2001-11-04

第4章 低炭素社会への途 ─日本は炭素税から始めよ─(池田和弘)

[2011年7月19日]

●京都議定書の迷路
 1997年12月に開かれた地球温暖化防止京都会議と、そこで採択された京都議定書は、日本の都市の名前「京都」が刻まれたことによって、国際的な舞台における日本の誇るべき成果となった。結果としてアメリカが離脱したとはいえ、京都議定書には世界経済に影響を与える多くの先進国が参加し、しかも数値目標をいれることができた。ほぼ歴史上初めてと言ってよい画期的な出来事であった。
 だが、今から振り返ってみれば、京都会議と京都議定書は、日本が低炭素化に向かう途を幾重にもはばむ迷路をつくりあげてしまったのかもしれない。
 たとえば、京都議定書で約束した1990年比6%減は達成できるのか、できないのか。
 環境省の「2009年度(平成21年度)の温室効果ガス排出量(速報値)について」によれば、国内における2009年度の温室効果ガス排出量は二酸化炭素換算で12億900万トン、京都議定書の基準年に比べて4.1%の減少になっている。経年変化で見た場合には、京都議定書の第一約束期間の前年である2007年の排出量が13億6900万トン(基準年比にして、+8.5%)、2008年が12億8200万トン(同、+1.6%)、2009年が12億900万トン(同、−4.1%)と、第一約束期間に向かって急激に減少している。仮にこのままのペースでいけば、2008年〜2012年の第一約束期間の間に、国際公約である1990年比6%減も夢ではない。
 だが、これは必ずしも日本が低炭素化したことを意味するものでも、意識的に排出削減を実行した結果とも言えない。イギリスがリーマンショックの影響を受けたのと同じように、不況から立ち直りつつあった日本経済も大きな打撃を受けた。内閣府が発表している「平成21年度国民経済計算」によると、この間における日本の実質GDP成長率は2007年度に前年度比で+1.8%、2008年度が−4.1%、2009年度が−2.4%と大きく低下し、温室効果ガス排出量の減少と軌を一にしている。
 よく言われるように「経済と環境は両立しない」などと考える必要はまったくないが、経済活動の低迷が温室効果ガスの排出を低減させることは間違いない。しかし、日本ではこのことをはっきりと主張する人はあまり多くない。特に、産業界も取り込んで開催されている各種の審議会ではむしろ、2007年以降の温室効果ガス低減は企業の自主努力の成果だと読み解く傾向が強い。
 2009年12月に開かれたコペンハーゲン会議の前にさかんに報道されたセクター別アプローチという考え方にも同じ傾向が表れている。コペンハーゲン会議は京都議定書の第一約束期間の次の枠組み、いわゆるポスト京都を決める重要な会議で、そこで日本は独自の戦略としてセクター別アプローチを提唱してまわった。
 セクター別アプローチの考え方はそれほど難しくはない。世界中の省エネ技術を調べて、その時点の最高水準の技術を基準に現実的にどのぐらいの削減可能性がどこにあるのかを求めていく考え方だ。京都議定書の枠組みでは基本的に1990年を基準として各国が総量をパーセントで削減する方法が主になっているが、セクター別アプローチは各国の削減パーセントを経済効率的に可能なところから積み上げて科学的に決定しようとしている。その意味でよりスマートなやり方だと言える。
 だが、セクター別アプローチは国際的にはあまりうけがよろしくない。少し考えれば分かるように、この考え方は省エネ技術が進んでいる日本に有利、というよりは、事実上、日本の技術を基準に世界の技術水準を測るということだからだ。そのため、低炭素化に積極的なヨーロッパでさえも、あえて否定はしないが賛成もしないという態度をとった。
 セクター別アプローチは全体の総量を規制するという観点からするとたしかに欠陥があるが、効率の悪いものをよいものに置き換える、言いかえれば、温室効果ガスをたくさん出すものを市場から排除する、という考え方自体は基本的に正しい。だが、国際政治力をすでに失いかけている日本が自国に有利に映る「正しさ」を主張しても、それは無理というものだ。正しいことを言えばいいのではない。正しさを言いながらも、相手が譲歩しうるラインで交渉するしたたかさが必要だ。
 日本はたしかにすぐれた省エネ技術をもっている。金融危機以降の世界不況の中では、結果として温室効果ガスの排出量も減少した。しかし、いずれにしても日本が温室効果ガスを大量に排出していることもまた事実だ。外交技術に長けたヨーロッパやアメリカ、そして中国を相手にするためには、日本の国として低炭素化に向けた国造りに着手したという事実が必要だ。迷路に迷い込むのでも、迷い込ませるのでもなく、国際交渉に耐えうるだけの確固とした意志が求められている。

