2001-11-03

第3章 低炭素経済を創る─イギリスの気候変動法─(池田和弘)

[2011年7月19日]

●スターン報告
 2006年10月30日、イギリスの財務大臣のもとに一本のレポートが提出された。正式名称『気候変動の経済学The Economics of Climate Change』。イギリスの経済学者ニコラス・スターン卿(Sir Nicholas Herbert Stern)を中心に作成されたことから通称「スターン報告(Stern Review)」と呼ばれている。
 700ページにおよぶこの大部の報告書は、温暖化を中心とする気候変動への対策について、「科学的であること」と「政策提言すること」を両立させるように作られた点にその特徴がある。そのため、正式名称も「〜の報告」ではなく「経済学」となっている。
 報告書の言葉で言えば、報告書の前半で「気候変動に伴なう経済的影響に関する影響を検証するとともに、大気中の温室効果ガスを安定させるために必要なコストを検討」し、後半で「低炭素経済へどのように移行させるのか、および、もはや避けることのできない気候変動の影響に対して我々の社会はどのように適応していくのか、に関する複雑な政策課題を検討」する。
 経済学を梃子にして、科学的な知見を政策へ、あるいは、国そのものの設計へとつなげていく。そうした強い意志が感じられるからこそ、スターン報告はイギリスを超えて広く世界中に影響を与える文書となった。
 もちろん、書かれた内容も重大であり、また、きわめて論理的である。重要なポイントをトレースしてみよう。

 現在の温室効果ガスの大気中濃度は二酸化炭素換算でおよそ430ppmのレベルにあるが、年間の温室効果ガス排出量を今後現在のレベルで安定させたとしても、2050年には550ppmに達するとみられる(ppmは主に濃度を示すための単位で、100万分の1にあたる)。これは地球上の気温が77%の確率で2℃以上上昇する量に相当する。当然ながら、影響も大きい。特に、アフリカにおける穀物収量の減少は、数億人が必要最低限の食料を生産できないか、あるいは購入できなくなる恐れがある。
 もし二酸化炭素換算で450〜550ppmに安定させることができれば、気候変動による影響は実質的に減少する。しかし、現在の値が430ppmであり、しかも毎年2ppmずつ増えているため、2050年までに少なくとも25%、究極的には現在の排出量の80%の削減が必要である。
 では、対策コストはどのぐらいになるのか。何も行動しない場合に発生するコストは全世界のGDPに対しておよそ5%程度になり、広い範囲のリスクや影響を考えると20%を超えると予測される。しかし、もしここで行動にうつすのなら、コストはおおむねGDP比で1%に抑えられる。
 ただし、これをコストと考える必要はない。むしろ、気候変動へ行動を起こすことは大きなビジネスチャンスでもある。たとえば、低炭素エネルギー技術や低炭素商品、そして、そうした技術や商品をやりとりするサービスの市場が生まれるだろう。温暖化を緩和するか、それとも、成長と発展を促進するかといった二者択一をする必要はない。
 そうした低炭素市場を促進するために、政府はまず炭素に価格をつけるべきである。そうすれば、炭素税や排出量取引、排出量規制を通じて、人々が自らの行動によって生じるにもかかわらずこれまで負担してこなかった、いわゆる「社会的な費用」を支払うようになる。
 もちろん、短期的には一般の消費者が現在享受している商品やサービスの価格は上がることになるが、強力な政策によるイノベーションによって技術の選択肢をより多く増やしていけば、低炭素技術が成熟するにつれて、結果的には消費者が支払う費用を低減できるようになる。

 以上がスターン報告のおおまかな内容である。たしかに数字や計算がところどころに取り入れられていて、なるほど経済学という感じがするが、この報告書の衝撃はそこではない。気候変動という人類の歴史上まれにみる重大事件を前にして、経済学に裏づけられた国家戦略、世界戦略が展開されていること、一般消費者でもあるイギリス国民の前で「低炭素経済」という理念を掲げて国を導くその意志にこそ魅了される。
 気候変動に対するイギリスの挑戦はすべてこの意志に導かれる形で始まった。

●気候変動法と炭素予算
 スターン報告が打ち出した低炭素経済の理念や制度設計を具体化するために、イギリス政府は世界初の「気候変動法Climate Change Act 2008」の整備に着手した。正式に法律になったのは2008年11月28日である。こちらもスターン報告に劣らず大部のもので、6部101か条及び附則8から構成されている。具体的に章立てを挙げると、次のようになっている。

