欲望問題出版記念プロジェクト

小浜逸郎[批評家]●私の「痛み」から出発し、社会思想的な地平に至るまで

2007-02-04 ポット出版

2007/1/21

 自分は欲望のあり方についてこの世の「標準」と違ったところがある。その違ったところが自分をとても生きにくくさせている。しかもその違ったところはどう考えても変わりそうもない━━こういう感知は、生涯のある時期になると多かれ少なかれだれにもやってくる。そしてこの感知はうまく言葉にならない苦痛を抱えることと同じである。そういう苦痛を抱えたとき、どんな解決や克服の道があり得るだろうか。
 だれでも苦痛を抱えたまま暗い気分で生き続けるのはいやだから、考えないことにして日々をやり過ごすとか、その問題については諦めて別の道でいっしょうけんめい努力するとかいうのも一つの方法だろう。しかし、生きるということは欲望をもち、その欲望を社会とかかわらせながら行動することだから、もしその社会が自分の「違ったところ」を一つのネガティヴな記号として絶えずカテゴライズしてきたら、どうすればいいだろう。単純に考えないことにするとか諦めるとかいうわけにはいかない。
 自分が一個の自分であることのなかには、すでに社会的なまなざしが深く住み込んでいる。あからさまな差別待遇をこうむるより以前に、「標準からずれた自分」という自意識は、自分の欲望指向の拭いがたさと、その欲望がそのままでは社会に公認されないという感知との分裂を早くから抱え込んでしまっている。これは、言葉の正しい意味での「コンプレックス」(観念複合)に金縛りになることと同じである。
 この本は、「ゲイ」という社会的な記号を背負った伏見さんが、こうした実存問題をいかに普遍的な問題として提起できるかについて、渾身の力を注いで考え抜いた本である。
 全体は三章構成をなしている。一章では、ゲイ差別と政治的に闘うという「正義」や「倫理主義」の方向に回路を見いだしていたかつての自分を内省し、それだけではマジョリティとの間に幸福な通路を見出せないと考えるに至った思考変容の過程が誠実につづられている。伏見さんは、ゲイ(やその他のマイノリティ)に対する時代の許容度が漸進的に広がってきたことに対する認知を正確に繰り入れながら、「同性愛の運動を『正義』の行為として立てるのではなく、『欲望実現のための営為』だという認識にシフトさせ」る。同時に、この社会を単に自分を抑圧する敵と見なすのではなく、できるだけお互いの欲望を実現するための調整機能の場としてとらえ直す。一種のすぐれた転向論であるとともに、思想の内なる成熟を語るオートバイオグラフィでもある。
 二章では、自分が理論的なよりどころとしてきたフェミニズムを相対化する。批判的に取り上げられているのは、主として「ジェンダーフリー」思想であるが、伏見さんは、この思想にただ保守的な見地からの「ジェンダー固定」の立場を対置するのではなく、生活の現場でこの思想を推進しようとすると、現在のジェンダーがはらんでいる抑圧的な面とそうでない面との仕分けが明確にできないという困難に突き当たると指摘する。ジェンダーを抑圧的と感じる人もいれば、幸福の契機と感じる人もいる。かつて自分が立てた「性別二元制」という構図は、「そこでの性愛に充実を感じている人たちの目で見たときに、必ずしも支配と被支配の構図ではありえ」ない。だからいま必要なのは、「どういう場合には性の非対称性を解消させ、どんな場で何を是正することが公正なのか、をもう少し冷静に議論してみること」であるという。現在のフェミニズム思想が陥っている硬直を解きほぐす、まことにしなやかでフェアーな主張である。
 三章では、映画『X-MEN』を巧みな比喩として用いながら、個にとって共同性は悪かという根源的な問題を扱っている。伏見さんの答を簡単に言うと、共同性は少数者を排除したり、その内部で抑圧的な構造を作る危険をはらんでいるものの、ある共同性から生きる意味やエロスを汲み上げる人々がいるとしたら、それを悪と決めつける根拠はないというものである。そこで私たちは、共同性「からの」自由を志向するのではなく、むしろ多様な共同性を選べる自由を確保しつつ、そこに生じる利害の対立を克服すべくお互いの共存をはかっていくことが望ましい。
 このように論点を抽出してしまうと、一見平凡な結論のようにも見えるが、ここには、さまざまに異なる条件を背負いながらこの世の「関係」を生きていかなくてはならない人間存在一般に対する確かな目が息づいている。また、単一の共同体的な規範のなかにまどろんでいたかつての時代とは異なり、よくも悪しくも「個の自由」を尊重せざるを得なくなった「現代」という時代の複雑さがよく踏まえられている。そして何よりも、こうした結論に達するのに抽象的な理論をもってするのではなく、「私」が抱え込んだ「痛み」という体験的な地点から出発して社会思想的な地平に至るまでのプロセスが、手に取るように描かれているところがこの本の特色である。ゲイの人によりも、むしろゲイではない「ふつうの人」にお勧めしたい。自分の問題が書かれている、と感じること必定である。

【プロフィール】
こはまいつお●
1947年、横浜市生まれ。批評家。家族論、学校論、思想、哲学など幅広い評論活動を展開。2001年より思想講座「人間学アカデミー」(http://www.ittsy.net/academy/)を主宰する。

【著書】
人はなぜ死ななければならないのか/洋泉社新書y/2007.2/\780
死にたくないが、生きたくもない。/幻冬舎新書/2006.11/\720
方法としての子ども/ポット出版/2006.02/\2,500
「責任」はだれにあるのか/PHP新書/2005.10/\720
人生のちょっとした難問/洋泉社新書y/2005.07/\780
善悪ってなに?働くってどんなこと?/草思社/2005.03/\1,200
正しい大人化計画/ちくま新書/2004.09/\680
エロス身体論/平凡社新書/2004.05/\860
なぜ私はここに「いる」のか/PHP新書/2003.10/\700
やっぱりバカが増えている/洋泉社新書y/2003.10/\720
天皇の戦争責任・再考(池田清彦、井崎正敏、橋爪大三郎、小谷野敦、八木秀次、吉田司との共著)/洋泉社新書y/2003.07/\720
可能性としての家族/ポット出版/2003.07/\2,500
「恋する身体」の人間学/ちくま新書/2003.06/\700
頭はよくならない/洋泉社新書y/2003.03/\740
死の哲学/世織書房/2002.08/\2,000
人はなぜ働かなくてはならないのか/洋泉社新書y/2002.06/\740
癒しとしての死の哲学(新版)/王国社/2002.03/\1,900
人生を深く味わう読書/春秋社/2001.11/\1,700
「弱者」という呪縛(桜田淳との共著)/PHP研究所/2001.06/\1,400
「男」という不安/PHP新書/2001.04/\660
この思想家のどこを読むのか(佐伯啓思、山折哲雄、大月隆寛、松本健一、高沢秀次、西部邁、加地伸行との共著)/洋泉社新書y/2001.02/\790
なぜ人を殺してはいけないのか/洋泉社新書y/2000.07/\680
正しく悩むための哲学/PHP文庫/2000.05/\514
中年男に恋はできるか(佐藤幹夫との共著)/洋泉社新書y/2000.03/\660
「弱者」とはだれか/PHP新書/1999.08/\657
これからの幸福論/時事通信社/1999.07/\1,700
間違えるな日本人!(林道義との共著)/徳間書店/1999.06/\1,500
吉本隆明 思想の普遍性とは何か/筑摩書房/1999.03/\2,200
いまどきの思想、ここが問題。/PHP研究所/1998.09/\1,429
無意識はどこにあるのか/洋泉社/1998.07/\2,200
この国はなぜ寂しいのか/PHP研究所/1998.02/\1,400
現代思想の困った人たち/王国社/1998.02/\1,600
幸福になれない理由(山田太一との共著)/PHP研究所/1998.01/\1,238
14歳日本の子どもの謎/イースト・プレス/1997.11/\1,400
子どもは親が教育しろ!/草思社/1997.07/¥1,500
大人への条件/ちくま新書/1997.07/\720
ゴーマニスト大パーティー ゴー宣レター集3(小林よしのりとの共著)/ポット出版/1997.6/\1,400
癒しとしての死の哲学/王国社/1996.11/\1,748
方法としての子ども/ちくま学芸文庫/1996.10/\1,117
人生と向き合うための思想・入門/洋泉社/1996.09/\1,748
男はどこにいるのか/ちくま文庫/1995.12/\670
オウムと全共闘/草思社/1995.12/\1,553
間違いだらけのいじめ論議(諏訪哲二との共著)/宝島社/1995.04/\1,165
正しく悩むための哲学/PHP研究所/1995.04/\1,359
学校の現象学のために(新装版)/大和書房/1995.04/\1,800
先生の現象学/世織書房/1995.03/\2,200
中年男性論/筑摩書房/1994.10/\1,650
ニッポン思想の首領たち/宝島社/1994.09/\1,942
力への思想(竹田青嗣との共著)/学芸書林/1994.09/\1,748
家族を考える30日/JICC出版局/1993.01/\1,359
人はなぜ結婚するのか/草思社/1992.11/\1,262
照らし合う意識(竹田青嗣、村瀬学、瀬尾育生、橋爪大三郎との共著)/JICC出版局/1992.04/\1,699
症状としての学校言説/JICC出版局/1991.04/\1,650
試されることば/1991.08/\1,699
時の黙示/学芸書林/1991.02/\2,602
家族はどこまでゆけるか/JICC出版局/1990.11/\1,748
男はどこにいるのか/草思社/1990.11/\1,553
男がさばくアグネス論争/大和書房/1989.06/\1,505
可能性としての家族/大和書房/1988.10/\1,800
方法としての子ども/大和書房/1987.07/\1,600
学校の現象学のために/大和書房/1985.12/\1,500
家族の時代(小阪修平との共著)/五月社/1985.05/\1,400
太宰治の場所/弓立社/1981.12/\1,400

