2007-11-10

QJ 寄稿・じゅんこ「カマ護士は見た!」その3

1010.jpg● 社会は続くよ何処までも

 浮世離れしたような印象の老人ホームですが、やはりここも人が集まって出来た一つの社会。当然、世間と同じくここにもヒエラルキーは存在します。(注4)
 ホームに入職した当初はどのお年寄りも同じように見え、そこに上下関係があるなど知る由もなかったのですが、アタシも働くうちに徐々にその現実がわかってきたのです。
 アタシが勤めるホームの入居者数は全部で五〇名ちょっと。その人たちが二つのフロアに分かれて生活しています。
 フロア分けの基準はADL(注4)の高さによります。ADLというのは「日常生活動作」という意味で、その数値が高い人ほど職員の介助が必要ではなくなります。
 比較的ADLの高い人は三階のフロアで、低い人は二階のフロアで生活します。なぜそれによって生活空間を分けるかというと、ケアの内容が変わるからです。ADLの高い人には、間接的なケアである娯楽の提供や、QOL(生活の質)(注5)の向上が求められてきます。逆にADLの低い人の場合、食事介助やおむつ交換などを丁寧に行なわないと、次のステップには進めません。
 そういう訳で入居者を区分けしたのですが、これが意外な副作用を産み出しました。そう、お年寄りたちの階層化が助長されたのです。
 世間でのヒエラルキーを構成する要素を大まかに現わすと、「知性(っていうか学歴)」「体力」「容姿」の三つによるものがほとんどだと思われますが、ホームでのそれはもっと露骨です。まず、「ADLの高さ」、そして「容姿」「年齢」。大きな一点と残りの二点で構成されます。
 なぜ、ADLの高さが重要になるかというと、それが高い人はホームの中を比較的自由に動く事が出来ます。なので、いろいろな情報収集(○○さんが死んだというトピックや新しい入居者が来るというニュースなど)や、なかなか現場に現れない施設長の所に職員の素行や、他の入居者の問題行動を告げ口しに行く(しかも自身の超主観的な意見で)という必殺技が使えるわけです。おかげで、そういう人は、他の入居者や、職員達からも一目を置かれる存在になりうるのです。
 また、老人ホームの職員の業務には入居者の生活一般を管理・指導するという面があるのですが、職員が入居者の生活の指導を行なう際、入居者の中でもADLの高い「長老」たちにお伺いを立てる、ということがあります。へんな話ではありますが、業務を円滑に進めるためには、そういう根回しも必要なのです。先ほど名前の出てきた女帝・ヤマコさんはここで言う「長老」に値します。
 次に容姿。やはり老いても男と女。モテる/モテないという構造とそれに付随する現象はこんな所にも発生します……。
 そして最後に年齢。これはやはり高齢者が中心に形成される場所ならではの価値観でしょう。アタシたちの世代に比べ、入居者の方々は若いうちからいわゆる「家父長制」の洗脳をしっかりと浴びており、年長者は敬うべき、という思想が根付いています。先程名前の出たウメさんはホーム長寿記録の保持者で、他の入居者だったら顰蹙モノの行動でも「まぁ、ウメさんだから……」で済んでしまうケースが多々あります。
 そういう要素によって、ホームの中には確固たるヒエラルキーが出来上がっておりました。まず、最下層部に「寝たきりの痴呆老人」。次に「痴呆老人」。そして「ADLの低い人」、「ADLの高い人」、一番上に「ADLが高くて職員たちが一目置いている人」というピラミッドです。
 このヒエラルキーは見事なまでに徹底されており、食事席の配置や部屋割り、お風呂の順番などにも影響を与えます。時として行き過ぎがあり、職員たちも問題として取り上げるのですが、既成特権を長老たちから取り上げようとすると、彼らは施設長など職員の上司を丸め込み激しく抵抗します。どこぞの省庁での権力闘争が老人ホームでも展開されているのです……。
 