  第1部 温室効果ガス排出量削減目標と炭素予算(第1条〜31条)
  第2部 気候変動委員会(第32条〜43条)
  第3部 取引制度(第44条〜55条)
  第4部 気候変動の影響と気候変動への適応(第56条〜69条)
  第5部 その他の規定(第70条〜88条)
  第6部 一般の規定(第89条〜101条)
  附則

 中心となるのは主に第1部と第2部である。まず、イギリス全体での温室効果ガスの削減目標を決め(第1部)、この法律に関する助言や監視をする組織として気候変動委員会(The Committee on Climate Change)を創設する(第2部)。それぞれについて詳しくみてみよう。
 スターン報告では2050年までに少なくとも25%、究極的には現在の排出量の80%の削減が必要であると書かれていた。これを法制化するにあたって条文の一番始めの第1条に2050年の目標値を掲げた。他のすべての条文はこの第1条を達成するためにあると言っても過言ではない。その値は1990年比で80%減。もともとイギリスは京都議定書の段階で1990年比にして12.5%の削減を受け入れていたが、1999年にはすでにその目標をクリアしていた。それを考慮に入れたとしても、80%減はよく言って野心的、穿った見方をすれば国際的な覇権を睨んだ口先だけの言葉のようにも思える。いやいや、とんでもない。この国は大真面目なのだ。
 日本人の目からすれば無謀とも言えるその目標値を実現するために、2050年の目標を定めたすぐあとに、炭素予算carbon budgetという考え方をいれている(第4条)。重要なので条文ごと挙げておこう。(条文の日本語訳は、岡久慶2009「英国2008年気候変動法」を参考にした。岡久2009ではcarbon budgetを「炭素割当」と訳しているが、文字通り「予算budget」と訳した方が法律の仕組みを理解しやすい。)

  第4条 炭素予算
  (1)次のことを国務大臣の義務とする。
   (a)2008〜2012年の期間を最初とする5年の期間(予算期間budgetary periods)ごとの、イギリスの炭素排出限度(炭素予算carbon budget)を設定し、
   (b)予算期間におけるイギリスの炭素排出量が炭素予算を超えないようにすること。

 ふつうは予算と言えば国が1年間に使えるお金の量のことを指すが、ここでは国内で1年間に排出できる炭素の量を5年ごとにまとめて「予算」として組んで、それを超えないように法的な義務を課している。こういう形で「予算」という言葉を使うのは今までに聞いたことがない。では、予算というのは単なる比喩なのかというと、実はそうでもない。この国は本物のお金とまったく同じように炭素を扱おう、いや、扱うべきだと考えているのだ。つまり、予算という言葉をあえてここで使ったのは、お金の国家予算と同じように、予算を超える炭素の排出を続ければいつかは国が破綻することになるということを国民にはっきりと示すためである。80%削減という数字だけではなんとなく口先だけのように思えてしまうが、この「予算」の仕組みがあるからこそ、イギリス国民が自らの生き死にをかけた戦いに挑もうとしているという強い意志、そして強いリーダーシップを感じる。だからこそ、新しい時代の覇権をねらっているとも言えるわけだ。
 また、予算だと考えることによって、ほかにも面白い仕組みを組み込むことができる。たとえば、予算期間の前後で炭素予算の貸し借りができる。お金が貸し借りできるように、炭素も貸し借りできるように作ったのだ。貸し借りというよりは、借金と貯金と言った方が分かりやすいかもしれない。これも条文をみてみよう。

  第17条
  (1)国務大臣は、ある予算期間の炭素予算の一部をそれより前の予算期間に繰り戻すことcarry backができる。後の期間の炭素予算は減らされ、前の期間の炭素予算は繰り戻された分だけ増える。
  (3)国務大臣は、ある予算期間の炭素予算が当該期間の炭素排出量を超えた分の全部または一部を、後の期間の炭素予算に繰り越すことcarry forwardができる。後の期間の炭素予算の総量は繰り越した分だけ増える。

