2008-10-24

小浜逸郎『男はどこにいるのか』

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★★★★★ ジェンダーについて考えるときの必読書
小浜氏の議論を等閑視してジェンダーを議論するのは卑怯者のやること!

● 小浜逸郎『男はどこにいるのか』(ポット出版)再刊

この度復刊された『男はどこにいるのか』を筆者が最初に読んだのは、いまから14年前のことである。一読した感想は、「たしかにその通りだと思うが、……」。小浜逸郎氏の論に終始納得させられながらも、「……」という部分を残さずにはいられなかった。

それについては少し説明がいるだろう。本書が刊行された90年代の初頭というのは、既存の性役割りに対する窮屈さがリアルに存在していた、と振り返る。セックスに対するタブーは根深くあったし、女性の社会進出もどうにか可能になったばかり、性の多様性などということも、やっと語られるようになった時代だ。筆者の世代的な制約もあるにせよ、性役割り、つまりジェンダーをいかに乗り越えていくのか、というテーマが共感を呼ぶ土壌は広く存在していただろう。

 時代思想の力点は必然的に、ジェンダーにおける変化の部分に置かれることとなった。その変化を正当化し促すために、性差がいかに作られたものであるか、ジェンダーが時代や社会によってどれだけ異なるものであるか、が次々と言説化されていった。

そういう思潮にあって、小浜が主張したことは、男女の非対称性、性差が作られたものであることは事実だろうが、そこにはそれ相当の歴史的な経緯と根拠があって(生物学的な基盤を源にした)、それは容易に解消されるものではないし、また解消すればいいというものでもない、ということだ。それは穏当な解釈であり正論であるかもしれないが、現状に抑圧感を抱えた人々にしてみれば、冷や水を浴びせられたようで、当然、反発も招いた。

しかし十数年の時を経て、小浜の仕事は重要性を増してきているように思う。小浜の議論に正面から向き合うことを避けたフェミニズムは、その後、思弁的な色彩を濃くし、社会構築主義やらポスト構造主義やらの洗練されたタームを用いて、いかに男女という二元性がフィクションであるかを観念で上塗りするばかり。けれど結局、そういう言説は現実から遊離して、実際の差別を解消する力を失っている。

たしかに、小浜の物言いは性急な変化を希求する情緒には訴えないかもしれない。が、現実を着実に変化させる前提を提示し、多くの人が問題を考える契機をとらえている。色気はないが誠実さがあるというべきか。運動的な熱が終息した現在、小浜の議論に立ち返って、性の非対称性をいかにとらえるべきなのか、何を解消し何を肯定すべきなのかを再考すべきときだろう。差異をそのまま権力関係に置き換えるのか、差異のなかに評価すべき点を見いだすのか。そこにこそ、変わらぬ争点があり、ジェンダーフリー問題や性教育問題において、保守派と改革派との、一見解消不可能に見える対立を解く鍵があるはずだ。

小浜のジェンダー論の骨子は初期から変わっていないが、その後の展開として『「男」という不安』などの著作も上梓されている。どれも、生活者としての実存を手放さないところでの、言葉が積み重ねられている。そうした手法を貫いているがゆえに、小浜の思考は、リアルと切り結び、思想のマスターベーションに陥ることを免れているのだろう。

*初出/現代性教育研究月報(2007.6)