小浜逸郎[批評家]●私の「痛み」から出発し、社会思想的な地平に至るまで
2007/1/21
自分は欲望のあり方についてこの世の「標準」と違ったところがある。その違ったところが自分をとても生きにくくさせている。しかもその違ったところはどう考えても変わりそうもない━━こういう感知は、生涯のある時期になると多かれ少なかれだれにもやってくる。そしてこの感知はうまく言葉にならない苦痛を抱えることと同じである。そういう苦痛を抱えたとき、どんな解決や克服の道があり得るだろうか。
だれでも苦痛を抱えたまま暗い気分で生き続けるのはいやだから、考えないことにして日々をやり過ごすとか、その問題については諦めて別の道でいっしょうけんめい努力するとかいうのも一つの方法だろう。しかし、生きるということは欲望をもち、その欲望を社会とかかわらせながら行動することだから、もしその社会が自分の「違ったところ」を一つのネガティヴな記号として絶えずカテゴライズしてきたら、どうすればいいだろう。単純に考えないことにするとか諦めるとかいうわけにはいかない。
自分が一個の自分であることのなかには、すでに社会的なまなざしが深く住み込んでいる。あからさまな差別待遇をこうむるより以前に、「標準からずれた自分」という自意識は、自分の欲望指向の拭いがたさと、その欲望がそのままでは社会に公認されないという感知との分裂を早くから抱え込んでしまっている。これは、言葉の正しい意味での「コンプレックス」(観念複合)に金縛りになることと同じである。
この本は、「ゲイ」という社会的な記号を背負った伏見さんが、こうした実存問題をいかに普遍的な問題として提起できるかについて、渾身の力を注いで考え抜いた本である。
全体は三章構成をなしている。一章では、ゲイ差別と政治的に闘うという「正義」や「倫理主義」の方向に回路を見いだしていたかつての自分を内省し、それだけではマジョリティとの間に幸福な通路を見出せないと考えるに至った思考変容の過程が誠実につづられている。伏見さんは、ゲイ(やその他のマイノリティ)に対する時代の許容度が漸進的に広がってきたことに対する認知を正確に繰り入れながら、「同性愛の運動を『正義』の行為として立てるのではなく、『欲望実現のための営為』だという認識にシフトさせ」る。同時に、この社会を単に自分を抑圧する敵と見なすのではなく、できるだけお互いの欲望を実現するための調整機能の場としてとらえ直す。一種のすぐれた転向論であるとともに、思想の内なる成熟を語るオートバイオグラフィでもある。
二章では、自分が理論的なよりどころとしてきたフェミニズムを相対化する。批判的に取り上げられているのは、主として「ジェンダーフリー」思想であるが、伏見さんは、この思想にただ保守的な見地からの「ジェンダー固定」の立場を対置するのではなく、生活の現場でこの思想を推進しようとすると、現在のジェンダーがはらんでいる抑圧的な面とそうでない面との仕分けが明確にできないという困難に突き当たると指摘する。ジェンダーを抑圧的と感じる人もいれば、幸福の契機と感じる人もいる。かつて自分が立てた「性別二元制」という構図は、「そこでの性愛に充実を感じている人たちの目で見たときに、必ずしも支配と被支配の構図ではありえ」ない。だからいま必要なのは、「どういう場合には性の非対称性を解消させ、どんな場で何を是正することが公正なのか、をもう少し冷静に議論してみること」であるという。現在のフェミニズム思想が陥っている硬直を解きほぐす、まことにしなやかでフェアーな主張である。
三章では、映画『X-MEN』を巧みな比喩として用いながら、個にとって共同性は悪かという根源的な問題を扱っている。伏見さんの答を簡単に言うと、共同性は少数者を排除したり、その内部で抑圧的な構造を作る危険をはらんでいるものの、ある共同性から生きる意味やエロスを汲み上げる人々がいるとしたら、それを悪と決めつける根拠はないというものである。そこで私たちは、共同性「からの」自由を志向するのではなく、むしろ多様な共同性を選べる自由を確保しつつ、そこに生じる利害の対立を克服すべくお互いの共存をはかっていくことが望ましい。
このように論点を抽出してしまうと、一見平凡な結論のようにも見えるが、ここには、さまざまに異なる条件を背負いながらこの世の「関係」を生きていかなくてはならない人間存在一般に対する確かな目が息づいている。また、単一の共同体的な規範のなかにまどろんでいたかつての時代とは異なり、よくも悪しくも「個の自由」を尊重せざるを得なくなった「現代」という時代の複雑さがよく踏まえられている。そして何よりも、こうした結論に達するのに抽象的な理論をもってするのではなく、「私」が抱え込んだ「痛み」という体験的な地点から出発して社会思想的な地平に至るまでのプロセスが、手に取るように描かれているところがこの本の特色である。ゲイの人によりも、むしろゲイではない「ふつうの人」にお勧めしたい。自分の問題が書かれている、と感じること必定である。
【プロフィール】
こはまいつお●
1947年、横浜市生まれ。批評家。家族論、学校論、思想、哲学など幅広い評論活動を展開。2001年より思想講座「人間学アカデミー」(http://www.ittsy.net/academy/)を主宰する。
