2010-11-29

一年前に書いた書評○「わたしの戦後出版史」松本昌次

前もこの「ポットの日誌」に書いたと思うんだけど、
自分で書いた原稿やレジュメなんかはここにまとめておくことにしてるんだ。

一年前に、「d/sign」に書評を書いた。
17号に。そういえば18号がでたんで、ここに載っけておく。

書いたときはこんな酷い書評で、怒られるかと(誰から?)思ったりしたんだけど、
以外に褒めてもらったりして、、、。
面白い反応だったな。

ココから────────────────────
「わたしの戦後出版史」松本昌次(聞き手/上野明雄・鷲尾賢也)

●掲載誌
d/sign デザイン no.17  責任編集=鈴木一誌・戸田ツトム
発行=太田出版
価格=1800円+税 版型=A4判変型 ページ数=152ページ
ISBNコード=9784778311995 発売年月日2009.12.03


わたしの戦後出版史
松本昌次[著] 上野明雄・鷲尾賢也[聞き手]
発行=トランスビュー
46判上製・352頁・定価2940円(税込)
2008年8月刊行/ISBN:978-4-901510-65-3

本書は、その著者略歴によれば、「1927年、東京に生まれる。1953年、未来社に入社。以降三十数年編集者として勤め、83年退社、影書房を創設し現在に至る。関わった著者に花田清輝、埴谷雄高、丸山真男、平野謙、野間宏、杉浦明平、木下順二、山本安英、富士正晴、島尾敏雄、吉本隆明、井上光晴、橋川文三、上野英信、溝上泰子、藤田省三、廣末保、安東次男、上原専禄など。手がけた数々の名著は、そのまま戦後出版史の輝かしい軌跡を描く。」という著者・松本昌次の、出版史だ。
まったく、お気楽な本である。
すでにベルリンの壁が崩壊しているにもかかわらず、マルクス主義的な左翼気分を総括することもない。
現在の出版状況に、編集者の志がないといって、エラソーな説教をたれる。

社会全体がまだまだ貧しく、貧富の格差も圧倒的で、どう見ても偉いヤツや金持ちは信用ならんぞ、と思わざる得ない時代。
マルクス主義によれば、世界は解放されると信じられた時代。
そうした時代に青年時代を送ったのだから、松本が、全学連初代委員長の武井昭夫からの激励電報を記憶に深く残していてもまったく不思議はない。在学していた東北大学の「イールズ事件」に、関連して。
だがなー、と思わずにいられない。
2009年なんだよ、今は。ベルリンの壁が崩壊したんだよ。日本の新左翼も、社共などの旧左翼も、一部をのぞいて思想的格闘から逃れて経典に逃げ込んで衰退。現実の社会から目を背けて自滅。なんで自滅してしまったのか、なぜ普通の人たちは世界を解放するという大きな物語に共感してくれなかったのか、資本家たちが搾取して絞り上げるはずの労働者たちは、消費を楽しむようになったのか、なれたのか。本当に今、日本で、世界で、それぞれの人間たちにまとわりつく、それぞれの困難はなんなのか。
もし、丸山真男たちが戦後日本の、世界の課題に立ち向かったのならば、今、21世紀の、戦後のそれとは違った困難に格闘するのが、今も生きて発言する松本にも編集者として問われているんじゃないのかな。
ところが、本書では一貫して左翼的気分にノスタルジックにしがみついている。
相変わらず「悪い地主をやっつけろ」って、どこかに完全な悪者がいて社会をワルくしてるって発想にしがみついている。
例えば、拉致問題だ。
金日成の著作を未来社から出版している。たぶん著者買い上げのようなスタイルだったんだろう。金日成とその北朝鮮にエールを送ったのだ。
ところが、金正日が拉致を認めた。まともに考えれば大ショック、大混乱のはず。
にもかかわらず、松本は「三十六年間にわたる植民地支配とそれによる朝鮮分断の責任をとって謝罪し、日本から国交を開いていれば、現在のような『拉致問題』を始めとするこじれた事態を招かなかったことは明らかです」と、拉致=日本の侵略が原因、って書いている。
なんという思想的退廃なんだろう。たかが人間が考えついた理念・理想が、善い社会をつくるって思ってしまったことが根本的に問題だったんじゃない?
国家に変わるアイデアを提出することなくただ国家を嫌悪し、市場に変わるアイデアを提出することなく営利活動を嫌悪する、戦後の左翼思想との格闘を回避して、ノスタルジックな回顧を語りつづけたのが、この本だと思っちゃうな。

