2007-10-19

QJr対談「二丁目の過去・現在・未来」

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■ 二丁目の過去・現在・未来

*初出/クィア・ジャパン・リターンズ vol.2 (2006/ポット出版)

中田たか志[Shifty Air]×福島光生[mf(メゾフォルテ)]

新宿二丁目のベテランのおふたり
中田たか志さん(Shifty Air 経営/東京レズビアン&ゲイパレード実行委員)と
福島光生さん(メゾフォルテ/二丁目振興会代表)に
新宿二丁目の今昔について語っていただいた。
若い世代には知られざる街の歴史がここに明らかに!
聞き手●伏見憲明/構成●川西由樹子

● 中田たか志 なかた・たかし
1960年8月1日生まれ。歯科医師、1996年5月「中田歯科クリニック」開業、東京都エイズ協力歯科診療所運営協議会委員。日本舞踊春謡流名取師範、春謡妙嘉新舞踊教室を開講。日本スノーボード協会公認インストラクター、ゲイのスノーボードサークル「Shifty Air Snowboard Team」主宰。東京レズビアン&ゲイパレードを主催する TOKYO Pride 副代表理事。

● 福島光生 ふくしま・みつお
1958年東京生まれ。ライター/コピーライター/ゲイバー「mf(メゾフォルテ)」経営。「東京レズビアンゲイパレード2001」実行委員長、新宿ニ丁目振興会代表。著書『ソメイヨシノは、実をつけない〜新宿2丁目的青春』(久美沙織、藤臣柊子、共著/メディア・ファクトリー)。

デビューは
百恵ちゃんの時代

伏見 本日は「二丁目振興会」の代表の福島光生さんと、新宿二丁目の生き字引的存在の中田たか志さんに、「二丁目の過去・現在・未来」というテーマで語っていただきたいと思います。まず、おふたりの二丁目デビューはいつごろなんでしょうか?
福島 最初に二丁目へ踏みこんだのは、高校生のころ、まだ16歳でした。山口百恵が流行っていた時代だから、75年くらいかな。当時はゲイに関する情報も少なくて、『薔薇族』で「祭」というお店の広告を見て、「昼間からやってるし、安いみたいだから、高校生の自分でも行けるな」と出かけてみたんです。
伏見 若い読者のために、ちょっと解説を。「祭」というのは、日本初のゲイ雑誌である『薔薇族』の編集長だった伊藤文学さんが当時経営されていた、時間帯によって喫茶店だったりバーだったりしたお店です。
福島 場所は便宜上「二丁目」と言ってはいるけど、実は五丁目の厚生年金会館の近くにあったんだよね。土曜日の午後、学校の帰りに学生服のまま行ったの。いえ、べつに「受けを狙った」わけじゃなくて(笑)、どういう雰囲気の場所なのかぜんぜんわからなかったから、つい普段のままの姿で。最初はとにかく、オネエ言葉をしゃべっているひとたちに、激しく衝撃を受けました。ぼくね、いまでこそネイティブなオネエっぽくなっちゃってるけど、当時は「男が好きだということと女っぽいことは特に関係ないはずなのに、なんでゲイのひとたちは女っぽいの?」と違和感を抱いたんだよね。いわゆる「ゲイのホモフォビア」だったのかも。ほかのお客と目も合わせられずに、周囲の「ヤだぁ♪」「キャー☆」みたいなノリを聞いて、「あぁ、ダメ!!」となっちゃった(笑)。それまでにハッテン映画館なんかで男との性的体験はあったから、自分のセクシュアリティは自覚していたんだけど、「祭」にいるのはぼくと同じ種族の人間じゃないと思ったのね。
中田 わたしの場合は、最初に二丁目に行ったのは76年、高校一年のときだから、時期的には福島さんとそんなに変わらないわね。『薔薇族』の文通欄で知り合った相手に二丁目へ連れて行ってもらったわけだから、きっかけになった媒体もいっしょ。でも、福島さんとは決定的に違うところもある。
福島 え、なにそれ?
中田 福島さんにとっては、オネエ言葉はゲイコミュニティに出入りするようになってから直面したものかもしれないけど、わたしの場合、「オネエ言葉」なんて用語を知らないころから、このしゃべり方で生きてきたんです。だから、福島さんのオネエ言葉は「それはゲイコミュニティによってつくられたものであって、そんなのはネイティブなオネエじゃない!!」と、声を大にして言いたいわ(笑)。

