2001-11-05

第5章 排出権取引制度と技術(鈴木政史)

5章「日本は排出量取引制度を導入するべきか」

5.1. はじめに

2010年3月、「地球温暖化対策基本法案」が閣議で決定された。この法案の一つの柱は排出量取引制度である。排出量取引制度の導入に関してはここ数年に限らず10年ほど前から検討されてきた。それにも関わらず2010年3月現在、この法案の中でも欧州連合の排出量取引制度(EU ETS: European Union Emissions Trading System)型の総量規制方式を取るか産業界の主張する原単位方式を取るか決めかけている。

本章は排出量取引制度を取り上げる。まず排出量取引制度は経済的に負の効果をもたらすかという問いを考えたい。総量規制方式に対しては、日本の産業の国際競争力を損なうという恐れがあるという立場からエネルギー集約産業を中心とした日本の産業界は反対をしている。しかし、国際競争力の定義も定まっておらず、どのような損失が考えられるかという分析は進んできないというのが現状である。排出量取引制度が経済的に負の効果をもたらすかという点に関して、経済協力開発機構(OECD: Organisation for Economic Co-operation and Development)/ 国際エネルギー機関 (IEA:International Energy Agency)が行った研究をもとに考察を深めたい。

次に排出量取引の経済的な負の観点から排出量取引制度に関する欧州と米国の動向を簡単にレビューする。欧州や米国の排出量取引は制度設計において経済的な負の効果や国際競争力の懸念をどのように取り扱っているのであろうか。欧州では2005年から欧州連合域内排出量取引制度が導入され、過去5年間様々な経験を生み出している。米国に関しては下院におけるワックスマン・マーキー修正法案の可決及び上院におけるケリー・ボクサー法案の審議を経て排出量取引制度のかなり踏み込んだ制度設計が進んでいる。その他、オーストラリアとカナダでも排出量取引制度の設置に向けた動きがみられるが、欧州と米国の2010年3月現在の動向をレビューする。

上記の議論を踏まえた上で、最後に排出量取引制度は日本に必要かという問いを考察したい。やはりその中で大事な二点は、排出量取引は経済的に負の効果をもたらすかという点と排出量取引は温室効果ガス削減に向けた技術普及・技術革新につながるかという点である。後者の質問に関しては紙面の制限上考察を避けるが、一点目の質問に答えながら本章をしめくくりたい。

5.2. 排出量取引は経済的に負の効果をもたらすか。

日本で排出量取引制度が導入された時の経済的な負の効果はなにか。エネルギー集約産業を中心とした産業界は、中国の企業等に対する日本企業の国際競争力が低下するという懸念を表明している。排出権取引制度が導入された時に日本の企業の間にどのような費用が発生し、ひいては国際競争力の低下につながるのか。

OECD/IEAが発表した数点の排出量取引制度に関する報告書はこの費用をうまく整理している。まず温室効果ガスの削減に向けた技術の導入にかかる費用である。総量規制の場合、企業は政府によって決められた排出量を上回った場合、自ら温室効果ガスを削減するか排出権を市場または他の企業から購入しなければならない。経済理論に従えば、排出量取引制度の下において、企業は限界削減費用が排出権価格より低い場合には自ら削減を行い、排出権価格より高い場合には排出権を調達する。

次に電力価格等の上昇が費用になるケースがある。電力会社が排出量取引制度で温室効果ガスの削減目標を定められたときに電力会社は削減目標を達成する費用を電力価格に転嫁する可能性がある。この場合、電力の大型消費者であるアルミ製造工場や電炉にとっては大きな費用となる可能性がある。実際に欧州においては電力企業が排出量取引にかかる費用を電力価格に反映させてため電力価格が上昇をした。この他の費用として投資家が排出量取引制度をリスクとしてとらえた時の費用及び低炭素型エネルギー関連の価値または価格の上昇等が考えられる。

排出量取引制度を導入したときこれらの費用は企業の収益を圧迫するものになるのであろうか。この問いに対する答えを導くにはいくつかの要因を考えなければならない。第一に総量規制の場合には政府によって決められたキャップの厳しさによる。キャップが厳しければ厳しいほど企業は温室効果ガスの削減の費用を出すか排出量を購入しなければならない。