 左半身に軽い麻痺があり車椅子生活のトメゾウさんは、ADLの高い人の前だと大人しいのですが、自分と同程度のレベルの人が相手だと、対抗意識をむき出しにします。先日、右半身にやはり軽い麻痺があるスエキチさんに、「ロクに車椅子も漕げないバカヤロウ」とコケにされて、ケンカが始まりました。しまいには「てめぇぶっ殺してやる!」などという威勢のいい言葉まで出る始末。
 ヒートアップしたケンカを無理に止めるのは良くないわ♪ とアタシは考え、二人を廊下の端っこまで連れて行き、車椅子三台分の間を空けて、
「さぁ!やるんだったら思いっきりやっちゃえ!」
と無制限一本勝負の鐘を鳴らしました。
 しかし……二人ともまともに車椅子を漕ぐ事が出来ません。相手をぶっ殺そうにも手が届く所まで車を漕がないと殺せない……。最初は「今からテメェを叩き殺してやる!」「上等だ!殺せるもんなら殺してみやがれ!」などと啖呵を切っていた二人ですが、お互い車椅子をうまく操れず同じ場所をゴニョゴニョと動いています。すると二人とも自分が動けないのなら相手を挑発して来させればと考えたらしく、
「てめぇ! こっちに来い!」
「てめぇがこっちに来やがれ!」
とお互いが相手が来るように挑発を始めました。
 しかし、二人とも同じように挑発しているので二人の距離は一向に縮まりません。
 しまいには、そんな様子を遠目で眺めていたセイジさんが、
「職員さんよぉ、あのケンカどっちが先に疲れちまうか賭けないか?」
と半分バカにした口調で言い出す始末。
 アタシはセイジさんに「他の入居者に怒鳴られて終了に持ち金全部!」と一言。
 セイジさんは「それじゃあ賭けにならねぇよ。俺も同じだもん」と笑い出します。
 結局、トメゾウさんとスエキチさんはそのまま動かず口論を続け、トイレ帰りに通り掛った男勝りなシゲさんに、
「まったくウルサイねっ! 一人でトイレにも行けないようなジジイがガタガタ言ってんじゃないよ!」
と一喝され両者KO負けとなりました……。