遙洋子[作家、タレント]●「現代のジェンダーにまつわる問題解説本」だ

2007-02-03 ポット出版

 ジェンダーは私にとっては最近禁句になっている。その言葉を口にするなり、会場だったりスタジオだったりの空気がこう着するのを感じるからだ。なによりお客さんの、その言葉の意味の認知度が天と地ほどかけ離れている。ジェンダーにしろ、フェミニズムにしろ、私の職場の芸能界という環境下においては、「ジェ・・・?」であり、「フェ・・・?」なのはここ10年変わらない。一般の方を前にする講演会のほうが意識の高い方がいる。しかしそれも一部であり、中途半端に片寄った理解をしている方は、途端に表情を曇らせる。
それが、「ジェンダー」だ。
 “ジェンダー問題”とは、“意味が分からない問題”と、差し替えてもいいくらいだとも思っている。そんなややこしい言葉なら、あんまり便利じゃないや、と私が使わないでいられるのも理由がある。
 私の周りでは働く女性が増え、彼女たちはまさしくジェンダーバイヤス(ああ、最近使っていない懐かしい響きであることよ!)に苦悶する。セクハラにしろ、女役割期待にしろ、自分たちにとっての快適な職場環境を阻害する背後にあるのが、ジェンダーである、という認識がなくっても、彼女たちは気づいている。
「なんかとてつもなく強靭な意識が権力を生み周りに迷惑をかけている」と。そのことに苦しみつつ自分のワーキングスタイル(誰と仕事し、どんな仕事を拒絶するか)を確立していっている。その姿を見ていると、「それをジェンダーというのよ」とあえて言う必要性をあまり感じない。言ったところで「ジェ・・・?」になるのだから。

 伏見氏は好青年だ。自分なりの世界観を持ち、おだやかに発言する姿に私は大変いい印象を持った記憶がある。その背後に、これほどの広く緻密な“性別”への丁寧な解きほぐしがあったうえでの事なのだと、改めて痛感したのが『欲望問題』だ。
 今の時代、これほど真正面からジェンダーをとらえるには勇気がいる。フェミニズム界での微妙なジェンダー認識の温度差まで明確にしている。そして、いかにどうその言葉が世間で誤解され、歪曲されているかも知ることができる。この本はまさしく「現代のジェンダーにまつわる問題解説本」と私は見た。
 もちろん、その前後には何を“差別”と見るか、という、深刻な問いかけもある。
「痛みだけを根拠にそれが差別だと言えるわけではなく」という氏の表現がある。
 ほんとうにそうだと思う。誰かの痛みが、それが妥当な痛みであると世間に判断されない時に、より強い叫びは、世間の強い苛立ちになって跳ね返ってくる。
 痛みを叫ぶ側としても、聞く側としても、深く考えさせられる。

 私なんかは面倒くさがり屋なので、「ジェンダーでゴチャゴチャ言われるならもういいやっ」と放り投げがちだが、ここまで真っ向から取り組み目を逸らさない本を読むと、ただただ頭が下がる。そして、その分析軸を氏は過去、これほどまでに必要としたのだと思うと、そこにあっただろう痛みもよぎる。そこから出発した視点に勝るものはないと私は思う。

【プロフィール】
はるかようこ●
大阪市出身。作家、タレント。関西地方を中心にテレビ、ラジオにてタレントして活躍するかたわら、1997年から3年間、東京大学大学院の上野千鶴子ゼミにてフェミニズムを学ぶ。以降本格的に著作業に取り組む。
『遙洋子ネットワーク』◎http://www.haruka-youko.net/

【著書】
介護と恋愛/ちくま文庫/2006.9/¥620
働く女は腕次第/朝日新聞社/2006.9/¥1,300
いいとこどりの女/講談社文庫/2006.6/¥495
結婚しません。/講談社文庫/2005.1/¥467
美女の不幸/筑摩書房/2004.12/¥1,300
東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ/ちくま文庫/2004.11/¥620
働く女は敵ばかり/朝日文庫/2004.3/¥540
ハイブリッド・ウーマン/講談社/2003.1/¥1,500
介護と恋愛/筑摩書房/2002.3/¥1,300
野球は阪 私は独身/青春出版社/2002.2/¥1,300
働く女は敵ばかり/朝日新聞社/2001.5/¥1,400
結婚しません。/講談社/2000.9/¥1,400
東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ/筑摩書房/2000.1/¥1,400

松沢呉一[ライター]●欲望のためのジェンダーレス教育を!

2007-02-03 ポット出版

『欲望問題』を読んで、やっとジェンダーフリー教育に対する私の立場が明確になりました。もともとそう考えてはいたのですが、整理し切れていなかったのです。伏見氏が意図するように、この本は議論の契機を作り出す力がありそうです。

では、その私の立場を表明することで、本書への賛同あるいは批判とさせいたただきます。

この間のジェンダーフリーをめぐる議論は、もっぱら教育の場でジェンダーをどう教えるか、どうとらえるかについてのものです。ここで私が書いていることもその範囲のことです。

「ジェンダーフリーはジェンダーレスではない」という人々に対して、私は「そんな中途半端なことは言いなさんな」と思わないではいられない。『欲望問題』で指摘されているように、この両者を区分する基準は明示されておらず、明示されていてもさしたる意味がなく、にもかかわらず、「ジェンダーレスではない」とするのは、自分たちの立場を曖昧にし、さらなる批判を招くだけです。

ジェンダーフリー派の不徹底さを批判した点において、私は伏見氏に同意しますが、それ以降において、伏見氏とは大きく立場が違うのかもしれません。゜

私はジェンダーレス教育を支持します。ジェンダーレスで何がいけないのか。

私には、名簿に男女の別がないことの何が問題なのかわかりません。その他のすべての面において、女子と男子がまったく同じ扱いになったところで何が問題なのかわかりません。女子でも、旋盤を触りたいのがいるでしょう。柔道をやりたいのがいるでしょう。男子でも、料理を作りたいのがいるでしょう。新体操をやりたいのがいるでしょう。だったら、やらせればよく、その選択ができるに越したことはない。