第二の要因として企業が排出量制度取引にかかる費用を製品価格に反映できる度合いである。理論上は排出量取引制度にかかる費用すべてを製品価格に反映させれば企業にとっての費用は全く発生しない。しかし製品価格に反映できる度合いは競争相手の存在や代替商品や物質の存在などそれぞれの産業構造に大きく関わっており簡単にできるものではない。例えば日本の製造拠点と中国の製造拠点の費用比較をする必要が出てくる。日本と中国で製造するものの質に違いがないのであれば、日本で導入された排出量取引制度の費用を日本の製品に価格転嫁してしまえば中国の商品の価格が魅力的になるため、日本の企業は価格転嫁できない。また代替商品や物質の価格とも比較する必要があり、例えば、素材産業の場合には鉄・アルミ・プラスチックなど一つの製品価格が上がった場合他の素材で代替し費用を削減しようという動きも出てくる。

排出量取引制度は企業に費用上の大きな負担となり経済的に負の効果をもたらすか。この問いの答えに参考となると思われるのが前述したOECD/IEAが発表した数点の排出量取引制度に関する報告書である。この報告書は欧州連合の排出量取引制度を参考に経済的なインパクトを産業ごとに分析している。この分析はアルミ産業以外のエネルギー集約産業(高炉鉄鋼、セメント、製紙、電炉鉄鋼)の負のインパクトはそれほど大きくないという結果が出ている。

エネルギー集約産業を中心とした産業界は、排出量取引制度の日本国内の導入によって中国の企業等に対する日本企業の国際競争力が低下するという懸念を表明しているが、そもそも国際競争力はどのように定義されるのか。国際競争力という言葉は頻繁に使用されるが、その意味は論者によって異なる。前述したOECD/IEAの報告書によれば、国際競争力とはある地域におけるある産業が他の地域に対して利潤と市場におけるシェアーを維持することができる能力と定義されることができる。しかしその能力とは製品の製造に関わる費用、価格、賃金水準、為替レート等によって大きく左右される。更には、製品の品質、熟練労働者の能力、マーケティングの能力等、数値化の難しい要因もある。排出量取引制度の導入が日本企業の国際競争力の低下につながると結論するのは難しい。しかし排出量取引制度の導入の判断は国際競争力に十分配慮することが大事であり、最終的には政治的な判断が求められる。

5.3. 欧州・米国の動向

ここで排出量取引の経済的な負の観点から排出量取引制度に関する欧州と米国の動向を簡単にレビューする。欧州や米国の排出量取引は制度設計において経済的な負の効果や国際競争力の懸念をどのように取り扱っているのであろうか。欧州では2005年から欧州連合域内排出量取引制度が導入され、過去5年間様々な経験を生み出している。米国に関しては下院におけるワックスマン・マーキー修正法案の可決及び上院におけるケリー・ボクサー法案の審議を経て排出量取引制度のかなり踏み込んだ制度設計が進んでいる。欧州と米国の排出量取引制度の概要と詳細に関しては様々な論文が出されているので、本稿においては制度設計において経済的な負の効果や国際競争力の懸念をどのように取り扱っているかという観点に絞って解説をしたい。

欧州は2005年に排出量取引制度を実施し、2005年から2007年までを第1フェーズ、2008年から2012年を第2にフェーズ、2014年から2020年を第3フェーズと定めている。排出量取引制度に関して第1フェーズは試行期間、第2フェーズは京都議定書第1約束期間への対応、第3フェーズは新たな国際枠組み制度への対応と位置づけている。

特筆すべき1点目はこのように時間をかけて制度設計を行っている点である。排出量の割当方式に関しても産業界の負担を考慮しながら無償割当から徐々にオークション型への移行を進めている点である。上記の通り、排出権取引の負の経済的な効果は制度導入の事前予測(ex-ante)は非常に困難である。欧州はLearning by doingの精神に乗っ取り、排出権の割当方法、対象とする温室効果ガスの種類、対象とする産業部門といった制度設計の根幹に関わる部分に関してフェーズを経るごとに得られた学習を制度設計に生かそうという精神がうかがえる。一例として第2フェーズにおいて、電力部門を除いた産業部門に対しては国際競争力への配慮を示しており、緩やかな割当を実施している。一方、電力部門に対しては排出量取引に関わる費用を電力価格に転嫁することが比較的容易であることから厳しい割当を行っているようである。