●日本版気候変動法
 日本が最初に手本にしようとしたのが、かのイギリスの気候変動法である。民主党は政権交代を成し遂げる前から、日本版の気候変動法である「地球温暖化対策基本法案」を用意しており、政権交代時の2009年衆院選マニフェストにも政策インデックスの中で環境政策のトップ項目に挙げている。この法案は政権交代後の2010年5月18日に衆議院を通過して参議院に送られたが、当時の鳩山首相の辞任、管首相による組閣の流れの中で通常国会が閉会して廃案になっている。その後の臨時国会でも原案のまま再提出されるが継続審議のまま現在に至っている。
 およそ1年以上もの間議論されていることになるが、残念ながら国民の注目を集めることはなかった。しかし、2011年3月11日の東日本大震災とそれに端を発する原子力危機の中で、今後はエネルギー政策とセットになって集中的に議論されるものと予想される。民主党はどのようなプランを描いているのか、まずはその中身をみてみよう。
 地球温暖化対策基本法案は次のような構成になっている。

  第1章 総則(第1条−第8条)
  第2章 中長期的な目標(第9条・第10条)
  第3章 基本計画等(第11条〜第13条)
  第4章 基本的施策
   第1節 国の施策(第14条〜第30条)
   第2節 地方公共団体の施策(第31条)
  第5章 地球温暖化対策本部(第32条〜第41条)
  附則

 一見して分かるように、先のイギリスの気候変動法と見比べると違いが歴然としている。イギリスの気候変動法は「第1部 温室効果ガス排出量削減目標と炭素予算」「第2部 気候変動委員会」と、目次を見ただけで政策の中身がはっきり分かるように組み立てられていた。目標を立て、炭素予算を組み、気候変動委員会がチェック&アドバイスをする。それがイギリスの気候変動法だ。それに対して日本は、中長期的な目標のあとには基本計画と基本的施策が並び、政府が具体的に何をしようとしているのか、まったく伝わってこない。注意を喚起するような仕組みもなく、何かが変わるという匂いがまったくしない。あるのはいつもと同じ法律の文言だけだ。
 国民に伝える意識がまったくないこと自体が重大な問題であるが、ここではひとまず置いておこう。主だった具体的な政策はこれも12行に渡るとても日本語とは思えない長い一文で表現されている。適宜割愛しながら紹介しよう。

  第1条
   …温室効果ガスの排出量の削減に関する中長期的な目標を設定し、国内排出量取引制度、地球温暖化対策税および固定価格買取制度の創設、革新的な技術開発の促進等について定めることにより…。