「祭」は二丁目への
登竜門だった

伏見 福島さん、当時の「祭」というのは、どんな雰囲気だったんですか?
福島 昼間の部だったからというのもあるけど、客層は若い子ばっかり。キャパシティは30人から40人くらいかな、とにかく大勢がひしめき合ってた。あと、「祭」には「ノートを置く」という風習があったんだよね。お店が用意したノートじゃなくて、お客が自分でわざわざ持ちこむの。「今度の百恵ちゃんの曲はどうの〜」みたいな感想とか、「学校でこんなことがありました〜」的な身辺雑記の類を書いて、それにほかの子がレスを付けたりするシステム。ほんとにいまのネットの掲示板みたいなノリだった。
中田 「『祭』でノートを置くような子たち!」とひと括りにしてバカにするような風潮も、ちょっとあったわね(笑)。あのお店に行くのは、学校のクラスで言ったら「教室のいちばん前の席に座ってる生徒」というか、とにかく真面目な子というイメージがあった。
伏見 当時の「祭」は、若い初心者ゲイの、二丁目への登竜門的な場所でしたね。
中田 そうなんだけど、登竜門である以上は「いずれは卒業するもの」でしょ。いつまでもそこにばかり通うのは、飲み屋に冒険しに行けないタイプだった気がする。ってわたしたちはバカにしていた(笑)。
福島 そこで、いまいち引っ込み思案なお客のために「おはなしおじさん」というシステムが導入されたんだよね。
中田 一種の仕切り役ね。コーナーのところに座ってて、上から看板が下がってたのを覚えてる。《おはなしおじさん 気軽に話しかけてください》って(笑)。
福島 彼は従業員じゃなくてボランティアだったのかな、けっこうご高齢の方。
中田 でも、話しかけてみるとSMの縛りの写真を見せてきたりするから、わたしはあのおじさん嫌いだった(笑)。

伝説のゲイバー、
ゲイディスコ

福島 当時のぼくのコースというと、「祭」は定食もやってたからそこでご飯を食べて、ほかのバーが開く時間になったら、「クロノス」に流れたりしてたっけ。
伏見 「クロノス」はいまや二丁目の伝説的なバーだよね。
福島 そう、映画やミュージカルや歌舞伎の関係者も大勢出入りしていた。アカデミックというか、すごく大人の話をしていた雰囲気があった。それと、ゲイディスコの「MAKOⅡ」にもよく通ったな。いまの子が「ACE」とかのクラブに行く感覚で、踊りに行ってた。たぶん、「MAKOⅡ」は二丁目で最初に流行ったゲイディスコだと思う。
伏見 ぼくがデビューしたのはちょうど1980年で、やっぱり週刊誌で「MAKOⅡ」の記事を読んだのがきっかけだった。あのディスコも歴史的な存在ですね。ところで、70年代から80年代にかけての二丁目の雰囲気は、どんな感じでした?
中田 現在との決定的な違いといえば、「道にひとがいなかった」ことね。でも、いったんお店のドアを開けるとお客さんで一杯だったりして。「ヌードスタジオ」というあの時代特有の風俗店も何軒かあって、これは基本的にはノンケ向けのスペースなんだけど、そこを借りて「男性ヌードショー」なんてゲイ向けのイベントを開いたりもしてた。「ヌードスタジオ」となってはいるけど、実際は売春宿みたいなところだったようだし、あれはその昔二丁目が赤線だったころの名残りだった。
伏見 ぼく、はじめて二丁目に行ったとき、田舎から出てきたブスで貧相な高校生で誰も相手にしてくれなくて(笑)、唯一声をかけてくれたひとに処女だか童貞だかを捧げたんだけど、その彼に連れて行かれたのが「雀のお宿」という、いわゆる連れ込み旅館としか言いようのない場所だったのね。お風呂もトイレも共同で、部屋だけが個別に分かれてて。
福島 なつかしい! ぼくね、そこに連れこまれて、することして眠りこんだら、誰かに身体を触られて目を覚ましたわけ。そしたら、なんとぼくをいじくってるのは、いっしょに部屋に入ったのとは違う相手だったの! 思わず飛び起きちゃった(笑)。いま考えたら、お風呂も共同だったし、あそこっていわゆる「インラン旅館」の一種だったのかも。
伏見 ああ、あそこはインラン旅館も兼ねてたんだ! はじめて納得がいった……。
中田 あと、当時の二丁目にあっていまは見かけない光景といったら、カウンターで「あちらの方から」ってお酒をおごってもらっちゃったりするようなことかな?わたしの場合、そうやって誰かから声をかけられると、まるで売り専の子が指名されたようについて出て行ったりしてた。実際、平気でお小遣いとかもらってたし(笑)。

AD2.jpg「あんた」じゃなくって
「あーた」とおっしゃい!

