2007-10-25

対談「あなたがオバサンになっても」後編

back04.jpg● マッキー世代とマドンナ

伏見 エスムがマドンナを意識し始めたのはいつ頃から? 僕と違って、セクシュアリティが確立される前の頃だよね?
エスム ええ、そうです。マドンナの存在を知ったのは中学生の頃で、その時は単に「海外で売れてる人だ」くらいの認識しかなかったですね。ちゃんとマドンナを聴くようになったのは二〇歳を過ぎてから。ゲイの友達ができて、そのメッセージ性までよく理解できるようになって、初めて好きになりました。クラブのゲイナイトに行き出したのもその頃なんですけど、『ヴォーグ』とか『ディーパー・アンド・ディーパー』とか、マドンナの曲がよくかかってて「ああ、かっこいい、かっこいい!」と。
伏見 エスムみたいに『ヴォーグ』から入った世代のほうが、マドンナとのシンクロの度合いが高いのかも知れないね。僕なんかは、ほぼ同時期に出てきたシンディ・ローパーやなんかと一緒に、少し距離を置いて、批評的に見ていたところがあるかも知れない。
エスム マドンナを好きになった頃って、ゲイ・コミュニティに入って、ようやくそれまでの常識を突き放して考えられるようになった時期でしたから、確かにかなりシンクロしてます。その時の気持ちに、マドンナの常識と戦う生き方が重なって、すごく輝いて見えました。先日、マドンナファンのゲイ友だちに話を訊いてみたんですけど、その子は中学生ぐらいのとき、まずマドンナの声に惹かれたらしいんです。「すごく心に届く声だ」と。で、その後、自分はゲイだって意識するようになって、マドンナの生き様にすごく心を動かされたそうです。「人と違うってことを恐れてはいけない」というメッセージを発信するマドンナに、すごく背中を押された、元気づけられたって言ってました。
伏見 当時、エスムたちの世代にはやっぱり『パパ・ドント・プリーチ』の「お父さん、お説教しないで!」っていうのは、強く共感できたのかしら?
エスム その頃はね、もう『パパ・ドント・プリーチ』は終わってました(笑)! 『ライク・ア・プレイヤー』とか『ヴォーグ』あたりですね。
伏見 あら、失礼しました! えっと、『パパ・ドント・プリーチ』が八六年で、『ヴォーグ』が九〇年なのね。マドンナの変身ぶりは速いわね。
エスム 『ヴォーグ』は特に、「村祭り」っぽい熱狂があって(爆笑)。みんな輪になってヴォーギング、みたいな。クラブの一体感を作り出す装置でもあった。もちろん、ノンケのヴォーガーもたくさんいたので、ゲイだけのものだったわけではないんですけど。あのクネクネした動きの「おネエ感」も相俟って、影響が大きかった。
伏見 僕なんか『ヴォーグ』のころはもう、時代とズレてました(笑)。『プライベート・ゲイライフ』(_出版)を出したのが九一年で、歳が二七、八の頃だからノノいわゆる「最前線」からはもう身を引いてました。当時はまだDJっていうのが一般的になる前で、近所の大学の学園祭に遊びに行ったとき、イベントでレコードをかけてたDJを、ラジオのディスク・ジョッキーと同じだと思ったもんだから「『ヴォーグ』かけて下さい」ってお願いしたら、無視されちゃって、「冷たい人だね」って思ってました(笑)。
エスム 『ヴォーグ』のころはちょうど、日本のゲイ・ナイトが盛り上がってきた時期だったし、『エロティカ』のころは、マドンナが友達をHIVで亡くした経験を踏まえて、セイファーなセックスを強く呼びかけてた。その辺も、ゲイコミュニティーの有りようと強くシンクロしてたと思います。
伏見 エスムの世代はやっぱり『ヴォーグ』のころがマドンナ熱のピーク? というのも、最近『yes』ってクイア・カルチャーの雑誌がタワーレコードから創刊されて、やっぱりマドンナのインタビューなんかが掲載されてて、読んでみたのね。雑誌としてはすごく完成度が高いんだけれども、同時に採り上げられているのが、カイリー・ミノーグだったりジョージ・マイケルだったり、どうしても「いにしえ感」が拭いきれない。九〇年代前半よりももっと前に憧れてる感じがしたんです。ゲイのなかでも、あの時代に憧れるのって、四〇代よりも下、ちょうどエスムの世代ぐらいじゃない? もっと下の世代になってくると、マドンナは「ゲイ・ディーバ」と言われてはいても、ちょっと捉え方が違うんじゃないかな。二〇代前半とか。
エスム 世代間の断絶は、やっぱりあると思います。クラブに通ってる若い子たちには、『ハング・アップ』が「来てる」こともあって、マドンナはまだ現役として人気があるけど、そうじゃない大勢の子たちには、浜崎あゆみのほうがずっと人気がある(笑)
伏見 あゆかぁノノ。アムロはどうなの?