 まず、中期目標2020年25%減と長期目標2050年80%減を設定する。それを達成するために、国内排出量取引制度、地球温暖化対策税(炭素税)、固定価格買取制度の三つを主な政策とし、技術革新を促進するとする。おおざっぱに言えば、この法案で重要なことはこの部分に集約されている。その後に続く条文を読んでも、制度どうしがどう関係し、具体的にどう動くのかはまったく書かれていない。はっきりしているのは、目標を設定したという法的事実と、横並びに三つの政策オプションがあるということだけだ。
 イギリスの気候変動法と日本の地球温暖化対策基本法案のあいだには明らかに温度差がある。イギリスは具体的な制度設計がすみ、実際に走らせ、トライアル・アンド・エラーで設計上の難点を回避する方策を考えている段階だ。一方、日本は根拠のない目標値を国際舞台で宣言するわりには、政策オプションが列挙されているだけにとどまり、審議未了を繰り返している。周回遅れどころか、少なくとも2周は遅れているのが実情だ。
 その理由ははっきりしている。日本にはまだ低炭素化が経済の外部制約条件になるということ、すなわち、低炭素化という大きな流れの中で一国の経済を舵取りしていかなくてはならなくなったという意識がほとんどないのである。これでは低炭素化が進展しないのもあたり前だ。
 たとえば、先に引用した第1条には「地球温暖化への適応をすることができる社会の構築を図るため、環境基本法の基本理念にのっとり…」という文言がある。環境基本法は地球環境問題が政治の舞台に出現したころ、1993年に作られた法律だが、政府は今のところこの環境基本法の延長程度にしか認識していない。つまり、地球温暖化をいまだに地球環境問題の域内でしか考えていないということだ。現実に即して言えば、地球温暖化はすでにいわゆる「エコ」の域を超えて、言葉の上でもGlobal WarmingからLow Carbonへと重心が変化しつつある。このことにもう少し敏感になるべきだろう。グリーン・ジョブにしても同じだ。グリーン・ジョブが生まれて経済効果があるということではなく、グリーン・ジョブにならないと生き残れないということなのだ。低炭素化は炭素を大量に排出する産業化のあり方そのものを問い直す大きな流れであり、すでに日本も否応なくその流れに巻き込れている。そこから認識を改める必要があるだろう。

●新成長戦略
 このように大枠の議論は必ずしもうまくいっているとは言えず、また、法案成立のめどもまったく立っていないが、それを構成していた個別の三つの政策、国内排出量取引制度、地球温暖化対策税、固定価格買取制度は別の大枠の元に組み込まれて議論が続けられている。「新成長戦略」というのがそれだ。
 新成長戦略は政権交代後の2009年12月に基本方針が出され、翌2010年6月18日に閣議決定された政権交代の目玉ともいうべき大型の経済政策である。「強い経済」「強い財政」「強い社会保障」というキャッチフレーズの元に、7つの戦略分野と21の国家戦略プロジェクトが組み込まれており、7つの戦略分野には「グリーン・イノベーション」という名前で低炭素化がトップ項目に配置されている。
 この新成長戦略を具体的に実行するための「成長戦略実行計画」にはそれぞれの戦略分野ごとに工程表がついている。グリーン・イノベーションの場合には「環境・エネルギー大国戦略」がそれにあたる。ここには実にさまざまなものが、環境とエネルギーと技術に関係しそうなものはほぼすべて組み込まれている。「基本施策」とされているものだけを列挙しておこう。(このほかにも15を超える施策が「業務・家庭」「運輸」「産業・エネルギー」「技術開発・投融資」に分類されて展開されている。詳しくは「新成長戦略」をみていただきたい。)

  ・再生可能エネルギーの普及拡大・産業化(全量買取方式の固定価格買取制度の導入、規制の見直し(発電設備の立地に係る規制等))
  ・太陽光、風力(陸上・洋上)、小水力、地熱、太陽熱、バイオマス等の再生可能エネルギーの導入目標の設定、ロードマップの策定
  ・地球温暖化対策のための税の導入
  ・国内排出量取引制度の創設
  ・「環境未来都市」構想(環境未来都市整備促進法(仮称)の検討)
  ・スマートグリッドの導入、情報通信技術の活利用、熱等のエネルギーの面的利用等環境負荷低減事業の推進

 先ほどの国内排出量取引制度、地球温暖化対策税、固定価格買取制度の三つの政策もしっかりと組み込まれているのがみてとれるだろう。各種再生可能エネルギー、スマートグリッドなども入っていて、最新低炭素技術の粋が集められたようでもある。これらの技術革新によって、50兆円超の環境関連新規市場を創設し、140万人の環境分野の新規雇用を生み出そうというのが政府の目論見である。
 7つの戦略分野にある多くの施策の中から特に国が集中して取り組むプロジェクトを、政府は「21の国家プロジェクト」として指定している。環境・エネルギーからは三つのプロジェクトが推進される。