 ただし、貯金(繰り越し)はいくらでもしてよいが、借金(繰り戻し)は借りてくる未来の炭素予算の1%を超えることはできない。家計でもお金の国家予算でも予算をオーバーしてでもどうしても出費をしなくてはならないときがある。炭素も同じだ。たとえば、国内が深刻な不況に見舞われたときには、大規模な公共投資を組んで経済を建てなおさなくてはならないかもしれない。大きな公共投資は必ず炭素排出量の増加を招くし、2050年までの間にそんなことが一度もないとは言い切れない。いやむしろ、いつ来るかはともかく40年もの時間があれば、必ず一度や二度の不況はある。そんな場合でも炭素予算全体の仕組みが破綻しないように、貸し借りができるようになっているのである。実にうまい仕組みだ。
 だが、物入りのときがあるということを認めてしまえば、当初の計画から少しずつ少しずつずれていってしまうのではないか。赤字国債の増発を続けているうちに少しずつ国家が大きくなって最後は収拾がつかなくなってしまうように、なし崩し的に炭素予算が膨れていってしまうのではないか。そんな疑念も湧いてくる。
 それを防ぐ仕組みとして、気候変動法は2020年目標を利用している。第5条には2020年を含む炭素予算は、最低でも1990年基準で26%低下することを義務づけている。だから、たとえ2015年に借金をして、翌々年の2017年にまたもや借金をしても、2020年には26%のラインを通過しないといけないわけだ。
 5年毎の予算という形で炭素の排出量に制限をかけて、目標期間の終点に2050年の80%減を、1/4地点に2020年の26%をおく。そうすることによって、低炭素経済への道を作りながらも、貸し借りの仕組みも取り込んで、破綻しないようにうまくやっていけるようにする。ここからはそうしたイギリスの成熟した政策技術がうかがえる。

●気候変動委員会によるコンサルティング
 もちろん、この仕組みが絵に描いた餅になってしまってはまずい。そこで、あらかじめ同じ法の中に助言と監視をするシステムも書き込んだ。それが気候変動委員会(The Committee on Climate Change)である。
 気候変動委員会は第2部と附則1によって創設される独立公共団体で、国務大臣への助言と議会への目標達成状況の報告をその役割としている。
 国務大臣が任命した委員長のほかに5〜8名の委員で構成されると規定されており、2011年3月現在で言えば、財務部局長を兼任するアデール・ターナー(Ader Turner)を委員長に、世界銀行出身のデヴィッド・ケネディ(David Kennedy)をはじめとする経済学、工学系の教授クラスの研究者9名で構成されている。
 気候変動委員会の役割のうちもっとも大きなものが、第1部の炭素予算に関わる広範な部分について助言することである。その中には目標レベルに関する助言も含まれており、委員会が設立された2008年12月1日の当日に、2020年目標に関する助言を早くも発表した。それによると、現在の気候変動法では2020年目標は26%とされているが、これを少なくとも34%に、排出削減に関する国際的な取り決めが成立した場合には42%に引き上げるべきだとしている。
 また、5年毎の炭素予算のレベルを助言するのもこの気候変動委員会の役割である。これも設立の日と同時に提出された『低炭素経済の確立Building a Low-Carbon Economy』という報告書の中で、2008〜2012年、2013〜2017年、2018〜2022年の始めの三つの期間の炭素予算レベルをそれぞれ1990年比で22%、28%、34%にするべきだと助言した。年度で言えば、1年あたりおよそ1.7%の減少に相当する。このうち、2020年を含む第三予算期間の値は先ほどの2020年目標と合致した値となっていて、各炭素予算は数値をそのままに2009年に法制化された。
 この報告書もスターン報告に劣らず、500ページを超える大部のものである。気候変動委員会はこうした大部の報告書を発足から2年の間に9つも発表している。毎年の議会への報告義務だけではなく、船舶や航空はどうするのか、エネルギー政策はどうあるべきか、気候変動政策の進捗具合はどうなのか。今、イギリスはどのような状態にあるのか。現状認識から目標値の設定、そして評価まで。スターン報告に始まる科学的な報告書群がイギリスの気候変動政策を支えている。いわば、イギリスは国内に独自のIPCCを作ったのだ。
 国際版のIPCCは周知のとおり、科学的な分析と助言はできるが、具体的な政策提案はできない。各国の利害関係が複雑に絡み合っているため、つっこんだことは言いにくいのだ。それに対して、イギリス版のIPCCである気候変動委員会は科学的な分析から政策提案、事後的な評価までをこなす上に、科学的な分析の多くは国際版のIPCCに頼ることができるため、政策提案の視点から全体を見渡すことができる。そしてその分だけ、政府は安心して政策提案を個別の政策へと具体化していくことができる。大変効率のよい役割分担である。
 このように、気候変動委員会は気候変動法によって設立された小委員会という類のものではなく、気候変動法に専門特化した巨大なコンサルティング会社だと考えた方がよい。イギリスの法は法の世界だけでぐるっとまわるようにはそもそもできていない。データを集める現場の科学者がいて、スターン報告が経済学を用いて方向性を出して、それを元に大枠を作るのが法であるならば、法の中身自体は極めて柔軟に、法の中に書き込まれた別の団体が助言をし、最後に政府が個々の政策へと具体化する。法ですべてを決めてしまうのではなく、もう一段深い制度の中に法を埋め込んでいく。あえて言えば、気候変動法はそうした制度を作り出す触媒mediumなのだ。

