2006-05-13
アイデンティティ懐疑はもうよろし
岩波書店が最後の(思想的な)力を振り絞って?プッシュしている柄谷行人著『世界共和国へ』を読んだ。非常に刺激的な内容で考えさせられるものがあったのだが、そこに以前、上野千鶴子編『脱アイデンティティ』を読んだときに伏見が素朴に思った疑問が、思想的な文脈で主張されていた。いや、もちろん柄谷氏はあの本に向けて反論しているわけではないのだけど。
「カントによれば、統整的理念は仮像(像)である。しかし、それは、このような仮像がなければひとが生きていけないという意味で、「超越論的な仮像」です。カントが『純粋理性批判』で述べたのは、そのような仮像の批判です。その一つとして「自己」があります。同一であるような自己とは仮像です。ヒュームがいうように、同一の自己は存在しない。たとえば、昨日の私は、今の私ではない。それらが同じ一つの私であるかのようにみなすことは仮像である。しかし、そのような仮像は生きていくために必要です。今の私は昨日の私と関係がないということでは、他人との関係が成り立たないだけでなく、自分自身も崩壊してしまう。だから、同一の自己が仮像であるとしても、それは取りのぞくことができないような仮像なのです」
これって、野口勝三氏のクィア理論批判に通じる論旨ですね。大学でジェンダースタディーズとかを学ぶとみんな、アイデンティティ懐疑みたいな方向に(制度的に?政治的に?)導引されてしまうのだけど、いつまであんなことやってるのかねえ……。バトラー祭り?(笑) どうせなら、もっと論理的に野口批判とか柄谷批判とかを展開すればいいのに。まあ、そんな勇気もないのだろうけど。