「組体操で、女子が下の段になっていいのか」なんてバカバカしいジェンダーフリー批判をテレビでやっていたのを観たことがあります。いいに決まっているじゃないですか。体重100キロの女子を40キロの男子が上に乗せなければならないことの方がずっと理不尽。男女問わず、体重や体力、あるいは本人の希望で下になる生徒を決定すればいいだけのことです。

「現にプロスポーツでも、国体でも、オリンピックでも、男女は別だ」という意見もありましょうが、男女別は学外の活動でやればいいこと、あるいは選択ができる部活でやればいいことであって、等しく参加を強いられる授業でやるべきことではない。

「体育の時間の着替えが一緒でいいのか」との批判も必ず出てきますが、まったくもってその通り、同性だからと言って着替えが一緒である現状がそもそもおかしいのです。同性にだって着替えを見せたくないし、着替えを見たくないのだっているのだから、男女問わず、個人の更衣室を学校が用意すればよい。

同性愛者やGIDのことだけを言っているのではなくて、水泳の着替えで裸になる際、チンコが小さくて(大きくて)恥ずかしい、乳房が小さくて(大きくて)恥ずかしい、陰毛が濃くて(薄くて)恥ずかしい、家が貧乏で汚いパンツで恥ずかしいという男や女の事情を考慮していない実情は解消すべきです。

生徒が減っているのですから、個人の更衣室を作るくらいのスペースはほとんどすべての学校にあることでしょう。そうすることに、学校が維持できなくなるほどの予算や手間がかかるとはどうしても思えません。

個人の更衣室など作れないというのであれば、性別を問わず、すべて一緒でいいでしょう。そんなことになったら興奮しかねない、羞恥心で自殺しかねないというのなら、同性に裸を見せたくないのに晒させ、裸を見たくないのに見せている現状をどうして放置しているのか。

病院でも、他の患者に裸を見せるわけではないのだから、身体検査も一人一人やればよく、同性だから、裸を見ても見られてもいい、同性だから、体重や身長、視力を他者に知られてもいいと考えることが間違っています。小学校であれば、しばしば身体検査には教師も立ち合うわけですが、生徒の裸を見て興奮している教師もいるに違いなく、どうしてそれを放置しているのでしょう。

トイレも同様にすべて個室にして、男女どちらでも使用できるようにすればいい。食い物屋でも家庭でもしばしばそうなっていますが、それで困ることなどありましょうか。「生理用品を男子に見られたくない」というのなら、鍵のかかるゴミ箱を設置すればよい。

予算的、物理的にできないことについては、妥協することも当然あっていいでしょうが、解消できることについては解消すればいいだけです。「完璧にはできない」といくら言おうとも、何もしないことの理由にはならないのです。

なぜこういった差を解消した方がいいのかと言えば、男らしさ、女らしさを個人が選択できるようにするためです。男らしくありたい女、女らしくありたい男の選択をも許す社会であるためには、公教育の場では、「男が男らしく」「女が女らしく」というジェンダーの押しつけは極力ない方がいい。

その環境にもかかわらず、大多数の男が男らしさを求め、大多数の女が女らしさを求めるのなら、個々人の選択の結果として、それもまたよし。いいかどうか知らないですが、個人の領域における少数派の選択が許されていることが保証されている限りにおいて、それも現実ってことで受け入れればよい。

昨秋、街行く女たちのスカート率を調べたのですが、制服を除く、若い世代の服装で言えば、スカートは2割程度です。必ずしもパンツ姿が女らしさを排除しているわけではないのですが、女の象徴とでも言うべきスカートは2割しかいない。冬ともなれば、その率は1割程度に下がっているでしょう。

その結果、女子中高生の制服がやたらと目立ちます。工業高校など一部の高校ではパンツとスカートと二種の制服を選択できるようになってますし、授業中でもジャージ着用が許されている学校もありますが、制服のある高校ではほとんどがスカートです。このことは、女たち自身の選択以上に、スカートを強いられていることを示唆します。

制服廃止運動が盛んだった時代に青春期を送ったためかもしれませんが、スカートでなければ女らしさを実践できないとする現実、あるいは学校教育の中で女らしさを教えなければならないとする現実には今も違和感があって、そんなもんは学校で教えるべきことではありません。

伏見氏はジャージ姿の女は魅力がないかのように描写してますが、これは彼が想像するヘテロイメージにすぎず、クラブにでも行けばジャージ姿の女の子たちがいて、私は欲情しっぱなしです。

体育の時間に着たジャージとは違うわけですが、「体育の時間に着たジャージではないジャージで男を惹きつける」という選択もまた可能ってことであり、その選択を最大限認め、「ジャージよりもフリルのついたスカートがいい」という男を惹きつける選択も最大限認めるためには、制服なんてやめてしまえばいいでしょう。それでもなお9割がスカートになるのだとしても、それは選択の結果であり、教師が「女らしい格好をすべきではない」なんて言う必要はない。

あるいは学校は性的な魅力をアピールする場ではないのですから、男女ともに同じ制服にしてもいい。それこそジャージでいいのではなかろうか。

どうもジェンダーについてはこういう考えがスムーズには受け入れられないようですが、他のジャンルでは当たり前のように実践されています。公立の学校で、池田大作の本を読むことを強いれば多くの人が反発することでしょう。学会員だって、そこまでは要求しまい。するのもいるかもしれないけど、決して受け入れられまい。

名簿を宗派別にすること、教室の前に神棚があること、給食でブタ肉を禁止すること、生物の時間に「人類は神が作り給うた」と教えることも反発されるでしょう。当然です。

これは無宗教を強いるためではなくて、あらゆる宗教を信じることの自由を保証するためです。ですから、家でその生徒が大川隆法の本を読んでいようと、日曜日に教会に通っていようと、家族間で手かざしをしてようと、学校や他の親たちがとやかく言うことではありません。もちろん教師の信仰も同様に保証されなければなりません。

思想においても同じく学校で偏向した教育をするのは好ましくない。しかし、生徒がどんな思想をもつのも勝手、あるいは親が子どもにマルクスの「資本論」を読ませるのも、ヒトラーの「わが闘争」を読ませるも勝手。

なぜこれがジェンダーにおいて受け入れられないのかが私にはわからない。ここで宗教や思想を例にしたのは、宗教や思想とジェンダーとが同じだと言っているのではなく、考え方を見せやすくするためです。ジェンダーには生物としての性が関係しているため、どうやっても意識しないではいられないものだろうとは思います。

しかし、宗教においても、文化、習俗、習慣に根付いている部分があるため、それらを完全に排除することは難しいでしょう。そこをことさらに取りあげて、「だったら、教師が初詣や墓参りに行ったことを生徒の前で表明することもできないのか」「修学旅行で神社仏閣に行くこともできないのか」「学校でクリスマスを祝ってはいけないのか」と、公教育に特定の宗教を持ち込まないことを全否定する人はいないでしょう。

「宗教と文化、習俗、習慣」「公教育と私的領域」の間の一線をどこに引くのかを決定するのはたしかに難しい。難しいながらも、また、曖昧な部分を残しながらも、この国では、一応は、公教育に特定の宗教を持ち込まないというルールが支持されています。

にもかかわらず、ジェンダーにおいては、細部で全否定したがる人がいかに多いことか。組体操しかり、トイレしかり、着替えしかり。

「男は男らしくあらねばならない」というのなら、自分が実践すればよいことです。「男らしくない男を受け入れられない」というのであれば、同様の男たちだけと交流すればよい。そういう男にのみ性的魅力を感じるのであれば、そういう男と自分がつきあえばいい。そのことがどうして教育という場で実践されないと、自分が男らしくいられないのか、自分が男らしい男とつきあえないのかがわからないし、どうして「男らしさ」「女らしさ」を学校が担わなければならないのかがわからない。

