見えた気がしました。
伏見 すだれ頭の人というのは、アイデンティティじゃないのかな。
須長 私のインタビューした人は、やっぱり「隠してる」と言ってました。別にカッコ良く見られたいとか、女性にモテたいというんじゃなくて、みんなが年がら年中「ハゲハゲ」と言ってわずらわしいから、隠してるんだと。そしていい薬が出るのを待ってる、隠せる限り隠すと言うんですね。
伏見 男性の加齢に伴う「ハゲ」の場合、もともと髪の毛があって抜けていくわけですよね。そうするともともとのセルフイメージと、現実の自分とのギャップがあるわけだけど、石井さんの場合は生まれたときから「アザ」があるのだから、そうするとセルフイメージは「アザ」含みになってるわけですよね。「アザ」がアイデンティティになっている。そこの違いなのかな。もうちょっと自分に根の張った、自分に含まれてるものを隠すのと、本来とは違うと感じる自分を元に戻すという感覚の差でしょうか。
須長 難しいところですね。「アザ」を解釈してないのでよくわからないのですけれど、石井さんの書かれたものを読むと、自己否定につながるような屈辱感を強く感じられていると思うんです。一方、「ハゲ」の人たちは、私のインタビューだけでは足りなかったかもしれませんが、そんなに自己否定や屈辱感を伴っている感じはなくて、隠す場合もあれば隠さない場合もあるというふうです。
伏見 それはむしろ女の人が化粧をすることに近い感じじゃないでしょうか。あるいは、「ハゲ」の人はゼロから加算していくイメージで、「アザ」の人はマイナスをゼロに持っていくという感覚なのかな。
石井 「アザ」がある状態を、「普通の顔=スタンダード」という立場からみればマイナスのイメージです。メイクアップして「ゼロ=スタンダード」に近づくことに意義があるという考え方もあります。僕はその考え方に意義を感じなかった。ともかく、あのときは、自分を曲げてしまうのがイヤでしたね。つまり化粧をしないと働けない、道を歩けないのが社会ならば、自分は一生敗残者ではないかと。そういう切迫感はありました。でも化粧をするのも生きていく上で必要な「技術」だと思うから、最低限の技術は学んでおこうという計算もありました。つまり緊急避難的に化粧術を盾として一応用意しておこうとしたんです。
 僕は小学校のときにいじめられたので、中学に入るとき、どうしたらいじめられないか計算したんです。とにかく勉強してみた。成績が学年でベスト10に入ると、いじめられなくなった。でも、からだが虚弱体質だった。高校では身体を鍛えようと思い、柔道部に入りました。すると、柔道部という一つの権威の中にいるかぎり、周りは何も言ってきませんでした。そういう延長線上で、高校から社会に入るときに何が必要だろう、何をさせられるだろうと考えて、やっぱりこの顔では就職できない可能性もあるから、メイクアップでスタンダードな顔もつくれるようにしておこうと思ったわけです。スタンダードな顔に憧れてメイクを学んだわけではありません。サバイバルするための技術として学んだということです。アメリカの海兵隊がジャングル戦で、カモフラージュ・メイクをするように、僕は日本社会で生きるためにカモフラージュ・メイクをしてサバイバルしなければならないかもしれない、と一七歳のときに考えていました。
須長 ただ、「カバーマーク」でメイクアップして、就職なり結婚をしたとしても、いずれ素顔をさらす機会が生じざるを得ないと思うのですが、その点はいかが考えられましたか。
石井 化粧をしてみてすぐにわかったのですが、僕の場合、アザのある顔半分をカバーするわけですから、光の加減、方向などで何か塗っていることがわかってしまうんですね。アブノーマリティが高くなる。あるいは僕が女性のように顔全面を塗ろうとすると、かえって特殊メイクになってしまうわけですね。それにはプレッシャーを感じました。
須長 男性の場合、人工的に顔をつくることに対してハードルが高いような気がします。女性だったら厚い化粧をしても、結婚する前に相手に一度素顔を見せなきゃいけないとか、あまり考えないと思うんです。ところが男性だと、例えば、カツラの人であれば、結婚する前にカツラのない自分を見せなければならないと思って、相手にすぐにカツラを取って見せたりするんですね。もともとの、飾ってない自分を相手に見せていないことに、罪悪感を感じるような風潮があるんです。私はそういうのは嫌いで、特殊メイクみたいに見えるけれど、それで自分の「アザ」などが隠れるならばいっぱい塗ったっていいし、塗ったまま結婚したっていいし、気がつかれずに一生結婚していてもいいと思ってます。しかし、そういうことに対するハードルがとりわけ男性に高いような気がするんです。
石井 その通りだと思います。しかし、メイクをしてアザをまったく気づかれないというのは不可能なんですよ。
須長 技術上の問題として?
石井 この距離(机を差し挟む距離)で一日話していれば、絶対にバレるんです。ですから気づいた人がそれを言うか言わないかの問題です。女性で「アザ」があって、きれいにメイクアップしても、絶対に見えるんです。非常にうまくカツラを使われている人がいますけど、それもわかるんです。
伏見 メイクしている自分でいいんじゃないというふうにはならないわけですか。
石井 当事者の話を聞くと、そこはそういうふうにはならない。やはりメイクしている自分は本当の自分ではないのではないか、という意識につきまとわれていますね。
(つづく)