 ADLが低い人同士の争いだと可愛らしい争いになるのがほとんどなのですが、ヒエラルキーのトップに君臨する人同士の争いとなると話は変わってきます。
 現在、女帝の座を欲しいままにしているヤマコさん。彼女も決してすんなりと女帝の座に就けた訳ではありませんでした。
 ヤマコさんの入所歴はもうすぐ八年。このホームではもっと前から入居している人が一〇名ほどいらっしゃいます。ADLで言ったら同レベルの方も何人かいます。そういった先輩入居者やライバルたちを差し置いてヤマコさんが女帝の座に就けたのには、理由があります。
 ある日の夜勤での出来事です。寮母室にいたアタシの所にヤマコさんがふらりと現れ、
「職員さん、これ良かったら食べなさいな」
とチョコレートだのクッキーだのと大量のお菓子を置いていきました。
 ……ついに来たわ。これがあの噂に名高い「ヤマコの賄賂」ね……。
 そうなんです。ヤマコさんが揺るぎない地位を確立した原動力はこの「賄賂」なのです。職員や入居者を自分の金にモノを言わせて買収して行くのがヤマコ流。
 ええっ、入居者ならともかく職員がたかだか大量のお菓子ごときで買収はされないでしょ? そう思った方ははっきり言って甘いです。ヤマコさんも端から職員がお菓子ごときで買収されるなどと考えてはいません。この「お菓子の差し入れ」はヤマコさんの次なる手への布石。ヤマコさんの常套手段はこうです。
 職員や他の入居者がそれを返すと、他の入居者や上司に、
「あの職員さん(入居者)は人の好意を無駄にする冷たい人だ」
と吹聴し、評判を落としにかかる。あるいは、差し入れを受け取ったら受け取ったで、あれこれと恩着せがましい言葉と共に相手を自分の手駒のように扱い出すのです。その手練手管たるやけっしてバカにできないもので、彼女の術中にはまって、頭が上がらなくなってしまった入居者や、一部の入居者にあらぬ誤解をされてしまった職員は後を絶ちません。
 しかもヤマコさんがその手の策略を使う時、演技派女優の称号をプレゼントしてやりたくなる程の迫真の演技をします。涙を流すなんてことは朝飯前。
 そうやって次々といろいろな人を篭絡し、派閥を築き上げていきました。
 また、ヤマコさんは非常に頭のいい方で、本質的に世論を誘導する能力に長けているのです。彼女は何かしらの行動を起こす時、ことがスムーズに運ぶのに必要な人物に接近して、過半数の味方を形成しようとします。過半数さえ取ってしまえば、どんなに間違ったことでもそれは正当性を得ます。
 そうやってヤマコさんは居並ぶライバルや障害を蹴散らして来たのです。
 しかし、そんなヤマコさんにもただ一人宿敵がいます。ヤマコさんと同じ部屋のトキさんです。
 1111.jpgトキさんは旦那さんが会社の社長をなさられていたかなり裕福な方で、常々ヤマコさんの剥き出しの買収工作を「いやらしい」と言って憚りませんでした。
 一方のヤマコさんもトキさんのことを陰で「金持ちでございって顔してイヤミな人」と罵っていました。
 そんな犬猿の仲な二人なのですが、なぜか、お互いに居室を別にしてくれとは言い出しません。理由はただ一つ。「部屋にオムツ着用の人が居ると臭いし、痴呆の人が居るといろいろ面倒だから」
 二人とも表立ってはそれを口には出しません。しかし態度で充分わかります。
 そんな利害の一致のみで一緒にいる二人の力関係はここ最近、若干ヤマコさんが優勢でした。同じ部屋のヒロコさんとオリエさんを手中に収めていたからです。もっともヒロコさんもオリエさんも、状況によって立場をくるくる変える一筋縄ではいかない人なのですが……。
 そんな緊張が続いていたのですが、あることがきっかけで状況は一変しました。先に記したヤマコさんがアタシにお菓子を持って来た場面を、トキさんが目撃していたのです。
 それはちょうど、入居者が相次いで亡くなったり、以前から居た方でもADLが低下して居室の位置の見直しを迫られたりして、主にアタシと職員のよしみさんが中心となって、新たな入居者の部屋割りを作成していた時期でした。ヤマコさんはその話をどこからか聞きつけ、自分の処遇を有利に進めるために、よしみさんよりも扱いやすそうだと踏んだアタシにお菓子を持って来たのです。
 次の日の朝、トキさんがオリエさんとヒロコさん、そして隣の部屋のシゲコさんに、