●低炭素移行計画
 政府は気候変動委員会の助言を受けて、1990年比34%減を達成すべく具体的な政策プラン『英国の低炭素経済への移行計画The UK Low Carbon Transition Plan』を2009年7月に発表した。驚くべきことに、この政策プランの概要部は日本語で読める。駐日英国大使館のウェブサイトからダウンロードできるので、ぜひ行ってみてもらいたい。
 その概要部の冒頭には、「この計画は2020年に2008年レベルで18%の排出削減をもたらす」と書かれている。注目すべきは1990年でも2005年でもなく、2008年を基準に「語った」ということである。誰に? もちろん、イギリス国民にである。だから、これは必ずしも基準年を2008年に変更したということではなく、イギリス国民が自分たちの問題として考えるように、あえて2008年という現在に近い数字を使ったと考えたほうがよい。
 大枠を決めていた気候変動法とは違い、低炭素移行計画は事例やデータに即してより具体的に、どのように低炭素経済に移行するかが書かれている。
 もっとも特徴的なのは、お金の予算と同様に各省庁が自らが管轄している部門の炭素予算の配分をはじめに出していることだ。具体的にみてみると、2008〜2012年の第一予算期間における配分は、エネルギー・気候変動省がもっとも大きくて53%、交通を管轄している運輸省が18%、環境・食糧・農家省が14%、ビジネス・企業・規制改革省が7%、コミュニティ・地方自治省が5%、児童・学校および家庭省が0.4%となっている。したがって、「予算」というのは比喩でもなんでもなく、国として実際に予算を組んでいるのだ。統括しているのもエネルギー・気候変動省ではなく、財務省である。
 予算の組み方は次のステップを踏む。まず、各省庁が管轄している部門(estate and operation)について大枠の予算を組む。その上で、分野ごと(sector)にまとめ直す。たとえば、ある親が自分の子どもが学校にいくときにスクールバスに乗るのと自転車で行かせるのと、どちらが二酸化炭素の排出を抑えることができるか悩んでいるとする。二酸化炭素でそこまで悩むのはかなり稀なケースだと思うが、これは一応『英国の低炭素経済への移行計画』に載っていた例だ。仮にこうしたケースがあるとすると、子どもと交通なので運輸省と児童・学校および家庭省の両方が関係することになる。当然、どちらの管轄だのと、もめることになる。そういった省庁間の摩擦を防ぐために、ちょうどクロス表のように炭素予算を二重に集計してあるのだ。省庁の関係する範囲を決めて、同時に、分野ごとにまとめ直す。そうすれば、どの分野にどの省庁が関係しているのかもあらかじめ目に見える形になるから、管轄争いよりはむしろ協同が生まれやすいというわけだ。これも制度を運営するうえでうまい工夫である。
 では、具体的な中身をみてみよう。
 イギリスは世界の二酸化炭素排出量のうち2%を占めているが、そのうちの35%が電力・重化学工業分野によって排出されている。そのため、まずここから切り込むのが低炭素経済への一番の近道になる。2020年までの排出削減は電力と重工業分野をあわせて2008年比で22%減である。
 その目標を達成するためにいくつかの政策がたてられている。現在のところ、イギリス国内の電力は約3/4が石炭と天然ガスによって発電されている。これを再生可能エネルギー、原子力エネルギー、または二酸化炭素回収・貯留(CCS)を伴う化石燃料エネルギーに転換して、2050年までにほぼすべての電力を脱炭素化する計画だ。それに向けた2020年までの試みとして注目に値するのは、再生可能エネルギー由来の電力を現在の4%から2020年までに30%まで引き上げるという政策である。日本の目標値が10%前後、アメリカが2025年までに25%であるのを考えると、かなり思い切った目標だと言える。
 2020年までの中心が再生可能エネルギーだとすると、2020年以降のエネルギーを支えるのが原子力である。もともとイギリスは脱原子力を政策として掲げていたのだが、ここにきて気候変動対策の切り札として原子力発電へと再度舵を切った。2025年までに新しい発電所を稼働させる計画である。
 この二つの(再生可能とは言い難いが)脱炭素エネルギーを効率よく稼働させるためにより広範囲でより高性能な送電網を構築することも計画されている。アメリカのオバマ大統領が政策に掲げたことで有名になったスマートグリッドと呼ばれるもので、さまざまな発電源から供給された電力をコスト計算しながら効率よく供給するこのシステムは、今世界中で注目されている低炭素技術のひとつである。
 再生可能エネルギー、原子力発電、スマートグリッドと、どれも既存のエネルギー環境を大転換させるものとなるため、その分だけ導入期間もコストも大きくなる。そこで、これが投資の国イギリスらしい点だが、エネルギー技術への投資を支える風土を作ることが全体の土壌として用意されている。さまざまな低炭素技術を多様に混合させるための投資環境を整備する。つまり、すべての技術に国が投資するのではなく、民間の投資を呼び込んで、国は環境を整えるのである。
 こうした発想は、重化学工業以外の製造業やオフィス分野での脱炭素化にも活きている。
 製造業とオフィス分野はイギリスの総排出量のうち20%を占める、発電・重化学工業の次に排出量の多い分野である。どちらも排出量の多い分野ではあるが、製造業やサービス業と発電・重化学工業の間には根本的な違いがある。製造業やサービス業はもちろんなくては困るものも多いが、絶対になくてはならない基幹産業ではないので、産業転換が起こりやすい。あるときは流通に、あるときはIT技術に。技術革新や消費者ニーズの流れによって中心が変わり続ける。それを利用して低炭素技術開発に人材と資源を流すことで低炭素化につなげようというのがここでのねらい、いわゆる、グリーン・ジョブの創出である。
 特に注目されているのが、風力や潮力といった大西洋に面したイギリス特有の再生可能エネルギーと、低炭素建築、それに、超低炭素自動車である。特に低炭素建築の分野では、2016年以降に建てられる新築住宅はすべて「ゼロカーボン・ホーム」にすることになっていて、これだけでも新技術、新商品、新サービス、そして新規の職域が発生することが予想できる。
 イギリス経済全体では、400兆円規模の世界的な低炭素市場に参入して、国内で100万人を超える人が雇用されると試算されている。イギリスはこれを利用して低炭素産業の国際センターへと自らを押し上げることを目論んでいる。