ところで、この本は多くのメディアに取り上げられている。
ノスタルジックな回顧と、頑固な左翼主義にすぎない松本を、まるで非転向で信念の編集者のように祭り上げる。
理念や信念に対する非転向などに意味があるワケはない。信念の対立こそが問題なのだ。非転向は現にその対立をますます固定的にする。信念の対立をどうやって繁多な共存のなかに解消するか、が21世紀の問題ではないか。
新聞書評では、産経・毎日・朝日・日経・北海道・山梨日日・中日・高知などなどが取り上げている。
これほど新聞書評に片っ端から取り上げられるのは、それなりの評判の本だ。
評判の本というのは、イッパイ売れているか、それほど売れてるわけじゃないけど、多くの評者を共感させてしまう本。
書店などでも見ても、それほど売れているとも思えない。版元だって、2,800円の本体価格をつけてるんだから、千部や二千部くらいでしょう、見込んでいる売上げは。紀伊國屋パブラインで売上げ実績を見たって、そのくらいだろう、って数字だ。
にもかかわらず、この掲載量。多くの評者や新聞の記者・編集者たちが共感してるのだろうね。で、そこから感じられるのは、日本のメディアは「左翼」が好き、なんですねってことだ。産経新聞まで載せてるんですよ。
これって、松本自身が本書で批判した「著者の肩書きや実績だけをたよりに判断する。いまもよくあることだけど、権威主義的で、ダメな編集会議の典型」ってのとおんなじじゃないですか。
丸山真男はスゴい、花田清輝は有名だ、吉本隆明も扱ってるぞ、だから松本はスゴいって。
印税を払えなかったっていう話も所々に出て来るが、それもこうした文脈におかれると、カネのことは考えないで、いい本をつくるんだというのが、知的レベルの高さを証明しているかのような補強の文脈におかれる。まあ当の著者たちが納得してるんだから問題ないんだろうけど、「あの人文書などで有名な○○社が丸山真男と印税でトラブル」って記事にもなりかねない話でしょ。ちなみに本書では、たとえば、「未来社じゃおカネが頼りないから、他の出版社がなんとか本を作ってくれて印税がいくらかでも入るようにならないか、と思っていました」とか「売れるか売れないかというより、いいものがどうかが出版企画の第一の基準」な風に語られている。

さて、松本は本は「志」だと言っている。
はい、この「志」ってのは私も強く賛成するところなんですね。ただ、すこしズレがある。
松本の「志」は、理念や信念、ある意味での「知」に偏っている。権力と戦うことに偏っている。まあ、まず良書というものがあって、それを経済性も無視して出版することが「志」ということのようなのである。
確かに、今日、志がむしろとてつもなく大切なものなんだと思う。
ユニクロの洋服だって、安ければいいってもんにはなってないでしょ。そこには体温を逃がさない新素材が使われるとか、カシミヤ使ってますよ、とか、ね。「いいものを安く多くの人に」ってのもリッパな「志」。
アマゾンだって、売上げ増をめざして商売してるでしょうが、少部数の本をジュンク堂よりいっぱい売っている可能性は高い。少部数=良書という見方にたてばいまや日本でイチバン良書の普及に貢献しているのはアマゾンだろう。
少数の考え方の本を大切にしてる、とも言えるのだ。
「志」は大切だ。
読者=普通の人が求める繁多なものをつくっていくということや、編集者自身の興味や関心などが、私の考える「志」なのだ。
そして、たかがそんな「志」(私の言い方で言えば興味や関心)で本を作りながら、松本の言うような、「編集者はただ本をつくっていればいいというもんじゃない。心をかけた著者と仕事をすることは、その著者とともに時代を変革する運動にみずからもかかわることなんですね」という「運動」に積極的に関わるのがいいのだ。
たとえば、ポット出版の20代の編集者でSM好きがいる。そいつが「懺悔録」という沼正三のエッセイ集を作った。そいつは次に石ノ森章太郎が書いたマンガ版の「家畜人ヤプー」を復刊させるべく作業している。多分、年内に出版できるだろう。
松本からみればまったく良書の範疇にはいらないんだろう。「志」もなにもないって見えるんじゃないかな? 
だが、「志」ってのは、多くの本好きがなるほどという良書を出すことではなく、編集者が(あるいは書き手でもあると思うんだけど)自分の興味と関心に即して、深く深く掘り下げるってことなんじゃないだろうか? (もちろん、この自分の興味と関心と同時にまた新しい本をつくるための経済性を兼ね備えなけりゃいけないんです)
そして、運動。編集者が興味や関心を深く深く掘り下げる目的地は、単に本を作るということに行き着くだけでなく、その著者と一緒にSMショーをやってみたり、SMサイトを作ってみたりといった狭い意味の本にかかわらない活動なんじゃないだろうか。そのことが「志」を共有した時代を変革する運動にもなり得て、それがまた本作りにブーメランのようにかえって来るのだと思う。だって、SMに市民権を獲得するなんて、スゴい「時代を変革する運動」じゃないですか(SMが市民権得ちゃうと面白くなくなるかもしれないけど)。