「昨日ね、アタシ見てしまったのよ。ヤマコさんったらね、職員さんが嫌がってるのに無理矢理お菓子を渡してたのよ。まったく何のつもりか知らないけど職員さんも困ってたわ」
と話し出しました。
 それを聞いたヤマコさんはムッとした表情で黙っています。
 ついに勃発! 女帝の争いが。アタシは居室交換の話が出た時点でこうなる事は予測していました。しかし、女帝の争いにアタシがダシで使われるのは歓迎できません。
 アタシは話し込んでいたトキさんたちに、
「あら? 昨日ヤマコさんは自分一人じゃ食べきれないからみんなにおやつの時に分けてあげてって、おやつを持って来てくれたんですよ。ねぇ、ヤマコさん?」
と言いました。
 すると、ヤマコさんは一瞬苦々しい顔をしましたが、
「そうなのよ。まったく誤解するのもいい加減にして欲しいわ」
と言ってのけます。
 今度はトキさんたちが面白くない顔。
 これではアタシがヤマコさんに助け舟を出したことで、今度はアタシがトキさんたちに「あの職員さんはヤマコシンパだ」と言われかねません。アタシにはこの時点で自分が「永世中立国」であることを宣言する必要がありました。
 そこでアタシは職員は皆さんや皆さんの御家族の方から物を頂くことは禁じられているという旨を話し、同時にトキさんの言動とヤマコさんの日頃の行動をやんわりとたしなめました。
 二人を中心とした争いにアタシが巻き込まれることはなくなりましたが、二人の争いの火蓋はその日を境に切って落とされたのです。
 まずはトキさんが猛烈な勢いで行動を始めました。ヤマコさんの手下のような感じだった同室の二人を手なずけ、ヤマコさんと敵対、もしくはヤマコさんが嫌っていた人たちを一気にまとめ上げました。三日くらいの間で、ヤマコさんの取り巻きの半分はトキさんになびきました。こちらも大した政治力です。
 一方のヤマコさんも状況を黙って見ているような人ではありません。
 ヤマコさんは普段自分の周りに居る人達がトキさんの方へと流れて行ったのを逆手に取り、主に職員に仲裁に入ってもらうように「ロビー活動」を開始します。トイレのペーパーが切れていたら、いつもならナースコールで職員を呼び付ける所を、
「忙しい中ごめんなさいねぇ。トイレの紙が切れてたから取りに来たのよ。あたしがつけておくから頂けますか?」
と気味が悪いほど低姿勢でたずねて来たり、買収工作の常套手段のお菓子を、普段なら目もくれないADLの低い人たちにあげて欲しいと持って来たり……。職員に対してアピール行動を取りながら、地道に他の入居者達の同情を集めていきました。
 それが功を奏したのか、再び勢力地図はヤマコさんに若干優位に書き換えられました。
 一方で、アタシやよしみさんたち職員は、「騒動の原因は主に部屋割りにある」とし、ここで一気に「居室改革」を成し遂げようと骨太のプランの作成を急ぎます。三勢力のそれぞれの思惑。最後に笑うのは誰か……。
 数日後、職員が入居者達に改めて最近の状況と居室交換の必要性を説明し、居室移動の仮プランの発表を行ないました。(注6)
 よしみさんとアタシは今度こそ居室改革を実現できる、そう思っていました。ところが……。
 発表した日の午後のことです。
 ヤマコさんとトキさん、そして今回の女帝の争いで周りにいた主だった人たちがよしみさんの元へと連なって来ました。そして、
「職員さんや他の入居者の皆さんには大変な迷惑をお掛け致しました。もし、今回の居室換えの原因がアタシたちだったら今後はちゃんとしますから、どうか、慣れ親しんだ部屋を移すようなことはしないで下さい……」
としおらしく懇願したのです。
 これでアタシたち職員の悲願の達成は大義名分を失ってしまいました。ヤマコさんとトキさんは停戦合意をすることで、居室改革を阻止してしまったのです。結局、一部の入居者の居室を入れ替えたのみでヤマコさんやトキさん、シゲコさんといったいわゆる「女帝の住処」には手をつけることが出来ませんでした。
 が、職員による居室改革が骨抜きに終った後、再びヤマコさんたちは争いを始めたようです。今度は表立ったものではなくもっと水面下での争いとなりました。
 まったく、極道か政治家か。
 少なくともここが伏魔殿であることだけは間違いなさそうです……。