エスム うん、いまはまたアムロかな。
伏見 たしかこの間ゲイの雑誌で一番人気があったのがアムロだったような記憶があるけど、理由がぜんぜんわからなかった。なんでアムロ?
エスム やっぱりアムロちゃんになりたいんじゃないでしょうか(笑)。かわいいし、かっこいいし。あと、私たちにとってのマドンナと一緒で、同じ世代が中学・高校で聴いてたっていう共有感があるのかもしれない。この先アムロが落ち目になるときが来たとして、どれだけファンが残るかというのが、気になるところではありますね。
伏見 いまの若いゲイの子たちは、ゲイ・ディーバのような象徴を、心の拠りどころにするみたいなメンタリティがないよね。その必要がない。だから一般のユーザーとあんまり変わらない。上の世代になればなるほど、ゲイ・ディーバがアイデンティティと深く関わってくる。キャンプっていう共通の感覚で自分たちを支えていく、盛り上げていく必要があった。もっと上の世代は美空ひばりなんだけどノノ業が深くって、ブス?っていう条件があるわけだよね(笑)。その下の世代になってくるとユーミン、あと中島みゆき?
エスム 業が深くって、ブスノノ(笑)
伏見 その下の世代だと、聖子だとか明菜。ちょっと系統は違うけど、槇原敬之。まあ、マッキーをゲイ・ディーバとするかは皆様の判断に委ねますけど(笑)。「あっ、この人はゲイのノノ」という感覚を持つのって、それくらいの世代あたりまでだと思うんです。平井賢はゲイ・ディーバにはならない。平井賢は非常に時代性を背景にしているけれど、特にゲイの人たちにアピールする要素はないし。例えば、平井賢がゲイであったとしても、よ。僕は知らないんですよ、もちろん(笑)。もし平井賢がゲイであったとしても、彼はゲイ性に根ざして音楽作りをしていない。ゲイ的なアイデンティティや共同性は、平井賢にとってどうでもいいものだと思う。マッキーは逆に、ゲイ性にこだわるところで音楽を作ってる。マッキーまではそういう感覚の世代で、誠実さっていうのを表現の核にしているから、そこで「クローゼットとカミングアウト」って問題が、いい意味でも悪い意味でも、表現の中に託されてくる。もちろん、マッキーがゲイかどうかなんて、僕はまったく知りませんけど(笑)
エスム 私たちくらいが、ゲイ的な感覚でディーバを楽しめた最後の世代かもしれないですね。
伏見 そう。ゲイへの誤解が少しづつ解けてきた時代と、ゲイ・ディーバが必要とされるような濃いものが薄くなっていく時代が、クロスするポイントがちょうどエスムの世代なんだと思う。僕は『クイア・ジャパン』って雑誌で、その世代を「マッキー世代」って名づけたんだけど、「マッキー世代」から下はどんどん薄くなっていくもんね。マドンナに話を戻すと、やっぱりエスムより下の世代は、クラブカルチャーの一端として知っている、ってぐらいなのかもしれない。いまの二〇代があの「パカパカ・ショー」を見てどう感じるのか、知りたいところだよね。
エスム 「なんかオバサンがおかしなことやってる〜」ぐらいな捉え方かもしれませんよね。
伏見 ホント、おかしいよね(笑)。やり手婆みたいだもんね。

● 変化の後にこそ

伏見 あと、僕はマドンナって、ふっと顔が思い浮かばないんですよ。アルバム・ジャケットのビジュアルは思い出せるんだけど、顔が思い出せない。彼女って、さっきも言ったように、表現が常になにかのパロディで、オリジナルなんかない。バーバラ・ストライザンドやオリビア・ニュートンジョンの顔は簡単に思い出せるし、彼女たちが常に「オリジナル」であろうとしたことに対して、マドンナは「マドンナ」っていう表現形式なんだって気がしてて。そういう意味で、マドンナってドラッグ・クイーンなんだと思います。いま売れっ子ドラッグ・クイーンのエスムラルダさんは、どう思います?(笑)
エスム そうですねノノたしかにマドンナって、PVなんか見てると、何かへのオマージュとかパロディが多い気がしますね。