ところで、この本の登場人物の一部に妙に接触経験があるんだな、世代は違うはずなのに。
松本が最初に勤めた出版社=未来社の営業担当を一人で担っていたという小汀良久さん。
小汀さんは、未来社を退社して何年かしてから、新泉社を創業した人だけど、ポット出版が最初に発売代行をしてもらっていた径書房に「ず・ぼん 図書館とメディアの本」の発売代行を断られて、代わりに代行をお願いした人だ。
ゲラをもって、おそるおそる発売代行をお願いに行ったら、「はいよ」と二つ返事で引き受けてくれた人。
「あのー、ゲラを持ってきたんですけど」と、「あー、いい、いい」って眺めもしなかった(笑)。
NR出版協同組合や、出版流通対策協議会(流対協)などで、小零細出版社のリーダー的な人だった。
発売代行の他に、流対協の幹事を仰せつかったり、新泉社の不渡りに巻き込まれたりもした(その頃は、月末になると「5日まで○十万貸してくれ」ってよく電話がかかってきたっけ)。豪傑な感じで今でも好きな人の一人だけどね。
始めに発売代行をしてくれた径書房の創業者、原田奈翁雄さんも、山代巴の思い出のところに登場。
松本が同士のようにつきあってきた大工・庄幸司郎の月刊のミニコミは毎月購読してた。私が左翼をやってた頃。
その庄が、中野につくっていた市民運動の会議場所みたいなマンションの一室にも、なんの会議だかわすれたけど、一度行ったことがあった。
聞き手の一人、上野明雄は、ポット出版で発行している「ず・ぼん 図書館とメディアの本」に野上暁の名で、児童文学について書いてもらった。
そしてそもそもこの本を出版したトランスビューは、「出版社自身の手で書誌情報を発信しよう」という目的で始めた版元ドットコムの、役員なかま。
営業担当役員の工藤さんとは、毎月会議で同席して終わったら飲み屋に一緒にいっている。
この書評を書くと話したら、新聞や雑誌などに掲載された書評のPDFを送ってくれた(それでその書評の多さにビックリしたワケです)。
こういう具合に、世代違いでも、接触経験があると、どうも正直な気持ちを書きにくいな。だけど書いちゃった。

さて最後。
出版という仕事の意味の一つに、時を記録しておくという意味があるんだと思う。
記録があることで、戦後日本の意味などを後から追うことができるはずだから。
そういう点からいうと、この松本の「わたしの戦後出版史」は戦後日本の思想や、それに果たした出版業の役割などを振り返るときに大切な記録となっている。
だからこそ、編集、しっかりせいよ、と思わずにはいられない。
なぜ、索引がないのか? 人名索引も事項索引も書名索引も出版社名索引も欲しい。
なぜ、松本のフィルモグラフィー・全編集本一覧がないのか?
Googleブックサーチに本を送ったら全文検索できるから不要だとでも思ったんだろうか?
でも全文検索するためには、あらかじめ人名とか検索語を知っていなけりゃなんないじゃん。
月に一度は会議のあとに一緒に飲んでる工藤さんにワルいんだけど、版元にまで悪態ついちゃった。
もし松本から、出版したいんだって連絡があったなら、私もたぶん迷わず「出版させください」って言っただろうな。重要な記録の一つだと思うからだ。
だけど、売るのは難しいだろうな。
ならば印税値切るか。