「男らしさ」「女らしさ」は学校教育の範疇ではなく、男らしい子ども、女らしい子どもにする教育が望ましいというのなら、親が家庭で実践すればいいだけです。

『欲望問題』において、「ジェンダーレスの社会が可能か不可能か」が、この問題の判定基準になっているかのように見えるところがあるのですが、その意味も私にはわかりません。「宗教がなくなる社会が可能か否か」と「公教育の場で特定の宗教が教えられることの是非」とは無関係であり、可能か否かの議論をする必要さえありません。「宗教はなくならない。だから、公教育の場に持ち込んではいけない」という論理が可能だからです。

有効であるとするのなら、「公教育の場で特定の宗教を教えないことは不可能あるいは有害」「公教育の場でジェンダーレス教育は不可能あるいは有害」という批判であらねばならないはずです。

もはや言うまでもないことですが、私はジェンダーのない社会を目指しているわけではありません。一律のジェンダーで統一されるどんな社会も目指していない。個々人がそれを選択した結果として一色に染まることや、ジェンダーが消失することはいいとしても、それを強いることにも反発している。「ジェンダーをすべて解消する社会にすべし」とするジェンダーレス教育にも私は反対なわけです。

この議論は、売買春の議論と通底しています。私が「売防法撤廃」を主張しているのは、誰もが売買春をする社会を求めているのではなく、売買春をするもしないも個人の自由である社会を実現するためです。その自由を妨害する制度に反対をしています。

売買春をしたくない人、してはならないと考える人はしなければいいだけであって、その個人の思想や信念、体質、趣味、嗜好と、国家の制度が合致していないと納得できない人たちを一貫して私は批判しています。

「売春するような女は不潔だ、買春するような男は野蛮だ」という感覚をもっている人たであっても、娘に「おまえが売春したら勘当だ」と日々言っている人であっても、そのことを国家に支えてもらう必要はないのですから、矛盾なく売防法反対を言っていい。

風俗ライターを廃業して以降、私は風俗店にまったく行かなくなってますが、それでも売防法反対の立場は変わらない。矛盾があろうはずがないのです。

「不倫はいけないことだから楽しい」と考える人たちは、個人として「不倫はいけない」という価値観を頑なに守り、同様の価値観を持つパートナーを探し、その上で不倫をすればいい。これを姦通罪という法で維持してもらう必要はないのだし、教育の現場で、「不倫はいけない」とことさらに生徒に教えなければ自分の信念を支えられなくなるはずもない。

そんな法がなくとも、そんな教育がなくとも、多くの人たちは個人の信念として、あるいは個人と個人の約束として、「不倫はいけない」という価値観を維持してます。その上で不倫を楽しんでいる人もいます。

『欲望問題』で提示されている個々人の欲望による選択というのは、まさにこういうことであり、一般に「不倫がいけない」という価値観が広く浸透しているのは、姦通罪や「貞淑であるべき」という教育によって国家が強制していたためではなく(これもあるにせよ)、個々人の内面から出てきた欲望に基づいたルールであることが想像できます。それさえも社会によって作られたものであるという言い方も可能ですが、だとしても、それに委ねればいいだけで、法や社会制度に依存しなくていい。

一方には、そのルールを共有しない人たちもいて、それはそれで個人が実践すればいいことであり、事実、実践しているカップルもいます。互いに互いの行動には干渉しないとか、互いに互いの行動を報告し合うことで興奮して性生活に潤いを持たせるとか、一緒にスワッピング・パーティに参加するとか。それを国が罰する必要などありはしないでしょう。

これらの多様な人々が共存できるためには、姦通罪などいらないってことであり、同じく売防法もいらない。そして、教育の場でのジェンダーの押しつけもいらない。

つまり、この問題は、道徳規範や個人の価値観が決定すればいいことを教育の場に委ねること、国家に委ねることの是非についての議論にほかなりません。換言するなら、「自分の子どもをどう育てるのか」についての親の権利を譲り渡していいのかどうかの議論です。

「自分が不倫をどう感じるか」「自分が売買春をどう感じるか」の個人の感覚を国家が支えてくれないと納得できない人たちの気持ち悪さは、「自分の男らしさ、女らしさの感覚は、教育の場で他者に強いないと実現できない」と考える人たちの気持ち悪さと一緒です。

さらに言えば、この気持ち悪さ、バカバカしさは『欲望問題』の中に出てくる、子どもに「男らしく」と躾ることを躊躇う親にも通じます。それがいいと思えばそう育てればいいでしょう。そのことと、教育の場でのジェンダーレスは矛盾するものではない。

家では夫が妻を縛りあげて逆さ吊りにして、ムチで叩いたり、ロウソクを垂らすSM趣味の夫婦が、あるいはその逆の趣味の夫婦が、学校に対してはジェンダーレスを求めることになんの問題がありましょう。

個々人が自らの欲望に忠実であるために、ジェンダーレス教育が実現されるべきという私の立場から見た時に、たしかにジェンダーフリー教育を支持する人々は、「社会制度がどうあるべきか」「個人の嗜好がどうあるべきか」の関係がクリアではないように見えるところがあります。方向が違うだけで、「男は男らしくあるべき」という個人の価値観を国が共有しないと納得しない人たちと同じ原理で動いているのではないか。

もし私が「女らしい女がいい。オレがわがままを言っても文句を言わず、浮気をしても気づかないふりをして、素直に従う女が一番」と個人の嗜好を語ったとしても、彼らは怒り出しそうです。現実にはそうは思ってなくて、「つきあうならヤリマンか売春婦」と私はよく言ってまして、たぶんこれも受け入れない人たちがいるのでしょう。個人として受け入れないことはいいとして、こういう人たちはそれが社会の当然のルールであるかのように排除してきます。こういう人たちからは排除されっぱなしですよ、私。

しかし、そういう私の選択を認めることを前提としない限り、公教育の場での男女格差をなくすことは、価値観の強要にしかならならず、多くのジェンダーフリー論者と私が相容れないところです。

私と同じ立場のジェンダーフリー論者もちょっとはいるのだろうと想像していたのですが、『欲望問題』を見る限りはいないみたい。

私が言うところのジェンダーレス教育は、個人の選択が最大限認められることと対ですから、売防法のような法律はいらず、表現の自由も当然最大限認めるべきで、ポルノ規制を主張するようなジェンダーフリー派は私の敵であります。

宗教のない世界を目指すために宗教教育を排除するのは、無宗教の強要でしかなく、公教育の場に宗教を持ち込ませない憲法の考え方とは似て非なるもので、真っ向から対立します。

選択肢を許さないジェンダーフリー教育ではなく、最大限の選択肢を認めるためのジェンダーレス教育を!

以上が私の考えですが、その私から見た時にも、伏見氏が危惧するように、『欲望問題』は「伏見は保守に転向した」との非難をされる余地を与えてしまっているようにも思います。

『欲望問題』においては、批判の先にあるヴィジョンが明確には示されていないために、ともすればジェンダーフリー派を批判した単なる現状肯定のものととらえられかねない。「解消すべきところがまだあるにしても、男らしさ、女らしさがあった方が楽しいのだから、おおむね今のままでいいではないか。あとは個人の欲望が決定すればいいのだ」と読めてしまいます。あるいは、事実、伏見氏はそう考えているようでもあります。

学校は欲情させること、欲情することを目的とする場ではないのですから、そこで求められるのは、異性の、あるいは同性の欲望を喚起する格好、仕草、言葉遣いではなくて、どの欲望も選択できる将来を保証することです。伏見氏の主張の延長上には、そのような考え方が存在するはずなのに、本書からはそれが見えない。

ジェンダーフリー論争を概括し、そこにある問題点を抽出して整理した点において優れているだけに、その先が見えてこない点に私は不満を感じた次第です。

【プロフィール】
まつざわくれいち●1958年生まれ。ライター。90年代後半から風俗ライターとして活躍するも、近年廃業宣言。しかしその執筆熱は衰えず、月に1000枚を越える分量をほこる、有料メールマガジン「マッツ・ザ・ワールド」配信中。
HP:『黒子の部屋』
http://www.pot.co.jp/matsukuro/
『教えてクレイチ!』
http://www.ping-net.com/digi/kureichi/kureichi.html