  ・「固定価格買取制度」の導入による再生可能エネルギー・急拡大
  ・「環境未来都市」構想
  ・森林・林業再生プラン

 すぐに分かるように、気候変動政策で謳われていた国内排出量取引制度、地球温暖化対策税、固定価格買取制度の三つの主な政策のうち、国内排出量取引制度と地球温暖化対策税は国家プロジェクトから外されている。その理由については後ほど考察することにして、まずはプロジェクトの中身をみてみよう。

●三つの国家プロジェクト
 固定価格買取制度Feed-in Tariffは再生可能エネルギーの普及を拡大するために作られた制度である。今のところ太陽光発電にしか適用されていないが、太陽光発電によって自宅で使う電気を上回る発電をした際に、その上回る分の電力を住宅用の場合1キロワット時あたり48円で電力会社に売ることができる(余剰買取)。買い取りにかかる費用は電気料金に上乗せする形で電気利用者全員で負担することになっている。これをさらに風力、中水力、地熱、バイオマス発電に拡大し、利用種別も自家消費用から発電用にまで拡大することで(全量買取)、2020年までに再生可能エネルギーの国内一次エネルギー供給に占める比率を10%にする目論見だ。
 新しい制度の変更点として注目すべき点は、500キロワット以上の発電用の設備について全量で買い取ることが検討されている点である。これまでの固定買取制度のイメージでは、自家消費を主目的として作られた発電設備に限って余剰分を買い取るものだった。これを自家消費を目的としない発電設備にまで広げることによって、新たなビジネスの成立が見込まれる。たとえば、住宅の屋根を一区画大規模に借りて、発電業を営むような事業も生まれてくるだろう。これまで看板貸しぐらいの経済価値しかなかった住宅の屋根が、これからは発電所としての価値をもつようになる。こうした意味の転換という点で、環境関連の新規市場を創るということがどのようなことを起こすのか、そのイメージを理解する上で、固定価格買取制度の拡大は分かりやすいモデルケースを提供することになるだろう。
 このようにうまくいきそうな政策がある一方で、ほかの2つの政策、環境未来都市と林業再生プランはどうグリーン・イノベーションを起こすのか、何が新しくうまれるのか、まったくはっきりしてしない。先に森林・林業再生プランから述べると、実はグリーン・イノベーションと銘打たれた20以上の政策群の中に森林・林業再生プランは入っていない。この政策の出自は「環境・エネルギー大国戦略」ではなく、「観光・地域活性化戦略」にある。そのため、その目的も「木材自給率50%」であり、たとえば、木材資源を利用したバイオマス発電のように低炭素化が目指されているわけではない。
 こうした試みは既存事業をそのまま延命するために緑色の看板に架け替えているにすぎず、時代の流れにまったく逆行している。林業で言えば、そもそもの問題は輸入材との価格競争に勝てないことと、それによる慢性的な人材不足である。はっきり言えば、すでに事業として成立していないし、する見込みもない。それならばむしろ、林道の建設によって無用な自然破壊をすることなく、新しい人材はこれから成長する可能性のある分野に積極的に流していくべきだ。地域活性化はその流れの中で考えていけばよい。
 その意味で、もうひとつの国家プロジェクトである環境未来都市構想は、地域を活性化する新しい試みとして大いに期待される。しかし、ここにもまた落とし穴がある。

●環境未来都市構想
 環境未来都市構想は2008年に自民党政権下で実施された「環境モデル都市」をベースにしている。大都市からは横浜市、小規模都市からは水俣市、東京からは千代田区といったように都市の性格の違いも考慮にいれて13の自治体を選び出し、そこで先端的な低炭素技術の実践と都市構造の構築が実験的になされた。たとえば、人口42万人で中規模都市に該当する富山市では、路面電車Light Rail Transitのネットワークを拡充することによって、自動車依存度の低減しながら、歩いて暮らせる「コンパクトシティ」の構築を試みている。
 2008年の環境モデル都市では次のような目的がたてられていた。