1212.jpg● 愛の乳バンド

 人間にはその根幹に関わる「欲」が存在します。
 食欲、睡眠欲、物欲……。そんな「欲」の中でも年をとるとその存在を口にすることがタブー視されてしまう「欲」があります。それは性欲。メディアでも家庭でもお年寄りの色恋沙汰やセックスの話はなかなか出てきません。しかし、出て来ないだけでしっかりとそれは存在しています。
 ナミエさんは八二歳。彼女は業界で言う「まだらボケ」(注7)な方ですが、とても情熱的で(というかちょっと色狂いという評判も……)たびたびホームの中で色恋沙汰を起こす方です。
 今までにもシゲオさん、タイチロウさん、ケンゾウさん……と幾多もの人にアプローチをかけまくってきました。彼女の恋愛パターンはとても分かりやすく、まず相手に対して過剰なまでに世話を焼くようになります。部屋に押しかけてはベッド周りを掃除してみたり、自分のおやつをおすそ分けしたり……。
 そして、恋が始まるとあるアイテムが登場するのです!
 それは……口紅。彼女がルージュを引くと、それは彼女の中に春が訪れていることを意味します。
 しかし、そんなナミエさんのお眼鏡に叶う男性は最近現れなかったようで、アタシが入職してからの間、彼女のメイク姿を見ることはありませんでした。
 ところが、ある時、そんな彼女にも久しぶりに春が訪れました。ホームに新しい男性入居者が訪れたのです。
 今度のナミエさんのターゲットの名前はツネゾウさん。ナミエさんよりも一つ年上で、ADLもナミエさんとほぼ一緒、ついでに痴呆度も同じくらいという相性バッチリな感じの方でした。
 ツネゾウさんは物静かな方で、よく本を読んでいるのですが、時々その本の向きが逆さまになってたりします。職員が、
「ツネゾウさん、本の向き逆よ!」
と教えると、
「ははは、どうりで読みづらいと思いました」
ととぼけて見せるお茶目な面を持った方です。
 そんなツネゾウさんについて、職員の中でも在職歴が長いよしみさんが一言いいました。
「ツネゾウさんってナミエさんのタイプど真ん中なのよね……」
よしみさんの話によると、ナミエさんのタイプは物静かな男性とのこと。しかも、押しに弱そうなタイプだと彼女は怒涛の如くアプローチをしだすと言うのです。ツネゾウさんはその両方に見事なまでに合致する方でした。
 よしみさんは笑って続けます。
「ま、色恋があったって二人とも今は一人身だし、いいんじゃないの?」と。
 それから数日後、実際、ナミエさんの「彼氏ゲット大作戦」が始まったのでした……。
 ある日の朝食前、ナミエさんが突然ツネゾウさんの隣に座りたいと職員に申し出たのです。たまたまツネゾウさんの隣は空いており、ツネゾウさんも別に構わないと言うので、何の問題もなくその申し出は了承されました。
 しかし、それからのナミエさんは、まるで押しかけ女房で、前の日のおやつを食べずに取っておき、ちょっとパサパサになったバームクーヘンをツネゾウさんにあげる、朝、ツネゾウさんが使っているしびんをトイレにもって行き、尿を捨てようとして自分が尿まみれになってしまう……と毎日の申し送りに、何かしらのナミエさんの一方的な愛のアプローチが報告されておりました。
 もっとも、ツネゾウさんの方は、何となく困惑した感じでとても喜んでいる風ではなかったのですが……。
 ちなみにその頃のナミエさんの唇は毒々しいまでに真っ赤で、しかもちょっと紅がはみ出しておりました。
 そんな日々が一週間ほど続いた後のことです。
 アタシが入居者の洗濯物をたたんでいると何やら妖しい物が出てまいりました。
 ん? 何だこりゃ……ひょいっと持ち上げると、それは紛れもないベージュのブラジャー。普段ここではけっしてお目にかかることのできない、つまり入居者のものとは到底考えられないようなお色気の漂う代物でした。
 アタシはその日の出勤職員に、
「ちょっとアンタたち何考えてんのよ! ブラくらい自分の家で洗いなさいよ! っていうか誰よ? ババ趣味なこのブラの持ち主は?」
と問い詰めたほどです。
 ところが、職員の一人がこう指摘しました。
 「それ、ナミエさんのよ」
 は?? アタシの頭は大混乱。ナミエさんの? え? っていうか、だってナミエさんの乳って乳首がヘソと同じ位置よ……!
 どうやら事件は昨晩に起きたようでした。
 夜勤者が夜中、ツネゾウさんの部屋で物音がするので駆けつけたところ、ナミエさんがツネゾウさんのベッドに「夜這い」をかけようとしていたのです。それは、結局未遂に終ったのですが、その時ナミエさんは勝負ブラ(?)を身にまとっていたらしく、それが今朝洗濯され、アタシがたたんだというワケです。
 ちなみに、ナミエさんとツネゾウさんとの恋はどうにも実らず、再び彼女の口紅は引き出しの奥にしまわれたのでした。