【著書】
熟女の旅/ちくま文庫/2005.2/\780
60分ロマンス 風俗ゼミナール体験編/ポット出版/2004.7/\1,700
風俗見聞録/ポット出版/2003.12/\1,800
ぐろぐろ/ちくま文庫/2003.12/\740
風俗ゼミナール 上級お客編/ポット出版/2003.5/\1,500
エロ街道を行く/ちくま文庫/2003.2/\780
風俗ゼミナール 上級女の子編/ポット出版/2002.6/\1,700
亀吉が行く!(長田要との共著)/ポット出版/2001.7/\1,600
風俗ゼミナール 女の子編/ポット出版/2001.4/\1,700
風俗ゼミナール お客編/ポット出版/2001.4/\1,700
魔羅の肖像/新潮OH!文庫/2000.12/\771
風俗就職読本/徳間文庫/2000.2/\629
熟女の旅/ポット出版/1999.8/\1,800
ポップ・カルチャー/毎日新聞社/1999.4/\1,400
糞尿タン/青林堂/1999.4/\1,300
恐怖の大玉/ポット出版/1999.1/\1,600
えろえろ/ポット出版/1998.10/\1,600
大エロ捜査網/青弓社/1998.10/\1,600
風俗バンザイ/創出版/1998.8/\1,600
エロ街道五十三次/青弓社/1998.6/\1,600
ぐろぐろ/ロフトブックス/1998.5/\1,333
魔羅の肖像/翔泳社/1996.5/\1,942
鬼と蝿叩き/翔泳社/1995.8/\1,553
新宗教の素敵な神々/マガジンハウス/1995.4/\728
エロ街道を行く/同文書院/1994.12/\1,262

黒川創[作家]●答えられなかったことを通して、その問いについてさらに考える

2007-02-02 ポット出版

 ことの善し悪しは、法律に照らせば、確かめられるか。
 そのことが、まず、本書の冒頭に置かれる問いである。
 著者・伏見憲明のもとに、およそこんな内容の悩み相談のメールが届く。28歳の男性、同性愛者からのものである。
 ──自分は、大人になる前の少年が好きなのです。けれど、それがいけないことだというのはわかっていますから、実際には少年との性行為を行なったことはありません。しかし、もうそれも限界に達しているのです。最近では、街で好みの少年のあとをつけていたり、もう少しで声をかけそうになっている自分にハッとします。それと同時にぞっとします。いったい私はどうしたらよいでしょうか……。
 これに対して、結局、伏見は次のように答えているだけだ。
 「つらいお気持ちはわかりましたが、ぼくには何も言うことができません。ただ、我慢してください、としかアドバイスのしようがないのです」
 なぜか。
 それはいけないことだ、そんなことをやったら犯罪者だ、と答えることはできよう。けれど、それでは、男性からの問いに対して、答えられていないことは明らかだ。
 というのは、この男性は、少年を相手に「淫行」すれば法によって罰せられることなど、すでに最初から知っている。だからこそ、彼はこのメールを著者のもとへ送ってきた。だが、同時に、彼がそうした行為を「いけないこと」だと認識しているのは、法がそれを禁じているから、というだけのことではないのである。
 年端もいかない少年と性関係を結ぶためには、おそらく自分はそこに相手と対等ならざる権力関係を持ち込むことになるだろう、と、この男性は感じている。だとすれば、それは、相手の少年の人格などを、将来にわたって損なうおそれがあるのではないか。
 この男性が、少年との性交渉を「いけないこと」だと感じているのは、そうであってこそのことだ。つまり、ここで彼は現行の法に対して承服している。だが、これを「いけないこと」だとする彼自身の倫理的な根拠は、むしろ、その法の存在のいかんを超えたところにある。つまり、仮りに現行の法がなくても、おそらく自分(男性)はそれを「いけないこと」だと見なしていたのではないのか。そして、この認識こそが、いまの彼自身の心と肉体を、性欲の自然な発露とのあいだで苦しめているのである。
 したがって、いま、ここに置かれている問いは、たとえば、──自分は未成年者なのですが、お酒がたいへん好きなのです、どうしたらよいでしょうか──とか、──自分はマリファナが好きなのですが、日本の法では禁じられています、どうしたらよいでしょうか──という問いのありようとは、違う。ここでの問いは、「淫行」の相手というかたちで、“他者”の存在を前提としているからである。酒やマリファナを楽しみたければ、触法のリスクを自分自身の身に負う覚悟で、それを取るという選択もありえよう。だが、少年を相手に性関係をもつという行ないは、たとえ法的な処罰は自分が負ったところで、その行為がもたらす禍根は相手の少年に及ぶ可能性を避けられない。
 ところで、この相談相手に対して、伏見憲明が「つらいお気持ちはわかりましたが……ただ我慢してください」と答えることに、われわれ読者は落ち着かない気分を味わう。というのは、性愛をめぐる相手のタイプの「好み」というものは、もともと、せいぜい五十歩百歩で、他人に自慢できるようなものでないことは、誰もがひそかに感じているからである。
 博愛とか、平等の原則とかは、そこにない。デブより痩せ型が「好み」といったようなことは、自分自身のなかで、打ち消しようがないのである。フケ専も、萌え系も、何でもあり。こうした嗜好は、それぞれ、自分に宿りついてしまった「偶然の産物」とでも受け取っておくほかはない。そのなかにあって、ことさら少年愛者だけを「異常者」と呼んで断罪する資格が、はたして自分にあるかという自問が脳裏をかすめていくのである。
 伏見憲明は、このようにして、取り組むべき“問い”の形を、自力でつかみだしてくる書き手である。そこから手掘りで、考えを進めていく。自分自身の納得を求めて、深く掘り進む。それこそが、不遇な場所に閉じこめ置かれた自身の欲動を、解き放てる道筋でもあったからだ。少なくとも、20代後半での最初の著作『プライベート・ゲイ・ライフ』では、そうだった。彼はまず、そうやって自分の行き道を照らすことで、ほかの読者たちの場所をも照らしたのである。
 いま、40代にさしかかり、日本社会での同性愛者への認知は大きく進んできたと、彼は言う。だからこそ、次にはここで、そうした多様な嗜好を互いに認めあう、より対等で自由な〈社会関係〉の構築を模索していきたいと、彼は考える。そうやって書かれた本書『欲望問題』でも、最初の著作からの持続力、そして、同じ井戸から問題を汲みだしながら更新していく力に、脱帽する。
 ことの善悪の根拠が法律にあると考えるなら、国家が命じる戦争のもとでは、兵士とされる一人ひとりが戦場での殺人(もしくは戦死)を拒める理由はないということになろう。だが、それだけではないはずだ。人は、自分の良心のとがめによって、また、信仰の名によって、あるいは、ただ恐怖心からだけでも、戦場から離脱することがありうる。それらも、また、ことの善悪を、個人のなかで分けている根拠である。冒頭にあげた28歳の男性が、自身の性的苦痛のなかでも、なお少年との性交渉を「いけないこと」だと感じる理由も、このことにいくばくか重なるところがあるだろう。国家は、国家批判の権利(あるいは義務)をそれとして法文に明記することはないのだから、私たちはそれを自分の心のなかに留めておくほかはない。
 右に揺れ、また左に揺れる、このぶらぶらとした穂先の遊びの部分の輝き。体の重心をそこに預けようとする姿勢が、著者の伏見の態度のなかにある。
 国家だけではなく、あらゆる権力が、絶対的に腐敗する。社会的な運動においても、そこから自由なわけではない。昨今の行政機関などからの「ジェンダーフリー」への攻撃ぶりについて、それをバックラッシュ(反動)と片づけず、「ジェンダーフリー」派の論旨の揺れも押さえて議論を深めようとする伏見の姿勢に、運動者としての成熟が見える。社会行動には「政治」が伴う。ならば、自身が行なっている日々の「政治」を意識にとどめることで、その「政治」にも批判的検証の目を向けつづける以外に道はない。
 性愛というものが、(その相手が同性か異性かにかかわらず)つねに自分とは異なる“他者”を求めるものである以上、性をめぐるさまざまな区別だて、また、そこでの愉しみは、どこまでも残っていくようには思うのだが。
 ともあれ、本書に対して、私からのちいさな批判を最後にひとつだけ。
 この『欲望問題』のあとがきにあたる一節は、《命がけで書いたから、命がけで読んでほしい》と題されている。著者によって、本書が、そのような強い気組みで書かれていることを私は疑わない。にもかかわらず、そうした著作も「命がけで」読まれたりはしないものだ。
 それでも、その一冊の本が書かれ、たとえちゃらんぽらんにでも一人の読者に読まれることは、書き手にも、読者の人生にも、意味がありうる。私はそう思いたい。そして、おそらく、そのように考えるほうが、著者である伏見さんのこれまでの態度にも適っているのではあるまいか。
 アンドレ・ジイドは、50代なかばで、同性愛者としての自覚のもとに、しかも、語り手の小説家のなかにある少年愛の傾向を最後の一行まで手放さず、『贋金つくり』という実験的な長編小説の名作を書き通した。まだ、ここから先にも、道がある。50代以後の性愛は、おそらく生老病死、あるいは、さまざまな他者の人生へのふくらみをさらに合わせ持ち、著者・伏見憲明による相互扶助論へと道を開いていくのであろうと、私自身はこの本を受け取った。