●市場経済の功罪
 民間の投資を呼び込んで、できるだけ低コストで低炭素経済を達成する。もちろん、政府も規制撤廃やさまざまな支援プログラムを実行するが、主体になるのはあくまで市場経済である。むしろ、市場経済が自律的にグリーン化へと向かわなければ、国全体を低炭素化することはできないということだろう。GDPと比較して(=市場経済ベースで)1%のコストというスターン報告の理念がここにもしっかりと息づいている。
 だが、実際にはそううまくいくものでもない。気候変動法に始まるさまざまな政策はたしかにイギリスがこれから向かうべき途を示しているが、内部には市場経済という魔物を抱えている。
 イギリスの第一予算期間の始まりであり、また、京都議定書の第一約束期間の始まりでもあった2008年は、9月にアメリカで起きたリーマンショックが引き金となって今日まで続く長期不況が始まった年でもある。イギリスでは2009年に前年比で総GDPで4.9%、産業部門だけでみると10%の落ち込みを経験した。不況期に入ると生産が停滞するため、二酸化炭素を始めとする温室効果ガスの排出は世界的に減る傾向にある。イギリス国内の排出量も温室効果ガス全体で8.6%、二酸化炭素だけでみると9.7%減少した。
 気候変動政策の観点から見るかぎり、たとえ不況の結果であったとしても、温室効果ガスが減ること自体はよいことである。たしかに不況から回復すれば排出は増えることが予測されるが、それも初めから計算に入れて、炭素予算には貯金と借金の仕組みがある。大幅に貯金した分だけ、炭素予算を破たんさせずに不況対策で公共投資をすることもできるはずである。だが、2010年6月に出された気候変動委員会の最新年次報告書『炭素予算達成に向けてMeeting Carbon Budgets』には焦りの色が浮かんでいる。報告書にはこうある。