伏見 二丁目の名物ママというか、印象に残っているキャラクターは?
福島 やっぱり「クロノス」のクロちゃんかな。とにかく博識で、いろんなことを教えてもらった。三丁目にある「タックスノット」の大塚隆史さんも、アートに造詣が深かったりと、話をしているだけで刺激をもらえる相手だよね。
中田 お店のママだけじゃなくて、お客も濃かったよね、昔は。「誰がお店のひとで、誰がお客なんだろう?」ってよく思ったもん。みんなおしゃべりがおもしろいから。
福島 当時は情報源も『薔薇族』くらいだったし、あとは口コミ。創成期から二丁目を発展させてきた方たちって、本当に自力で自分たちのコミュニティネットワークをつくってきたひとたちだから、いろんな意味でアクが強いキャラクターだったよね。
中田 昔はデブ専とフケ専くらいしかカテゴリーがなかったじゃない。カラーが細分化されていない分、あとはお店の個性が勝負。一軒のお店の年齢層の幅も広かったから、超常連のおばさんみたいなのが必ずいるのよね。「あのひとに嫌われちゃったら、あのお店には居づらくなる」みたいな。そのひとが「ねえ」とか言ったら、みんな一瞬そっちを見なきゃいけないようなキャラ(笑)。
福島 「クロノス」に、Jというおもしろいおばさんがいた。「金剛石も磨かずば〜」とかアナクロな言い回しが大好きで。「あんたさぁ」とか言うと「あんたじゃなくって『あーた』とおっしゃい」とか、「すいません」というと「すいませんなんて日本語はございません、ありがとうございますか、申しわけございませんとおっしゃい!」とか。それこそ、「オマンコ」なんて言おうものなら大騒ぎ(笑)。
伏見 ぼくも自称フランス仕込みの大姐さんの前で、「フェラチオ」って言ったら、「『フエ〜ラチオ』とおっしゃい」とご丁寧にレクチャーされました(爆笑)。
福島 なんでヒトの「すいません」から「フェラチオ」まで、文句つけるのやら(笑)。
中田 「四月四日はオカマの日」ということで女装をする、というゲイバーがあったのね。あんまり楽しいから「じゃ、五月五日もやりましょう」「六月六日もやりましょう」と、ゾロ目の日が女装の日になって、その日は早めに閉店して女装姿のまま食事に行くのが恒例になったのよ。ある晩、渋谷の高級そうな中華料理店に入ったとき、従業員に「ご予約はございますか?」とバカ丁寧に訊かれてさ。もちろん予約なんかしてないんだけど、大姐さんが、しれっと「美空(みそら)です」と言ったら、あっさり「どうぞこちらへ」と奥の個室へ通されちゃったのよ。本人は「ほら、入れるでしょう!」と大威張りなんだけど、ヘンタイご一行様をほかのお客様から隔離しようとしただけじゃん、っていうの(爆笑)。
伏見 ほんと、仕切り屋の「濃い」姐さんたちには、いろいろ教えてもらったよね。
中田 いまにして思えば、会いたくなくても会っちゃうひとたちがいる場所から得られるものは、実にたくさんあったんだよね。嫌でもいろんなことをリアルに体験できたし。なにせ二丁目にくるひとたちは、セクシュアリティが同じなだけでいろんなバックグラウンドを持ってるから、ある意味、度を越した形の異業種交流会なわけよ(笑)。こんな場所で出会ったひとたちが、いわゆる「ゲイの感性」と呼ばれるものを培ってきたんじゃないかな。

