黒川創[作家]●答えられなかったことを通して、その問いについてさらに考える
ことの善し悪しは、法律に照らせば、確かめられるか。
そのことが、まず、本書の冒頭に置かれる問いである。
著者・伏見憲明のもとに、およそこんな内容の悩み相談のメールが届く。28歳の男性、同性愛者からのものである。
──自分は、大人になる前の少年が好きなのです。けれど、それがいけないことだというのはわかっていますから、実際には少年との性行為を行なったことはありません。しかし、もうそれも限界に達しているのです。最近では、街で好みの少年のあとをつけていたり、もう少しで声をかけそうになっている自分にハッとします。それと同時にぞっとします。いったい私はどうしたらよいでしょうか……。
これに対して、結局、伏見は次のように答えているだけだ。
「つらいお気持ちはわかりましたが、ぼくには何も言うことができません。ただ、我慢してください、としかアドバイスのしようがないのです」
なぜか。
それはいけないことだ、そんなことをやったら犯罪者だ、と答えることはできよう。けれど、それでは、男性からの問いに対して、答えられていないことは明らかだ。
というのは、この男性は、少年を相手に「淫行」すれば法によって罰せられることなど、すでに最初から知っている。だからこそ、彼はこのメールを著者のもとへ送ってきた。だが、同時に、彼がそうした行為を「いけないこと」だと認識しているのは、法がそれを禁じているから、というだけのことではないのである。
年端もいかない少年と性関係を結ぶためには、おそらく自分はそこに相手と対等ならざる権力関係を持ち込むことになるだろう、と、この男性は感じている。だとすれば、それは、相手の少年の人格などを、将来にわたって損なうおそれがあるのではないか。
この男性が、少年との性交渉を「いけないこと」だと感じているのは、そうであってこそのことだ。つまり、ここで彼は現行の法に対して承服している。だが、これを「いけないこと」だとする彼自身の倫理的な根拠は、むしろ、その法の存在のいかんを超えたところにある。つまり、仮りに現行の法がなくても、おそらく自分(男性)はそれを「いけないこと」だと見なしていたのではないのか。そして、この認識こそが、いまの彼自身の心と肉体を、性欲の自然な発露とのあいだで苦しめているのである。
したがって、いま、ここに置かれている問いは、たとえば、──自分は未成年者なのですが、お酒がたいへん好きなのです、どうしたらよいでしょうか──とか、──自分はマリファナが好きなのですが、日本の法では禁じられています、どうしたらよいでしょうか──という問いのありようとは、違う。ここでの問いは、「淫行」の相手というかたちで、“他者”の存在を前提としているからである。酒やマリファナを楽しみたければ、触法のリスクを自分自身の身に負う覚悟で、それを取るという選択もありえよう。だが、少年を相手に性関係をもつという行ないは、たとえ法的な処罰は自分が負ったところで、その行為がもたらす禍根は相手の少年に及ぶ可能性を避けられない。
ところで、この相談相手に対して、伏見憲明が「つらいお気持ちはわかりましたが……ただ我慢してください」と答えることに、われわれ読者は落ち着かない気分を味わう。というのは、性愛をめぐる相手のタイプの「好み」というものは、もともと、せいぜい五十歩百歩で、他人に自慢できるようなものでないことは、誰もがひそかに感じているからである。
博愛とか、平等の原則とかは、そこにない。デブより痩せ型が「好み」といったようなことは、自分自身のなかで、打ち消しようがないのである。フケ専も、萌え系も、何でもあり。こうした嗜好は、それぞれ、自分に宿りついてしまった「偶然の産物」とでも受け取っておくほかはない。そのなかにあって、ことさら少年愛者だけを「異常者」と呼んで断罪する資格が、はたして自分にあるかという自問が脳裏をかすめていくのである。
伏見憲明は、このようにして、取り組むべき“問い”の形を、自力でつかみだしてくる書き手である。そこから手掘りで、考えを進めていく。自分自身の納得を求めて、深く掘り進む。それこそが、不遇な場所に閉じこめ置かれた自身の欲動を、解き放てる道筋でもあったからだ。少なくとも、20代後半での最初の著作『プライベート・ゲイ・ライフ』では、そうだった。彼はまず、そうやって自分の行き道を照らすことで、ほかの読者たちの場所をも照らしたのである。