2点目は第3フェーズにおいて鉄鋼やセメント等の国際競争力の低下の懸念がある部門に関してはベンチマーク方式による無償割当を考慮している点である。鉄鋼に関しては利用可能な最善の技術(BAT: Best Available Technology)に基づく暫定的数値を提示し(高炉は1.286t-CO2/t-製品)、セメントに関してはEU域内のクリンカー施設の上位10%(780kg-CO2/t-クリンカー)を基準として設定する事を検討しているようである。国際競争力の低下の懸念が制度設計に組み込まれている。

米国においても排出量取引制度の設計において経済的な負の効果や国際競争力の懸念が制度設計に検討されている。下院におけるワックスマン・マーキー修正法案と上院におけるケリー・ボクサー法案の内容は主要部分において大変似通った内容になっており、両法案とも欧州の排出量取引制度同様に段階的な無償割当型からオークション型への移行を目指している。また、国際競争力の低下の懸念がある部門に関しては排出権の無償割当を考慮している。特筆すべきは、ワックスマン・マーキー修正法案においては米国と同等の温暖化対策を実施していない主要貿易相手国からの輸入品に関しては、2025年からその輸入者に排出枠の提出を求める点である。また、ケリー・ボクサー法案においては、国際貿易ルールに整合的な国境調整措置を追加することを検討している。

5.4. 排出量取引制度は日本に必要か。

以上、排出量取引が日本の産業に経済的に負の効果をもたらすのか考察をした。排出量取引の導入に関してもう一つ大事な問いは、排出量取引は技術普及や技術革新につながるかという問いである。排出量取引の趣旨は、排出量取引に参加する企業に対して温室効果ガス削減に向けた技術の革新と普及を促す経済的な手段を提供する事である。排出量取引を導入しても温室効果ガスの削減が進まず、金融取引またはマネーゲームとしての側面だけ残るのであれば排出量取引の意味がない。この問いに十分に答える研究結果が出されているだろうか。

著者は本問いに答えられる十分な文献調査を行っていないが、排出量取引と技術普及や技術革新につながる研究は進んでいないという印象を持っている。2005年より始まった欧州連合の排出量取引制度(EU ETS)がある程度、非効率な発電所(主に石炭)の効率化または天然ガス等への燃料転換を促進したという意見が聞かれるか果たしてそうであろうか。本分野における実証研究の進展が求められる。

排出量取引が日本の産業に経済的に負の効果をもたらすのかという問いには対しては、必ずしも負の効果をもたらすとは考えられないという答えを出した。一方、排出量取引制度の導入の負の効果の議論がある中、正の効果の議論は進んでいない。経営学で論じられるポーター仮説によれば、規制にうまく対応または取り組んだ企業は技術革新という産物を得る事ができ、その結果、市場における「First mover advantage」に伴った利潤を一定期間享受することができる。ポーター仮説の実証というは非常に難しいテーマであるが、排出量取引制度の導入によって正の効果がある可能性があることも考慮すべきである。

上記で欧州と米国の動向をレビューしたとおり、これらの地域では国際競争力への配慮を行いながら排出量取引の導入を検討している。そこには排出権取引の負の経済的な効果は制度導入の事前予測(ex-ante)は非常に困難であると認識しながら制度設計を行う姿勢がうかがえる。日本もLearning by doingの精神で独自の排出量取引制度を設計する必要があるように考える。

参考文献

-International Energy Agency, Emissions Trading and its Possible Impacts on Investment Decisions in the Power Sector, Paris, 2003.
-International Energy Agency, The European Refinery under the EU Emissions Trading Scheme – Competitiveness, Trade flows and Investment Implications, Paris, 2005.
-International Energy Agency, Industrial Competitiveness under the European Union Emissions Trading Scheme. Paris 2005.
-International Energy Agency, Issues Behind Competitiveness and Carbon Leakage, International Energy Agency, Paris 2008.
-環境省地球環境局市場メカニズム室 諸外国における排出量取引の実施・検討状況 2010年2月.