長く続いていくのは
人間同士の
お付き合いを
提供するお店

伏見 おふたりとも、その後ゲイバーに関わるようになったきっかけは?
福島 姉が銀座でホステスをやっていたんだけど、結婚後に旦那が亡くなって、「何かやらなくちゃ」とはじめたお店を、90年代のなかばにぼくが手伝ったのが最初のきっかけかな。でも、場所は新宿で、姉貴の銀座時代のお客とは客層が違うし、二丁目のゲイにとっては女性がいる店ではいまいちリラックスできないしで、両方の客層にとって居心地のいい店ではなかったのね。それでけっきょく、ぼくがゲイ向けのお店をやることになったの。
中田 わたしの場合、セクシュアルマイノリティとしての水商売歴は、かなり長いんです。なにせ、高校卒業と同時に赤坂の女装バーに勤めちゃったくらいだから。うちの実家は医者をやってたんだけど、とにかく親の後を継がされるのが嫌で、そういうことを『薔薇族』の文通欄で知り合ったひとに相談したりしてるうちに、いわゆる「観光バー」を紹介されたのね。お店のひとに「寮もあるし、学校を卒業したらいらっしゃい」と言われて、数ヵ月がかりで家出計画を立てたわけ。医学部の入学考査料が1校あたり3万円だったから、親には「自信がないから10校受ける!」と言って、日程的に受けられるところは全部受験資料を取り寄せて、ハンコまで買って領収書を偽造して、10校分30万円を隠匿したの。家出資金のために(笑)。
伏見 す、すごい知能犯……。それにしても中田さんがいきなり女装バーにお勤めしちゃったというのは、いったいどうして?
中田 わたし自身は肉体的な性別への違和感はなかったから、いわゆるトランスジェンダーではなかったんだけど、女装するのは好きだったのね。なにせ、小学生のころから学芸会のお芝居で「近所の主婦A」を演じてたくらいだし(笑)。女装するような方たちとゲイは、当時は同一線上の存在だったわけ。それと、「オネエの世話好き」的な感覚が強くて、自分はサービス業に向いてるのかもしれないと思ってたし。で、赤坂の女装バーを皮切りに、その後紆余曲折を経て、二丁目に自分のお店をはじめて持ったのが88年くらい。
伏見 ミクシィなど、ネット環境が発達した影響で二丁目の店舗数も減りつつあると言われていますが、今後はどういったお店が生き残っていくと思われますか?
福島 たしかに、ひととの出会い方はずいぶん変わってきたよね。「自宅からいくらでもネットで気が合いそうな仲間を見つけられるのに、なんでわざわざ二丁目に出かけていかなきゃならないの?」という感覚はわかる。ネットは便利なツールだし、一概に否定はしないけど、ネット特有の煩わしさもあるんじゃないかな。たとえば、簡単につながれる分あっさり関係が切れちゃうことも少なくないだろうし、そういう付き合い方に疲れる子たちも、けっこういるような気がする。だから、人間同士が触れ合ってリラックスできる、ある意味「昭和のバー」的なものは、そう簡単には廃れないと思う。
中田 そうね、その時々のニーズに合わせてお店のスタイルを変える「流行りもの」のお店は、時代に左右される分、かえって難しい部分があるかも。デジタルなものとアナログなものは、便利なものは取り入れよう、いいものは残そうという形で共存していけると思う。けっきょく、お客はひととの交流を求めてこの街にくるんだから、長く続いていくのは人間同士の付き合いを提供するお店なんじゃないかな。少なくともわたしは、時代は必ずまたそういう地点に回帰すると思っています。
伏見 二丁目振興会は毎年夏に「レインボー祭り」というイベントをやっていますが、これはどういう趣旨のイベントでしょうか。
福島 基本的にはこの街を盛り上げるためのイベントなんだけど、一般の方とセクシュアルマイノリティが楽しく交流できる機会になったらいいね、というお祭りです。オネエがキャアキャアやってる横で、小学生の女の子がかき氷を食べてたりする風景って、なんか素敵じゃない?
伏見 では最後に、おふたりのお店の雰囲気を教えてください。
中田 わたしのパートナーがママをやっていまして、そんなに昭和のバーっぽくはないけど、お通しはちゃんと毎日自分でつくってます(笑)。ママがスノーボード好きなので、サーフィンとか横乗り系のスポーツが好きなお客が集まる感じです。
福島 うちのお店は「何々系」とカテゴライズせずに、とにかくいろんなひとが雑多に楽しめるお店にしていきたいと思ってます。強いて特徴を挙げるなら、年齢層の中心は三十代前半くらいで、短髪・髭あり層を中心に、ワイワイやってるお店です。でも基本は、昭和のノリかな? べつにぼくは、「くっつけママ」というほどじゃないと思うけど……。
中田 あら、そう? お客の立場から言わせてもらえれば、「おせっかいな店」よぉ、あなたのとこって(笑)。
福島 なによ、アンタ、いけないの!?(笑)