いま、40代にさしかかり、日本社会での同性愛者への認知は大きく進んできたと、彼は言う。だからこそ、次にはここで、そうした多様な嗜好を互いに認めあう、より対等で自由な〈社会関係〉の構築を模索していきたいと、彼は考える。そうやって書かれた本書『欲望問題』でも、最初の著作からの持続力、そして、同じ井戸から問題を汲みだしながら更新していく力に、脱帽する。
ことの善悪の根拠が法律にあると考えるなら、国家が命じる戦争のもとでは、兵士とされる一人ひとりが戦場での殺人(もしくは戦死)を拒める理由はないということになろう。だが、それだけではないはずだ。人は、自分の良心のとがめによって、また、信仰の名によって、あるいは、ただ恐怖心からだけでも、戦場から離脱することがありうる。それらも、また、ことの善悪を、個人のなかで分けている根拠である。冒頭にあげた28歳の男性が、自身の性的苦痛のなかでも、なお少年との性交渉を「いけないこと」だと感じる理由も、このことにいくばくか重なるところがあるだろう。国家は、国家批判の権利(あるいは義務)をそれとして法文に明記することはないのだから、私たちはそれを自分の心のなかに留めておくほかはない。
右に揺れ、また左に揺れる、このぶらぶらとした穂先の遊びの部分の輝き。体の重心をそこに預けようとする姿勢が、著者の伏見の態度のなかにある。
国家だけではなく、あらゆる権力が、絶対的に腐敗する。社会的な運動においても、そこから自由なわけではない。昨今の行政機関などからの「ジェンダーフリー」への攻撃ぶりについて、それをバックラッシュ(反動)と片づけず、「ジェンダーフリー」派の論旨の揺れも押さえて議論を深めようとする伏見の姿勢に、運動者としての成熟が見える。社会行動には「政治」が伴う。ならば、自身が行なっている日々の「政治」を意識にとどめることで、その「政治」にも批判的検証の目を向けつづける以外に道はない。
性愛というものが、(その相手が同性か異性かにかかわらず)つねに自分とは異なる“他者”を求めるものである以上、性をめぐるさまざまな区別だて、また、そこでの愉しみは、どこまでも残っていくようには思うのだが。
ともあれ、本書に対して、私からのちいさな批判を最後にひとつだけ。
この『欲望問題』のあとがきにあたる一節は、《命がけで書いたから、命がけで読んでほしい》と題されている。著者によって、本書が、そのような強い気組みで書かれていることを私は疑わない。にもかかわらず、そうした著作も「命がけで」読まれたりはしないものだ。
それでも、その一冊の本が書かれ、たとえちゃらんぽらんにでも一人の読者に読まれることは、書き手にも、読者の人生にも、意味がありうる。私はそう思いたい。そして、おそらく、そのように考えるほうが、著者である伏見さんのこれまでの態度にも適っているのではあるまいか。
アンドレ・ジイドは、50代なかばで、同性愛者としての自覚のもとに、しかも、語り手の小説家のなかにある少年愛の傾向を最後の一行まで手放さず、『贋金つくり』という実験的な長編小説の名作を書き通した。まだ、ここから先にも、道がある。50代以後の性愛は、おそらく生老病死、あるいは、さまざまな他者の人生へのふくらみをさらに合わせ持ち、著者・伏見憲明による相互扶助論へと道を開いていくのであろうと、私自身はこの本を受け取った。
【プロフィール】
くろかわそう●1961年、京都市生まれ。作家。『思想の科学」元・編集委員。近年は小説を主に執筆。『もどろき」が第124回、『イカロスの森」が第127回芥川賞候補になる。
【著書】
日米交換船(鶴見俊輔、加藤典洋との共著)/新潮社/2006.3/¥2,400
明るい夜/文藝春秋/2005.10/¥1,800
イカロスの森/2002.9/¥1,700
もどろき/新潮社/2001.2/¥1,600
硫黄島/朝日新聞社/2000.2/¥2,300
若冲の目/講談社/1999.3/¥2,800
国境/メタローグ/1998.2/¥2,800
リアリティ・カーブ/岩波書店/1994.8/¥2,330
水の温度/講談社/1991.7/¥1,456
先端・論/筑摩書房/1989.7/¥1,699
〈竜童組〉創世記/ちくま文庫/1988.12/¥520
電話で75000秒(宇崎竜童との共著)/晶文社/1988.11/¥1,505
熱い夢・冷たい夢 黒川創インタビュー集/思想の科学社/1988.4/¥1,800
〈竜童組〉創世記/亜紀書房/1985.12/¥1,800