伏見 『ヴォーグ』のラップにしても、なんだか拙いんだけど(笑)、往年のハリウッドスターたちへの憧憬っていうのが端的に表れてて。それはドラッグ・クイーンが「業が深い」女優に憧れるのに非常に近い。そもそも彼女って、バーバラ・ストライザンドみたいにすっごく歌が上手いわけじゃないし、オリビア・ニュートンジョンの可憐さもない。ただ、彼女の「加工の仕方」がすごく面白い。「私は加工業者なのよ!」っていうある種の開き直り感、その辺は見事だなって思う。それはドラッグ・クイーンが決してオリジナルではあり得なくって、加工業者でしかあり得ないのと、重なるんだよね。
エスム なるほど。『ハング・アップ』にしても、ABBAの曲をどーんとサンプリングして使ってるし。久しぶりにマドンナの加工業者っぷりを堪能できました。
伏見 そう、久しぶり。前のアルバムもその前のアルバムも嫌いじゃないんだけど、今回のアルバムには戻ってきた感がある。懐かしい感じ。顔の話しに戻るけど、彼女は整形はしているの? たしか『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』で少し言ってなかったかしら?
エスム そうでしたね。でも最近の顔を見ると、やっきになって皺をとったりはしていないみたいだけど。
伏見 マドンナにとって「切った張った」はあんまり関係ないよね(笑)。どうせまた上から塗ったりするから。
エスム メスいれてようが、なんだろうが、もう(笑)
伏見 歌舞伎の隈取りぐらいの感覚だよね(笑)。マドンナの信念の核の部分が「自分はアーティストだ」ってことだから、整形にしたってその表現の一部だよね。自分が「アーティストであること」にこだわっていることについては、よく言及してるし。美輪さんにとっての「仏様」が、マドンナにとって「アーティスト」なのね(爆笑)。
エスム なるほど……。
伏見 これは表現の話と一緒なんだけれども、彼女は自分の体に対してもオリジナリティなんて持ってないんじゃないの? それは常に加工する対象だっていうのがある。それはパフォーマティビティの事後的に、アイデンティティが形成されるっていう、ジュディス・バトラーの理論そのものなんですよね。青土社的にサービスしてみました(爆笑)
エスム すばらしい!
伏見 マドンナっていうアイデンティティは、そういうふうな変化のあとに生じている。事前に、本質的にあるわけではないんだってことを、まさに表現している。クイア理論なんかでよく、パフォーマティビティと言われるんだけれども、ドラッグ・クイーンなんかを_【聞き取れませんでした】といったりするんだけど、まさにマドンナって存在が、ある規範に対して「攪乱する」役割の存在であるってことだよね。って上手いわね〜(笑)
エスム 確かに、変化こそがマドンナっていう感じはしますね。逆に、「これがマドンナです」っていうのは一体何か、といわれると、非常に説明しがたい。
伏見 ある構造、ある規範に対して「揺れ」を生じさせる運動そのものがマドンナ、とも言えますね。今回もその「揺れ」の一環として、股をパカパカさせてた、と(爆笑)。あれはある意味アンチ・エイジング?!
エスム どんな人間も歳をとっていくことには抗えませんね……。でもあれは、ひょっとしたらファンに対しての「いつまでもむかしのアタシにとらわれてんじゃないわよ! 今のアタシはこうなの!」っていうマニフェストかもしれませんよ。
伏見 そういう「捉え返し」の力って強いよね。日本でもさ、どうでもいいようなのが「ドラッグ・クイーン・アイデンティティ」なんて持っちゃうんだよね(笑)。たいしたことやってるわけじゃないのにさ。ああいうのが逆に言えば、まったく「マドンナ的」ではないってことだよね。「自分はもうこれでいいんだ! ドラッグ・クイーンでいいんだ!」っていう甘ったるい自己肯定のあり方って、マドンナにしてみれば「なにやってんだ?!」って感じかな。
エスム ダサいって言われそう。
伏見 「まあだヴォーグやってんの? もう終わったよ」って。
エスム そういう意味でマドンナには、時代とともにどこまでも走れる能力があると思います。ある時点で立ち止まらず、常に成長するためには、「捉え返し」の能力って必要だから。

● 行く末を、固唾を呑んで

エスム 日本には似たような人はいるかしら?