  ・我が国を低炭素社会に転換していくためには、ライフスタイル、都市や交通のあり方など社会の仕組みを根本から変えることが必要。
  ・今後目指すべき低炭素社会の姿を具体的にわかりやすく示すため、国は、温室効果ガスの大幅削減など高い目標を掲げて先駆的な取組にチャレンジする都市を「環境モデル都市」として選定し、その実現を支援。
  ・市民や地元企業の参加など地域一丸となった底力の発揮により低炭素型の都市・地域モデルを構築し、地球環境の負荷の低減と地域の持続的発展を同時に実現することにより、地域の活性化を実現。

 「社会の仕組みを根本から変える」「低炭素社会の姿を具体的にわかりやすく」「地域の持続的発展を同時に実現」など、グリーン・イノベーションを具体的に都市空間で実現する上で必要な要素がコンパクトに表現されている。
 ところが、これを受け継いでさらに発展させるはずの環境未来都市構想では、まだ構想段階という限界があるとはいえ、環境や低炭素化の話がどこにあったのか分からないほどに混沌とした状態に陥っている。2010年10月から開かれている環境未来都市構想の有識者検討会で描かれている将来ビジョンは次のようなものだ。

  将来ビジョン:環境・超高齢化対応等を追求した人間中心の都市
  ・「誰もが暮らしたいまち」、「誰もが活力あるまち」を実現
  ・人、もの、金が集まり、自律的に発展できる持続可能な経済社会システムの構築
  ・ソーシャルキャピタル(社会関係資本)の充実等により、社会的連帯感の回復
  ・人々の生活の質を向上させることが究極的な目的

 前政権の政策とは違いを出したいという欲求や、補助金を交付するだけの仕組みからは脱却したいという意欲は分かるのだが、これはあまりにひどい。環境、超高齢化、持続可能性、社会的連帯感などそれぞれの理念はもちろん正しいが、それらをただ寄せ集めただけでは何も言っていないに等しい。こうなってしまった原因は検討会のかなり早い段階である問いを開いてしまったことにあるようだ。それは「住みたいまちとは何か」という都市に生きる人間にとって究極問題とも言うべき問いかけである。その結果、「都市」「まち」という言葉にひきつけられるようにさまざまな社会問題や理念が集まり、結果として壮大な無内容になってしまった。
 低炭素化という巨大なプロジェクトを進めるにあたって、こうした全方位に拡散していくような進め方はあまりよい結果を生まない。環境未来都市でも低炭素化でも同じだが、それがどのようなものになるのかはっきりと分かっている者は誰もいない。だからこそ、そのあり方は理念のようなものではなく、かつてイギリスで始まった市民革命のように具体的な手触りとして示される必要がある。その意味では、環境モデル都市は画期的な試みであった。そこまで一度立ち戻った上で、今度は都市から国へと舞台を移して、低炭素化という革命的な出来事を具体的にどう見せるかを考えるべきだろう。

●炭素リーケージ
 地球温暖化対策基本法に挙げられている三つの主な政策はその役割を担う最有力候補である。特に国内排出量取引制度と地球温暖化対策税は経済に直接影響を与えることから、新しい社会の到来を告げるにたる大きなインパクトが期待できる。しかし、ともに産業界を中心として根強い反対があり、今のところ導入のめどがたっていない。
 たとえば、内閣総理大臣を議長とする新成長戦略実現会議でも、経団連の会長である米倉弘昌が次のように反対の意見を述べている。

  現在検討されております排出量の取引制度や、あるいは再生可能エネルギーの全量買取制度、地球温暖化対策税というのは海外からの投資を呼び込むどころか、逆に我が国でのものづくりを阻害して、そして海外への生産拠点の移転を助長してしまうのではないかと懸念いたしております。最終的な報告書の取りまとめに当たってはこうした制度の導入が盛り込まれないようにお願いしたいと存じます。(国家戦略室2010「第5回 新成長戦略実現会議 議事要旨」)