【著書】
人はなぜ死ななければならないのか/洋泉社新書y/2007.2/\780
死にたくないが、生きたくもない。/幻冬舎新書/2006.11/\720
方法としての子ども/ポット出版/2006.02/\2,500
「責任」はだれにあるのか/PHP新書/2005.10/\720
人生のちょっとした難問/洋泉社新書y/2005.07/\780
善悪ってなに?働くってどんなこと?/草思社/2005.03/\1,200
正しい大人化計画/ちくま新書/2004.09/\680
エロス身体論/平凡社新書/2004.05/\860
なぜ私はここに「いる」のか/PHP新書/2003.10/\700
やっぱりバカが増えている/洋泉社新書y/2003.10/\720
天皇の戦争責任・再考(池田清彦、井崎正敏、橋爪大三郎、小谷野敦、八木秀次、吉田司との共著)/洋泉社新書y/2003.07/\720
可能性としての家族/ポット出版/2003.07/\2,500
「恋する身体」の人間学/ちくま新書/2003.06/\700
頭はよくならない/洋泉社新書y/2003.03/\740
死の哲学/世織書房/2002.08/\2,000
人はなぜ働かなくてはならないのか/洋泉社新書y/2002.06/\740
癒しとしての死の哲学(新版)/王国社/2002.03/\1,900
人生を深く味わう読書/春秋社/2001.11/\1,700
「弱者」という呪縛(桜田淳との共著)/PHP研究所/2001.06/\1,400
「男」という不安/PHP新書/2001.04/\660
この思想家のどこを読むのか(佐伯啓思、山折哲雄、大月隆寛、松本健一、高沢秀次、西部邁、加地伸行との共著)/洋泉社新書y/2001.02/\790
なぜ人を殺してはいけないのか/洋泉社新書y/2000.07/\680
正しく悩むための哲学/PHP文庫/2000.05/\514
中年男に恋はできるか(佐藤幹夫との共著)/洋泉社新書y/2000.03/\660
「弱者」とはだれか/PHP新書/1999.08/\657
これからの幸福論/時事通信社/1999.07/\1,700
間違えるな日本人!(林道義との共著)/徳間書店/1999.06/\1,500
吉本隆明 思想の普遍性とは何か/筑摩書房/1999.03/\2,200
いまどきの思想、ここが問題。/PHP研究所/1998.09/\1,429
無意識はどこにあるのか/洋泉社/1998.07/\2,200
この国はなぜ寂しいのか/PHP研究所/1998.02/\1,400
現代思想の困った人たち/王国社/1998.02/\1,600
幸福になれない理由(山田太一との共著)/PHP研究所/1998.01/\1,238
14歳日本の子どもの謎/イースト・プレス/1997.11/\1,400
子どもは親が教育しろ!/草思社/1997.07/¥1,500
大人への条件/ちくま新書/1997.07/\720
ゴーマニスト大パーティー ゴー宣レター集3(小林よしのりとの共著)/ポット出版/1997.6/\1,400
癒しとしての死の哲学/王国社/1996.11/\1,748
方法としての子ども/ちくま学芸文庫/1996.10/\1,117
人生と向き合うための思想・入門/洋泉社/1996.09/\1,748
男はどこにいるのか/ちくま文庫/1995.12/\670
オウムと全共闘/草思社/1995.12/\1,553
間違いだらけのいじめ論議(諏訪哲二との共著)/宝島社/1995.04/\1,165
正しく悩むための哲学/PHP研究所/1995.04/\1,359
学校の現象学のために(新装版)/大和書房/1995.04/\1,800
先生の現象学/世織書房/1995.03/\2,200
中年男性論/筑摩書房/1994.10/\1,650
ニッポン思想の首領たち/宝島社/1994.09/\1,942
力への思想(竹田青嗣との共著)/学芸書林/1994.09/\1,748
家族を考える30日/JICC出版局/1993.01/\1,359
人はなぜ結婚するのか/草思社/1992.11/\1,262
照らし合う意識(竹田青嗣、村瀬学、瀬尾育生、橋爪大三郎との共著)/JICC出版局/1992.04/\1,699
症状としての学校言説/JICC出版局/1991.04/\1,650
試されることば/1991.08/\1,699
時の黙示/学芸書林/1991.02/\2,602
家族はどこまでゆけるか/JICC出版局/1990.11/\1,748
男はどこにいるのか/草思社/1990.11/\1,553
男がさばくアグネス論争/大和書房/1989.06/\1,505
可能性としての家族/大和書房/1988.10/\1,800
方法としての子ども/大和書房/1987.07/\1,600
学校の現象学のために/大和書房/1985.12/\1,500
家族の時代(小阪修平との共著)/五月社/1985.05/\1,400
太宰治の場所/弓立社/1981.12/\1,400