伏見 日本の場合は、マドンナのような変態原理主義が、宗教がかった、湿った方向へ行ってしまう。だから細木和子とか美輪明宏とか瀬戸内寂聴とか(笑)、オカルティズムを背景にした治外法権の場所からの、好き勝手な発言になっちゃう。
エスム マドンナもカバラに相当ハマってるし、布教活動もしてるみたいだけど(笑)、そこに軸足を置いて発言するってことはないですよね。なにかを強く言う人、となると、ユーミンあたりかなあノノ
伏見 でもユーミンは発言の幅に限界がある。政治的なことには絶対踏み込まないし。ちゃんとコマーシャルのタイアップがとれるような条件の範囲でしかしゃべってないから、マドンナに比べるとスケールがかなり小さい。だから二丁目の「ユーミンナイト」に来ちゃうんだね(爆笑)。編集さんは、失礼だけど、もうご結婚されてるの?
__ いいえ、全然。
伏見 やっぱり(笑)。マドンナが好きな女性は、結婚していない感じ。ドメスティックじゃないというか。
エスム キャリアウーマン的な志向性を持っている人とか、自分のなかの男性性みたいなものを意識している女性が、マドンナのファンには多いかもしれない。
伏見 やっぱり自分のジェンダーだとか女性性を、着せ替え人形的な感覚で捉えている人じゃないと、マドンナの面白さは理解できない。田嶋洋子なんかは、ある規範への反動で「女らしさ」を全否定しているようでいて、本質的にはむしろ女っぽい。だから田嶋陽子はマドンナ的ではなくて、上野千鶴子はマドンナ的な要素があると言えるかもしれない。思い出したんだけど、なにかの用事で本郷の上野さんの研究室を訪ねて、その帰りにマドンナの「ガーリー・ショー」を観に行ったんだけれども、ワイセツさの有り方があまりに近いんでびっくりしちゃった記憶があります(笑)。上野さんは股じゃなくて、歯とかパカパカやりそうだけど(笑)。あのワイセツ感は、女というジェンダーに対する距離感、間合いには、マドンナに近いものを感じました。それに対して、田嶋陽子や福島瑞穂なんかは、そこから距離感のない、本質的な女性なんだと思う。
エスム 上野千鶴子は、本質的に男?
伏見 というよりパロディ的な存在? 書いてることもそういう感じがするじゃないですか。「本当に信じてそれ言ってないだろ」って、つっこみたくなるような(笑)。マドンナの表現がすごく多様だってことと、上野さんの言ってることがめちゃくちゃっていうのは非常に近いように思います(爆笑)。あ、青土社的に言ってはいけないことだったかしら。
エスム マドンナはものを書く人じゃなくって、よかったですね。ポップスターだから、言ってることややってることに、あれだけ揺れなり矛盾なりがあっても許されるけど、もし文筆家だったら、単なるしっちゃかめっちゃかな人になってしまう(笑)。
伏見 それでも東大の教授になれるから、いいんだよ(笑)。橋爪大三郎さんって「東工大のアイボ」って呼ばれてるんだけど(笑)、上野さんは今度から「東大のマドンナ」ってお呼びして差し上げましょう。
エスム しかし話は変わりますけど、マドンナって「キャンプ」を徹底的に体現してますよね。キャンプというのは、斜に構えて、その時々の常識や「主流」な価値観を捉え返し脱構築する、ゲイ独特の文化なんですけど、本当はすごく難しい作業なんです。キャンプなつもりの人の多くは、ただひたすら何かを批判したりアンチを唱えたりするだけで、それをやってる自分自身を捉え返すことができないから、抵抗するものがない限り、自分の考えが持てない。で、結局は、単なる「文句しか言えない、未成熟でイタい人」になってしまう。かといって、「自分自身をも捉え返す」ことを徹底していくのは大変だし、その先にどんな着地点が待っているのか、そもそも着地点などというものが存在するかどうかもわからない。マドンナって、頂点を極めたように見えてもなお「自分に対してのアンチテーゼ」を繰り返してるところがありますから、彼女がこのまま、命尽きるまで「運動」し続けていくのか、何らかの着地点を見出して腰を落ち着けるのか、気になるところです。