____________.jpg● 呆けを考える

「呆けるというのは神が人に与えた最後のプレゼントである」
 割とよく聞く言葉だと思います。
 アタシもある出来事がきっかけでそう思うようになりました。

 タツエさんとテルコさん。この二人は大の仲良しだったのですが、二人とも重度の痴呆だったのでとても不思議な関係でした。
 朝、テルコさんがタツエさんのベッドに赴き、「初めまして……」と挨拶をし、お互いに自己紹介を始めます。それを終えると、いつの間にか意気投合しだして一緒に行動をするのが日課なのです。
 職員に「ちょっと尋ねたいんだけんどもメシはまだケ?」と訛り口調で訴えてくる時も一緒。二人とも体が小さいのでお昼寝をするベッドも一緒。消灯時間に職員がお互いのベッドに誘導するまでいつも一緒。と、一卵性双生児でもそんなにベッタリじゃないでしょうにという勢いで行動を共にするのです。
 ですが次の日になると二人ともすっかり記憶がなく、また再び「初めまして」から始まって……という、「大の仲良しだけども極めて刹那」という関係でした。
 時々、二人に対して他の入居者が諭すように、
「貴方たちは以前から知っている仲なんだよ」
と教えていたりしておりましたが、刹那に生きる二人には無論そんな言葉が届く筈もなく、彼女たちはまた日常の一部となった「あいさつ」から一日を始め、他の入居者はその二人を複雑な表情で見ながら過ごす、という日々が続いていたのです。
 しかしそんなある日タツエさんが入院してしまいました。
 タツエさんは夜中にトイレに行こうとして転倒してしまい、大腿骨を骨折してしまったのです。
 次の日、テルコさんはいつものようにタツエさんのベッドへと赴きますが、そこには誰も居ないがらんとしたベッドがあるだけ。テルコさんはしばらく首をかしげ、何やら考えている様子だったのですが、程無くして自分の部屋に戻って行きました。そして、三日程、毎朝同じ行動を続けておりましたが、いつの間にかテルさんは何事もなかったように日々を過ごすようになりました。
 そんなテルコさんの姿を見た職員の一人が、
「何だかすごく切ないね」
と言うと、それを聞いていた入居者のケンゾウさんはこう応えました。
「忘れてしまうことの切なさよりも、失ってしまう痛みの方が耐え難いことなんだよ」
 そのやり取りをアタシもそばで聞いていたのですが、その時のアタシにはケンゾウさんの言葉の意味がよくわかりませんでした。
「大の仲良しとの思い出を忘れてしまうことは『失うこと』と何が違うの?」
 アタシの頭の中にはそんな考えしかありませんでした。
 ある日、ケンゾウさんと雑談をする機会がありました。アタシは思いきってケンゾウさんにあの日の言葉の真意を聞いてみました。
 するとケンゾウさんはアタシが差し出したお茶を一服した後、ポツリポツリと奥さんの話をしてくれました。
 ケンゾウさんの奥さんは五〇代後半頃に医師から「筋萎縮性側索硬化症」(注8)という診断を下され、数年前に帰らぬ人となってしまったそうです。この病気は純粋に運動神経だけが侵されていく病気なので、ケンゾウさんの奥さんも例外ではなく、最後の最後まで、自身の身体機能の喪失をハッキリとした感覚の中で受け入れざるを得なかったのです。
 ケンゾウさんの話では晩年は毎日が地獄のような日々だったそうです。自分の身体を失っていく恐怖、それをどうすることも出来ない無力感……。奥さん同様、それを見守るしかないケンゾウさんにとってもやはりそれは地獄です。
 そんな中で、奥さんがケンゾウさんに言った言葉がありました。
「いっそすべてを忘れられたらどんなに楽か……失ってしまうことも死を恐れることも……」
ケンゾウさんからその話を聞いた時、ケンゾウさんが何を言いたかったのかハッキリと分かりました。
 奥さんに限らず、年を重ねていけばいろいろなものを失います。体力、友人、容姿……。それらの「失ったもの」を生々しいまま記憶し続けるとしたらそれはどんなにつらいことでしょうか。ならばいっそ、忘れてしまった方が……。
 その時アタシは「呆けるというのは神が人に与えた最後のプレゼントである」という言葉を深く理解したように思えました。
 ケンゾウさんの話を聞いた後日、結局、タツエさんはそのまま帰らぬ人となってしまいました。
 しかし、テルコさんはタツエさんというかけがえのない友人を失った痛みを感じることなく、平穏な日々を過ごしております。
 確かに大の仲良しの存在をあっけなく忘れてしまうというのは、すごく切ないことだとは思いますが、テルコさんにとって忘れてしまうのは良いことだったのかも知れないなと、アタシは思うようになりました。いまも元気に「メシはまだケ?」と聞いてくるテルコさんを見て、それを確信します。
 昨今、遺伝子情報の解読が完了したとか、アルツハイマー型痴呆の予防薬の開発など痴呆を取り巻く環境はめざましく進化しております。しかし、本当に痴呆は駆逐すべき敵なのでしょうか。アタシは現場でいろいろな「痴呆」と呼ばれる症状を見てきました。ところが、本人が痴呆で苦しむ姿というのはあまり記憶にありません。確かに周りの人が痴呆にさんざん苦しめられることは間違いありませんし、それが原因で「夫婦や家族がバラバラになってしまった」などというのは星の数ほどある話です。
 それでも、痴呆を抱えた人達を見ていると、これが本当に駆逐しなければいけない病気なのか、今のアタシには答えが出せません。
 痴呆に関するニュースなどを見るたびに、タツエさんが過ごしていたベッドの前をそのまま通り過ぎるテルコさんの姿が頭をよぎります。