  2009年にわれわれは2020年の炭素価格予想を55ユーロ/二酸化炭素トンから20ユーロに修正した。現在の市場価格は15ユーロで、市場は2020年の価格を25〜40ユーロと予想している。もし2020年の価格が25ユーロを下回れば、低炭素発電に必要とされる投資を得られないだろう。

 気候変動委員会が気にしているのはヨーロッパの排出量取引の仕組みであるEU-ETSの炭素価格である。実は、イギリスの低炭素経済への移行計画はこのEU-ETSによる価格シグナルに依存しているところが大きい。EU-ETSはヨーロッパ域内の電力と重工業に対して温室効果ガスの排出量に総量規制をかけ、個々の企業に割り当てられた排出量を市場でやりとりする仕組みである。もしEU-ETSによって決まる炭素価格が高ければ、その価格シグナルによって低炭素技術への投資が進む。それを利用して、国内の電力や重工業の低炭素化を経済合理的に進めようというのがイギリスの目論見であった。それ自体は大変スマートな考え方なのだが、リーマンショックに端を発する世界的な不況によって、電力や重工業の温室効果ガス排出量は炭素価格とは関係なく結果的に削減されてしまったため、予測していた低炭素化が進まなかったのである。
 ここで注意すべきことは、低炭素化が進まなかったことの影響はその年、あるいはその炭素予算期間の問題にはとどまらないということである。EU-ETSの価格シグナルによって呼び込まれる投資は次の、そのまた次の炭素予算期間に実現するであろう技術への投資も含んでいる。たとえば、二酸化炭素回収・貯留技術(CCS)は2020年以降の実現が予想されているが、こうした新世代の低炭素技術にはそれ相応の開発期間とコストがかかる。EU-ETSの炭素予想価格が下がれば、その分だけ高価格の技術は後回しにされ、将来の低炭素化への足かせになってしまう。だから、気候変動委員会は炭素価格に危惧を抱いているのだ。
 ここで問題になっているのは、総量規制と経済効率性をどう関係づけるかということである。イギリスの場合は、気候変動法によって温室効果ガスを炭素予算の形で総量規制しながら、その内部でEU-ETSの価格シグナルによる経済効率性を組み合わせた。キャップがトレードに先行するということである。これ自体はうまい仕組みなのだが、結果として起きたことは、不況による影響で総量規制が自動的に達成された場合には経済効率性が働かない、キャップがキャップでなくなればトレードは発生しない(売り手過剰による価格下落)という事態である。イギリスの気候変動政策も決して完成品ではない。
 両者の関係づけをどう調整するかが今後の気候変動政策の行方を左右することになるだろう。日本にとっても他人事ではない。日本はオイルショックの経験によって省エネルギー化(=低炭素化)がある程度進んだ。それとほぼ同時に進行した中国の改革開放政策によって、現在は低炭素化の水準が違うプレーヤーの中で総量規制と経済効率性という同じ問題を解かなくてはならなくなっている。そこでは、イギリスの経験をひとつのモデルとしながらも、日本独自の解法を編み出さなくてはならない。

【文献】
*インターネット上の資料はすべて2011年3月31日のもの。

岡久慶,2009,「英国2008年気候変動法——低炭素経済を目指す土台」『外国の立法』240: 88-138.
Stern, Nicholas, 2006, The Economics of Climate Change: The Stern Review.(http://www.hm-treasury.gov.uk/stern_review_report.htm 日本語訳 http://www.env.go.jp/earth/ondanka/knowledge.html)
The Committee on Climate Change, 2008, Building a Low-Carbon Economy: the UK’s Contribution to Tackling Climate Change. (http://www.theccc.org.uk/reports/building-a-low-carbon-economy/)
The Committee on Climate Change, 2010, Meeting Carbon Budgets: Ensuring a Low-Carbon Recovery.(http://www.theccc.org.uk/reports/fourth-carbon-budget/)
UK Government, 2008, Climate Change Act 2008.(http://www.opsi.gov.uk/acts/acts2008/pdf/ukpga_20080027_en.pdf)
UK Government, 2009, The UK Low Carbon Transition Plan: National Strategy for Climate & Energy. (http://www.decc.gov.uk/Media/viewfile.ashx?FilePath=White Papers¥UK Low Carbon Transition Plan WP09¥1_20090724153238_e_@@_lowcarbontransitionplan.pdf&filetype=4 日本語訳 http://ukinjapan.fco.gov.uk/ja/uk-activities/energy-environment/downloads/)