 産業界が懸念しているのはいわゆる「炭素リーケージcarbon leakage」と呼ばれる現象である。炭素リーケージとは、ある地域で炭素排出のコストが増加すると工場などがその地域の外に移転し、移転先の地域で炭素の排出量が増加する現象を指している。産業構造審議会の地球環境小委員会の資料によれば、2020年までを見通した場合、炭素価格は二酸化炭素1トンあたり0〜50ドル(約4000円)程度の範囲で推移するものと予想されている。これがなぜ問題になるかといえば、各国ごとに二酸化炭素の削減余地、すなわち、追加的に1トン削減するための費用(限界削減費用)が異なるからだ。同じく地球環境小委員会の資料によれば、各国の限界削減費用は、EUが約48ドル、アメリカが約60ドル、韓国が約21ドル、中国が約3ドルであるのに対して、日本の限界削減費用は約476ドルに達している。そのため、日本では1トンあたり476ドルかけて追加的に炭素を削減するよりも、炭素市場で50ドルで買った方がはるかに経済合理的になり、これによって低炭素化が進むことはない。仮に日本市場だけ1トンあたり500ドルの炭素価格を設定すれば、間違いなく産業は安い炭素を求めて国外に流出する。そのため、国内における排出量取引制度の導入には反対の立場をとらざるをえない、というわけだ。経団連は決して抵抗勢力などではなく、論理的に考えても妥当な見解である。
 再生可能エネルギーの全量買取制度や地球温暖化対策税でも同様の論理が成立する。ここで問題になっているのは突き詰めていえば、グローバル化した経済を国内的な規制でどう制御するか、すなわち、イギリスで起きたことと同様に規制と経済の関係づけの問題である。どの国も最終的にはこの問題に自らの解を与えなくてはならない。