伏見 バーブラ・ストライザンドは上手にフェイドアウトしていったけど、彼女の歌って、きっとなんらかの形で残ると思う。もしマドンナが静かに消えていくようなことをしたらノノ彼女の歌って残らないんじゃないでしょうか。常に運動してないとステイタスが保てない。だから四七歳にしてピンクのレオタード、しかも染みがついてるのを着るっていう。あれはマドンナっていう生き物が生きているっていう証なんですね。サメとかマグロが回遊して生きているみたいに。
エスム そんなに意識していないかもしれないけど、彼女の行く末を固唾を呑んで見守らなくちゃいけないゲイって、結構多いと思うんです(笑)。そこに自分たちの将来が見えるかもしれないから。「ああ振って、こう振り返されて、次はこっち」なんていうのを繰り返してると、普通は「あの人、四〇、五〇にもなって、腰が据わらないね、イタいね」とか言われちゃったりするじゃないですか。ノンケに比べて比較的自由に生きているはずのゲイでさえ、その声に負けて、落ち着き場所を見出していこうとしたりする。その点、世間の声などものともせずに、大きく振れ続けるマドンナは、ひょっとしたら多くの人がやれないことをやってくれているのかもしれない。キャンプというものの行き着く先に何があるのか、これからのマドンナが見せてくれるんじゃないかという気がします。
伏見 キャンプの行き着く先が、あのピンクのレオタードのパカパカだったとしたら、そこで終わったとしたらノノ
エスム でも、あの姿のマドンナみたいなゲイも、結構いますよね……。って、すごく悲しい対談になってしまった。
伏見 でもね、中年以降のおかまって、厳しいよね(溜息)。着地点が難しいんだよね(笑)。自由とか多様性だとかを標榜してやって参りましたが、行き着く先がいまの自分かい?って思うと、後に続く人たちに申し訳ないような気がしてきてノノ。『ハング・アップ』が最近本当に気に入ってて。僕、最近河原を毎日ウォーキングしてるんですけど、あれがずっと頭のなかに流れてて。口ずさみながら歩いてたら、すれちがう親子連れが「怪しい人」って様子で(笑)。そりゃーさ、中年のデブがさ、『ハング・アップ』に乗って腰をくねらせながら歩いててごらん。子供を背中に隠したくなるって(爆笑)。もしかしたら、ここがキャンプの行き着く先だとしたら、ゲイの道はなかなか厳しいな、というのが僕の正直な気持ち。
エスム ある意味、マドンナを反面教師にしなくちゃいけない部分も、あるのかもしれない(笑)
伏見 でもマドンナの偉いところはさ、ちゃんと結婚したり子供育てたりしてるじゃない。そっちにちゃんと足場を確保してるってところが、すごく賢いところだよね。林真理子にも似てるかもしれない。フェミニズムの皆さんには「保守的」って批判があるんだけど、彼女のデビュー作の『ルンルンを買っておうちに帰ろう』にしたって「あんなに明確に、女ってジェンダーがパロディでしかありえない」ことを表明した作品は、日本の文学史にそれまでなかったと思うよ。あれほどフェミニズムな本はない。女ってジェンダーがいかにパフォーマティブなものであるかって主題が常に林真理子の作品の主題になってる。それが彼女の毒であったり、厳しさだったりするんだけど。林真理子とマドンナって並べると、絵面的に辛いものがあるんだけど(笑)、メンタリティとしては近いと思うよ。かえって富岡多恵子みたいな、フェミニズムに賞賛されて、女性性にどっぷり根を張っていて、女の権利を主張する、みたいな作家より、林真理子のほうがジェンダーとの距離感がある作家だと思う。彼女の「着物が好き」だとか「歌舞伎鑑賞の趣味」だとかも、やっぱりパロディー的なものを感じるよね。
エスム 「ライク・ア・教養」なんですね!(笑)。私たちの足場は、落ち着く先はどこなのか? 彼女たちみたいに「ライク・ア」で構わないので、見つけたいものです。

(ふしみ・のりあき 作家・編集者)
(えすむらるだ パフォーマー)
(一月二四日、新宿・茶茶花にて収録)