【プロフィール】
くろかわそう●1961年、京都市生まれ。作家。『思想の科学」元・編集委員。近年は小説を主に執筆。『もどろき」が第124回、『イカロスの森」が第127回芥川賞候補になる。

【著書】
日米交換船(鶴見俊輔、加藤典洋との共著)/新潮社/2006.3/¥2,400
明るい夜/文藝春秋/2005.10/¥1,800
イカロスの森/2002.9/¥1,700
もどろき/新潮社/2001.2/¥1,600
硫黄島/朝日新聞社/2000.2/¥2,300
若冲の目/講談社/1999.3/¥2,800
国境/メタローグ/1998.2/¥2,800
リアリティ・カーブ/岩波書店/1994.8/¥2,330
水の温度/講談社/1991.7/¥1,456
先端・論/筑摩書房/1989.7/¥1,699
〈竜童組〉創世記/ちくま文庫/1988.12/¥520
電話で75000秒(宇崎竜童との共著)/晶文社/1988.11/¥1,505
熱い夢・冷たい夢 黒川創インタビュー集/思想の科学社/1988.4/¥1,800
〈竜童組〉創世記/亜紀書房/1985.12/¥1,800

橋爪大三郎[社会学者]●他者に通じる言葉で研ぎ出された欲望の相互承認への提案

2007-02-01 ポット出版

 よく考え抜かれた本である。
 読んでいて感心するのは、著者・伏見さんが、自分はゲイであると周囲に宣言した当時のぎりぎり余裕のない状況から、さまざまな紆余曲折をへて、いまの考えに至るまでの道筋を、冷静に見つめ、正確な自分の言葉で語っている点である。人間はそれこそ千差万別で個性的な存在だが、このような手続きを踏むことで、誰でも何かしら思い当たるところのある、他者に通じる言葉が研ぎ出されるのだ。
 さて、本書の核心は、ゲイを、差別の問題ではなく欲望の問題としてとらえ直したことである。
 市民社会を生きる倫理の根底に、欲望(エロス)を置く、たとえば竹田青嗣さんの議論がある。さかのぼればホッブズも、個々人の譲ることのできない欲望を起点に、近代国家の枠組みを構想したのだった。けれども、一般に、個々人が自由に欲望を追求すれば、結果として不平等をうむ。不平等のなかに放置された側は、正義の名のもと、いわれなき差別と闘い、人びとの好き勝手な欲望追求に待ったをかけなければならないという思想を抱くことになる。
 では、差別と闘い、差別を解消するとは、どのようなことか。
 これは、簡単でない。フェミニズムを例にあげるなら、男女共同参画。女性であることが理由で、男性とのあいだに実質的な不平等があるのなら、それは差別だ。それを解消する政策は、正当化される。いっぽう、ジェンダーフリーはどうか。原理主義的なジェンダーフリー論者は、性別そのものを敵視する。そもそも男女の性別があるおかげで、女性差別が生まれている。性別をなくしてしまえば、女性差別もなくなるはずだ、とする。ここまで極端な考えは主流でないとしても、フェミニズムは実際、性別をどう考え、差別と闘う戦略をどう樹てるかをめぐって、さまざまな考えに分かれている。
伏見さんがゲイ宣言をすると、フェミニズムから共闘の申し入れがあった。女性もゲイも差別されている、差別されているもの同士で連帯しましょう、というわけだ。
 ところがだんだん、喰い違いが明らかになる。フェミニズムは、「個人的なものは政治的である」とする。個人的なものである性の領域に、正義を要求する。「男らしい男」は否定すべき存在ということになる。でもゲイは、男性を好きな男性のこと。「男らしさ」はそこでは、欲望の対象であり、魅力なのだ。これを否定すれば、ゲイの存在も否定されてしまう。
 伏見さんは、差別に反対しようとすると、必ずしも自分の欲望に忠実であることができないことに、次第に気づき始める。差別に反対する運動自身が、抑圧をつくり出してしまう構造があるのではないか。そこで、自分の欲望をまず根拠にすえながら、その延長で差別の解消をめざす考え方の筋道を模索し始める。
 男女の性別は、構築されたものだという。それは確かだ。だが、構築主義がいうようにすべてが構築されたものなら、「構築されたものだから否定し解体すべき」とは言えないのではないか。そんなことをすれば、すべてが無に帰してしまう。──伏見さんの言うとおりであろう。
 性別がなくなれば、女性差別はなくなる。それは確かだ。だが、性別は、われわれの伝統的・文化的な生き方である。人びとの欲望もそれによってかたどられている。性別をなくせば、人びとが欲望をみたす可能性も破壊されてしまう。差別をなくすために、人びとはどこまでも欲望を断念すべきだとは言えないのではないか。──これも、伏見さんの言うとおりであろう。
 差別されたからといって、差別された側に、無条件で正義を要求する特権が与えられるわけではない。誰もが認めなければならない唯一の正義の代わりに、誰もが分かち持つめいめいの、ささやかで切ない欲望から始めよう、と伏見さんは言う。その欲望が相互に承認されるならば、差別は実質的に解消する。それをめざして、少しずつ、ねばり強く、語りかけることをこれからのスタイルにしよう、という提案が本書である。自由や平等を考えるうえでも、正義や差別を考えるうえでも、大切な論点だ。
 最後のところに、「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」とある。命がけで書いたから、命がけで読まれると決まっていないのが、この世界の実際である。とはいえ、じゃあ真剣に読もうかという気にさせる、真面目さとなかみがある。
 このように明確なメッセージをもった本書の登場を喜びたい。

【プロフィール】
橋爪大三郎◎はしづめだいさぶろう
1948年生まれ、神奈川県生まれ。社会学者(理論社会学、宗教社会学、現代アジア研究、現代社会論)、東京工業大学教授。http://www.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/text/index.html