●経済に先行する社会
 理念ではなく具体的な手触りをもち、なおかつ国家的な規模の政策によって低炭素社会の到来を印象づけながらも、炭素リーケージは生じさせない。ここで求められているのはそうした綱渡りのような政策技法である。
 かなり難しい作業になるが、考える手がかりがないわけではない。産業界が経済的手法に反対しているのは、先にみたように炭素リーケージによって産業の国外移転が生じるからである。あまり表だって議論されることはないが、実は、国外移転が生じにくく、炭素リーケージも発生しないものもある。それは、一人一人の生身の人間、日本の一般国民である。日本語という辺境言語の障壁と、それにもかかわらず達成された高い経済性によって、国外に移住する日本人の数は今でもごく少数にとどまっている。そのため、国内で炭素に高い価格がついたとしても、それを理由にして国外に移住する人々が大量に発生するとは考えにくい。
 産業界が経済的手法に反対する理由にも実はこれが効いてきている。経済原理から言えば、高い炭素価格がついた場合には工場を国外移転させればよい。経済活動の自由が保障されている以上、倫理性を別にすればそれに反対する理由はないし、現に安い労働力を求めて多くの工場が中国に移転している。低炭素化の場合にそれができないのは、高い技術力とそれに見合う労働品質は日本でしか手に入らないからである。したがって、高い炭素価格がついたとしても、実際には炭素リーケージは起こらない。起こるのはただ、日本が国際競争力を失い、輸出産業が衰退するということだけだ。
 そのため、産業界に炭素価格の上乗せを要求するのはあまり適切な政策ではない。再生可能エネルギーの全量買取制度が国家プロジェクトに入っているのは、再生可能エネルギーの普及が大きく進むとは予想されておらず、コストは産業界が吸収できるぐらい小さいと見込まれているからだろう。
 そうすると、ここで取りうる政策オプションは産業界への直接的な影響は小さいが、社会に与えるインパクトは大きく、具体的に低炭素社会の到来を印象づけられるものにかぎられる。それには地球温暖化対策税、すなわち、炭素税の一般家庭に限った導入がもっとも適している。
 政府の各種審議会は産業界を取り込む形で進められるため、産業界が反対するとその政策がすべて頓挫することが多い。しかし、産業界と一般家庭を切り離して、その一方にのみ政策を導入することも可能であり、その可能性はぜひとも考えてみるべきだ。
 規制と経済の関係づけの問題で言えば、産業組織と国民のあいだにある国外移転可能性の違いを用いて炭素リーケージの問題をクリアし、日本の社会そのものを低炭素化の規律空間にすることによって、そこから間接的に低炭素経済への移行を促すということになる。これは言語障壁と高い経済性という世界でも例をみない条件がそろっている日本だからこそとれる方法でもある。炭素の限界削減費用が日本だけ突出しているのも本質的には同じ理由による。すなわち、かねてより省エネという低炭素経済が運営できたのは、それを支える社会的な条件があったからにほかならない。今度はその条件をはっきりと低炭素社会として示すときがきたということだ。
 炭素税を一般家庭に導入する具体的な手法についてはさまざまなものが考えられるだろう。たとえば、電気やガソリンといったエネルギーに定率で課税する方法や、エコポイントを逆転させて、エネルギー効率の低い電気機器に課税する方法もあるだろう。もちろん、消費税のように消費全般に課税する方法もあるし、確定申告で還付して税制中立にしてもよい。
 いずれにせよ重要なことは、どんな形であれ、低炭素社会を具体的に見せてしまうことである。身に迫るものがなければ、人は本気で考えようとはしない。総量規制の議論はそれからでも遅くないし、逆に言えば、そこからしか始まらない。計画停電になってはじめて本気で節電を考え始め、実際に節電効果が目に見える形で現れたように。低炭素化も同じように考えればよい。低炭素社会が低炭素経済を導く。それを具体的に示すだけで、25%削減宣言のたしかな裏書きになる。
 政府が発する言葉の中で最近頻繁に耳にするものに「選択と集中」という言葉がある。何かを選択し、何かに集中させるときが来ている。この考え方自体は正しい。だが、本当に大事なことは、「何を選択しない」で、「何に集中させない」か、今ここで捨てていかなくてはならないものをはっきり示すことだ。大量に炭素を排出する産業は将来的に維持できない。エネルギーを大量に使う生活も維持できない。何がなぜできないのか、それをはっきりさせることで初めて、何を選択して何に集中させるべきなのか、その意味が見えてくる。その第一歩を、日本は炭素税から始めよ。

【文献】
*インターネット上の資料はすべて2011年3月31日のもの。

環境省,2011,「2009年度(平成21年度)の温室効果ガス排出量(速報値)について」(http://www.env.go.jp/earth/ondanka/ghg/2009sokuho.pdf
経済産業省,2010,「産業構造審議会 環境部会 地球環境小委員会 政策手法ワーキンググループにおける議論の中間整理」(http://www.meti.go.jp/committee/summary/0003930/067_03_03.pdf
経済産業省,2011,「再生可能エネルギーの全量買取制度における詳細制度設計について」(http://www.meti.go.jp/committee/summary/0004405/038_02_02.pdf
国家戦略室,2010,「第5回 新成長戦略実現会議 議事要旨」(http://www.npu.go.jp/policy/policy04/pdf/20101201/20101201_gijiyoshi.pdf
首相官邸,2009,「「環境モデル都市」13都市の取組概要について」(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/siryou/pdf/13EMCs.pdf
首相官邸,2010,「新成長戦略——「元気な日本」復活のシナリオ」(http://www.kantei.go.jp/jp/sinseichousenryaku/sinseichou01.pdf
首相官邸,2011,「「環境未来都市」構想のコンセプト中間取りまとめ(案)」(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kentoukai/dai5/siryou3.pdf
内閣府,2011,「平成21年度国民経済計算」(http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/h21-kaku/23annual-report-j.html
民主党,2010,「地球温暖化対策基本法案」(http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/171/pdf/t071710191710.pdf