【著書】
世界がわかる宗教学入門/ちくま文庫/2006.5/\780
あたらしい教科書3 ことば(加賀野井秀一、竹内敏晴、酒井邦嘉との共著、監修)/プチグラパブリッシング/2006.4/\1,500
隣のチャイナ/夏目書房/2005.12/\1,800
書評のおしごと/海鳥社/2005.9/\2,500
アメリカの行動原理/PHP新書/2005.7/\700
刑法三九条は削除せよ! 是か非か(呉智英、佐藤幹夫との共著)/2004.10/\760
言語/性/権力/春秋社/2004.5/\2,500
永遠の吉本隆明/洋泉社新書y/2003.11/\720
人間にとって法とは何か/PHP新書/2003.10/\700
天皇の戦争責任・再考/洋泉社新書y/2003.7/\720
「心」はあるのか/ちくま新書/2003.3/\680
日本人は宗教と戦争をどう考えるか(島田裕巳との共著)/朝日新聞社/2002.10/\1,300
その先の日本国へ/勁草書房/2002.5/\2,200
強いサラリーマン、へたばる企業(金井壽宏との共著)/広済堂出版/2001.12/\1,600
政治の教室/PHP新書/2001.10/\660
世界がわかる宗教社会学入門/筑摩書房/2001.6/\1,800
ヴォーゲル、日本とアジアを語る/平凡社新書/2001.4/\740
幸福のつくりかた/ポット出版/2000.12/\1,900
天皇の戦争責任(池田清彦、小浜逸郎、吉田司との共著)/径書房/2000.11/\2,900
言語派社会学の原理/洋泉社/2000.9/\2,900
こんなに困った北朝鮮/メタローグ/2000.8/\1,500
ひきこもりNo.1 知る語る考える(共著)/ポット出版/2000.3/\1,500
選択・責任・連帯の教育改革 完全版(堤清との共編)/勁草書房/\1,800
選択・責任・連帯の教育改革(堤清との共著)/岩波ブックレット/1999.1/\440
橋爪大三郎の社会学講義/夏目書房/1997.12/\1,748
研究開国 日本の研究組織のオープン化と課題(共著)/富士通経営研究所/1997.9./\2,500
橋爪大三郎の社会学講義2 新しい社会のために/夏目書房/1997.4/\2,000
オウムと近代国家(呉智英、大月隆寛、三島浩司との共著)/南風社/1996.5/\1,456
新生日本 求められる国家の改造(長谷川慶太郎との共著)/学研/1995.11/\1,165
橋爪大三郎の社会学講義/夏目書房/1995.10/\1,748
科学技術は地球を救えるか(小沢徳太郎、武本行正、西垣泰幸との共著)/1995.10/\2,136
大問題!Q&Aでわかる世紀末ニッポン/幻冬舎/1995.8/\1,359
性愛論/岩波書店/1995.2/\2,300
自分を活かす思想・社会を生きる思想/径書房/1994.10/\1,800
崔健 激動の中国のスーパースター/岩波ブックレット/1994.10/\388
中国官僚天国(訳)/岩波書店/1994.3/\1,553
橋爪大三郎コレクション3 制度論/勁草書房/1993.12/\3,000
橋爪大三郎コレクション2 性空間論/勁草書房/1993.11/\3,000
橋爪大三郎コレクション1 身体論/勁草書房/1993.10/\3,000
僕の憲法草案(鈴木邦男、呉智英、景山民夫との共著)/ポット出版/1993.3/\1,900
社会がわかる本/講談社/1993.3/\1,262
身体の深みへ(竹田青嗣、瀬尾育生、村瀬学との共著)/JICC出版局/1993.2/\1,796
現代の預言者・小室直樹の学問と思想(副島隆彦との共著)/弓立社/1992.7/\2,400
民主主義は最高政治制度である/現代書館/1992.6/\2,000
照らし合う意識(村瀬学、小浜逸郎、竹田青嗣との共著)/JICC出版局/1992.4/\1,699
試されることば/JICC出版局/1991.8/\1,699
現代思想はいま何を考えればよいか/勁草書房/1991.1/\1.900
冒険としての社会科学/毎日新聞社/1989.7/\1.359
はじめての構造主義/講談社現代新書/1988.5/\720
仏教の言説戦略/勁草書房/1986.12/\2,900
言語ゲームと社会理論/勁草書房/1985.8/\2,300

中村うさぎ[作家]●小倉千加子さんは鳥で、私は犬だったのね!

2007-02-01 ポット出版

 伏見氏の『欲望問題』は、今まで私の中ですごくモヤモヤしていた疑問を、一気に解明してくれた。「ああ、そうか」と、何か、胃の中に溜まっていたものがツルリと消化できた感じだ。こういうのを「腑に落ちる」というんですかね。
 ちなみに、私の抱えていた「疑問」とは、以下のようなことである。
 昨年、私は小倉千加子さんとの対談本を出した。私はそれまでに小倉さんの著書を何冊か読んでいて、とても感銘を受けたし、個人的にも小倉さんが大好きだったので、対談をとても楽しみにしていたのだった。
 なのに、いざ対談が始まると、私たちの言葉は何度も何度も、すれ違った。小倉さんの言ってることは、いちいち正しい。だけど、その言葉に頷きながらも、私の身体は「確かにそうなんだけどさ、でも……でも、なんか違ーう!」と叫び続けているのだ。
 たとえば小倉さんは「女性らしさを強調するボディコンシャスな服は、身体を締め付けて着心地よくはないでしょう」と言う。確かに、そのとおり。身体が苦しいと感じる以上、そのような服を着ることは「快感」とは言えまい。が、しかし、そこには「着心地」とは別の快感が、厳然と存在するのだ。女っぽくセクシーに着飾った自分が好き、というナルシシズムの快感。たとえそれが「ジェンダーの刷り込み」とかいう一種の洗脳であろうと、そこに快感を覚えてしまう私の心身は今さら初期化できるものでもなく、どんなに理論的に説得されようと頑迷に「でもでも、たとえ苦しくたって、ドルガバのセクシーな服を着る陶酔感は、着心地なんかブッ飛ぶほど気持ちいいんだもーん!」と叫んでしまう。要するに、私は理屈よりも快感を優先してしまう人間なのだ。それを愚かだとか間違ってるとか言われても(もちろん小倉さんはそんなことを言う人ではないが)、着飾ることの快感を、私は手放す気など毛頭ないの。
 そもそも私には、自分の身体を通して生まれた言葉しか信じない傾向がある。体験にこだわり、己の「身体を通して生まれた言葉」だけを書き続けようと心がけているのは、是非や正誤はともかくとして、それこそが自分の「魂の言葉」だと思っているからだ。だから、私の身体が「なんか違ーう!」と言ってるのなら、脳ミソがいくら「然り」と言っても、ダメなの、納得できないの。で、そんな自分の感覚を説明しようと頑張ったんだけど、何となく小倉さんには通じてない気がして、私はひどく落ち込んだのだった。ああ、私って、やっぱバカで頑固で俗悪なんだなぁ……と。
 で、このような私の自己嫌悪やじれったさが行間に溢れていたのだろうか、この対談本を読んだ私の父は、以下のような感想を述べたのである。
 「小倉さんって人は、きっと頭のいい人なんだろうな。だけど、おまえだって、あの対談を読む限り、そんなにバカってワケでもないよ(←これは親バカ)。ただな、おまえと小倉さんは、視点があまりにも違い過ぎるんだよ。小倉さんは鳥のように上空から、『女』という問題を俯瞰して眺めている。ところがおまえは、あくまで地上に住む動物の視点で、『女』を語っている。どっちの視点が間違ってるとか、そういう問題じゃない。ただ、鳥と犬とじゃ、同じ対象を見ていても、見えてる世界がそもそも違うだろ? あの本を読んで俺が感じたのは、これは鳥と犬の対談なんだなってコトだよ」
 なるほど、そのとおりだ、と、私は思った。私は犬のように地上に繋がれ、決して上空から物を見ることができない。その代わり、地上に住む生き物として、同族たちの悩みや苦しみや喜びをリアルに語ることができる。この「リアル」こそ、私が「身体から生まれた言葉」と呼ぶものなのである。一方、小倉さんは、鳥のように超越して、地上の生き物たちを眺めている。その視野は広く、全体的な構造もくまなく見渡せて、論旨も素晴らしく明確だ。ただ、小倉さんの言葉に、時折、私は「リアル」を感じられない。それで、私の身体が「なんか違ーう!」と、じれったそうに声を上げるのである。だけど、私の言葉は小倉さんに通じない。小倉さんに話しているうちに、自分がどんどんバカに思えてきて、惨めな気持ちになるだけなのだ。
 でもさぁ、これって、いったい何故なのかなぁ? 確かに鳥と犬とじゃ言葉が通じないのかもしれないけど、小倉さんだって普段は地上で生活してるワケじゃん? 現に私、プライベートで会ってる時の小倉さんが大好きなんだよ。一緒に飲んで語り合ったりしてると、すっごく楽しいの。なのに何故、対談の場では、私たちはこんなにすれ違っちゃうの? 小倉さんは仕事だからって急にお高くとまったりする人じゃないのに、「女の問題」について語り始めると、急に背中に翼が生えて、私の手の届かない上空へと飛び去っていってしまう……そんな気がしてならないのよ。この違和感は、何?
 と、まぁ、これが、私の抱えていた「疑問」だったワケである。そして、伏見氏の本は、その疑問に、じつに明確な解答を示してくれたのだ。ええ、そりゃもう、気持ちいいほどスッキリと明快に。
 「なるほど、そうか!」と、伏見氏の著書を読んだ私は、思わず膝を叩きましたね。小倉さんは「差別問題」を語り、私は「欲望問題」を語っていたのか! 鳥は上空から「社会という枠組みの中の女」を見渡し、犬は地上で「肉体という器の中の女」を見つめていたのだった。私は小倉さんから「鳥の視点」を教わったが、小倉さんに「犬の快感」を共有してもらうことはできなかった。何故なら、私は、どこまでいっても「欲望の犬」だから。
 本来なら、ここでまた落ち込むところだが、伏見氏の本は「それでもいいんだよ」と言ってくれてるような気がした。「鳥もまた、犬の視点を思い出さなきゃな」と。伏見氏のような頭のいい人にそう言っていただくと、これほど心強いことはない。そっか、私は無理して鳥にならなくてもいいんだね。たまには鳥の真似をして高い絶壁から世界を俯瞰してみようと努力はするけど(世界観が広がるしね)、基本的には犬のまま、犬の言葉を語っていくわ、私。だって、これが私の「リアル」なんだもの。それでも、犬が世界に向かって言葉を発し続けることに、きっと意味はあるわよね、伏見さん?

【プロフィール】
●中村うさぎ
1958年、福岡県生まれ。小説家、エッセイスト。1991年ライトノベル作家としてデビュー。近年では自らの浪費ぶり(ブランド物の購入、ホストクラブ通い、美容整形・豊胸手術)をつづったエッセイを中心に執筆。

【著書】
彼らの地獄 我らの砂漠(浅倉喬司との共著)/メディアックス/2006.12/\1,600
マッド高梨の美容整形講座(高梨真教との共著)/マガジンハウス/2006.11/\1,300
花も実もない人生だけど/角川文庫/2006.9/\476
芸のためなら亭主も泣かす/文藝春秋/2006.6/\1,333
愛と資本主義/角川文庫/2006.5/\590
最後の聖戦!?/文春文庫/2006.4/\476
幸福論(小倉千加子との共著)/岩波書店/2006.3/\1,500
私という病/新潮社/2006.3/\1,200
さびしいまる、くるしいまる。/角川文庫/2006.2/\514
美人とは何か?/文芸社/2005.12/\1,200
愚者の道/角川書店/2005.12/\1,300
オヤジどもよ!/文春文庫/2005.11/\448
うさたまのオバ化注意報(倉田真由美との共著)/2005.11/\952
うさたまの霊長類オンナ科図鑑(倉田真由美との共著)/2005.10/\1,000
うさぎ・邦正の人生バラ色相談所(山崎邦正との共著)/大和書房/2005.9/\1,300
女という病/新潮社/2005.8/\1,300
さすらいの女王/文藝春秋/2005.6/\1,286
うさたまのホストクラブなび(倉田真由美との共著)/2005.3/\514
結婚はオートクチュール(編著)/2005.2/\1,200
愛か、美貌か/文春文庫/2004.12/\448
女神の欲望(岩井志麻子、乙葉との共著)/メディアファクトリー/2004.12/\1,200
変?/角川文庫/2004.9/\476
地獄めぐりのバスは往く/フィールドワイ/2004.8/\1,238
自分の顔が許せない!(石井政之との共著)/平凡社新書/2004.8/\760
屁タレどもよ!/文春文庫/2004.7/\438
中村うさぎの四字熟誤(松田洋子との共著)/講談社文庫/2004.6/\400
うさたま見聞録(倉田真由美との共著)/角川書店/2004.5/\1,200
最後の聖戦!?/文藝春秋/2004.4/\1,238
うさたまの暗夜行路対談(倉田真由美との共著)/2004.4/\1,500
花も実もない人生だけど/角川書店/2004.4/\1,000
欲望の仕掛け人/日経BP社/2004.3/\1,600
月9/朝日新聞社/2004.3/\1,200
中村家の食卓/フィールドワイ/2004.3/\1,380
うさたま恋のER(倉田真由美との共著)/宝島社/2004.2/\1,250
イノセント/新潮社/2004.2/\1,300
生きる/マガジンハウス/2004.1/\1,200
最後のY談(岩井志麻子、森奈津子との共著)/二見書房/2003.12/\1,500
崖っぷちだよ、人生は!/文春文庫/2003.12/\457
穴があったら、落っこちたい!/角川文庫/2003.11/\438
壊れたおねえさんは、好きですか?/フィールドワイ/2003.8/\1,300
九頭竜神社殺人事件/講談社ノベルズ/2003.5/\740
美人になりたい/小学館/2003.4/\1,400
私、Hがヘタなんです!/河出書房新社/2003.2/\1,400
ダメな女と呼んでくれ/角川文庫/2003.2/\438
浪費バカ一代/文春文庫/2003.1/\476
犬女/文藝春秋/2003.1/\1,333
愛か、美貌か/文藝春秋/2002.12/\1,238
愛と資本主義/新潮社/2002.11/\1,500
うさぎの行きあたりばったり人生/角川文庫/2002.11/\648
さびしいまる、くるしいまる。/角川書店/2002.11/\1,500
うさぎとくらたまのホストクラブなび(倉田真由美との共著)/角川書店/2002.10/\1,500
オヤジどもよ!/フィールドワイ/2002.8/\1,200
人生張ってます/小学館/2002.8/\1,100
こんな私でよかったら…/角川文庫/2002.8/\476
変?/扶桑社/2002.8/\1,143
だって、買っちゃったんだもん!/角川文庫/2002.2/\438
崖っぷちだよ、人生は!/文藝春秋/2001.12/\1,238
さまよえるエロス[中編]/富士見ファンタジア文庫/2001.12/\420
ダメな女と呼んでくれ/角川書店/2001.12/\1,000
だって一度の人生だもん(かなつ久美との共著)/秋田書店/2001.10/\857
屁タレどもよ!/フィールドワイ/2001.10/\1,238
ショッピングの女王/文春文庫/2001.9/\438
人生張ってます/小学館文庫/2001.9/\552
税金払う人使う人(加藤寛との共著)/日経BP社/2001.7/\1,400
地獄に堕ちた亡者ども[上]/電撃文庫/2001.6/\490
パリのトイレでシルブプレー!/角川文庫/2001.2/\400
浪費バカ一代/文藝春秋/2000.12/\1,381
こんな私でよかったら…/角川書店/2000,10/\1,200
うさぎの行きあたりばったり人生/マガジンハウス/2000.7/\1,300
さまよえるエロス[前編]/富士見ファンタジア文庫/2000.4/\420
パルミットの笛吹き/電撃文庫/2000.1/\530
だって、買っちゃったんだもん!/角川書店/2000.1/\1.300
ショッピングの女王/文藝春秋/1999.9/\1,238
パリのトイレでシルブプレー!/メディアワークス/1999.9/\1,600
家族狂/角川文庫/1999.9/\400
だって欲しいんだもん!/角川文庫/1999.1/\438
女殺借金地獄/角川書店/1997.4/\1,200
家族狂/角川書店/1997.2/\1,000

プロモーションビデオ no.1

2007-01-30 ポット出版