 エピローグ││今生の別れ 

 アタシが別の施設への転職が決まり、同僚にその話をしていた時、入居者サワさんがそれを聞いておりました。
 アタシは入居者にははっきりと辞める日が決まってから話そうと思っていたのですが、サワさんは、
「どっかに行っちゃうの?」と聞いてきます。
 彼女は五分前の記憶もままならない重度の痴呆の方だったので、まあ、サワさんなら変な形で噂が広がったりはしないだろうと思い、転職する旨を伝えました。
 アタシがサワさんに事実を伝えている最中、サワさんは深刻そうな表情をしていたのですが、話が終った後のサワさんの第一声は、
「お兄ちゃん(アタシのこと!)家に帰っちゃうの?」
で表情もニコニコとしておりました。
 その時は、
「うん、そうなの」
と適当にお茶を濁して話は終りました。 
 翌日の夜勤でアタシが出勤すると、サワさんはいつになく元気がないように思えました。風邪でも引いたのかしら? と思いバイタルチェックなどしましたが、別に何の異常もありません。アタシは、まぁ気のせいかしらね。と思い、いつものように怒涛の夜勤をこなしていきました。
 どこの施設でもきっとこの忙しさは変わらないのよねぇ……などとちょっと感傷に浸りながら消灯時間を迎え、サワさんの部屋の電気を消しに行くと、彼女は泣いておりました。アタシは、サワさんは夜中になると不安になることが多いので、最初はそれで泣いているのだと思いました。けれども。
 サワさんは「一人ぼっちだ。寂しい」と繰り返していました。
とりあえずアタシは、
「そんなことないよ、みんな寝ているだけでちゃんと居るよ」
と声をかけました。
 するとサワさんは、
「嘘だ。お兄ちゃん、いなくなるんだろ」
と言いだします。
 アタシは内心驚きながら「どこにも行かないよ」
と答えました。
 しかしサワさんは首を横に振り、
「辞めちゃうんだろう。悲しいなぁ。今生の別れだ」
と呟いたのでした。
 ついさっきまでのサワさんは、いつもどうりに忘れ、刹那な時間を過ごしていました。しかし、この発言は……。
 痴呆症状がひどい人でも記憶がつながることがあります。主にそれはその人にとって大切な事柄であることが多いといいます。サワさんにとってアタシは「大切な事柄」に成り得たのでしょうか? もしそうなら、これから色々なもの(自身の体力や記憶、友人や家族)を失っていってしまうであろうサワさんに「今生の別れ」などと言わせてしまったことが、すごく切なく思えました。
 オカマにとっても、痴呆老女にとっても、別れは辛いものなのです。
(了)

 
*注1
 アタシの職場の夜勤は、夕方四時半に出勤し翌朝一〇時に退勤というシフトです。途中、二時間の仮眠時間が設定されていますが、夜勤はフロアに一人の職員で行なうので、入居者が全員完全に熟睡でもしていない限りとてもではないですが、恐ろしくて仮眠など取れません。
 かつて、同僚の一人が油断して仮眠を取ったところたったの三〇分の間に徘徊と悲鳴と便失禁の海が広がっていたそうです。そんなわけで長い夜を乗り切るために職員たちはいろいろなアイテムを用意します。アタシはよくカフェイン剤を服用して長い夜を乗り切っていました。
 翌朝の退勤時には目の周りにクマができ、クマならぬパンダのような様相を呈してしまうのですが、なりふりなどかまっていられません。
 ちなみにかつて、アタシが眠気覚ましのアイテムとして「ラッシュ」を持ち込んだところ、一時的にですが職場で大ブレイクし、職員達がラッシュを吸い吸い仕事をこなすという、ジャンキーの巣窟も顔負けな、世にも奇妙な現象が起こった事もありました……。
 ちなみに、後に看護婦にそれが知れ渡り、「身体に悪いから止めなさい!!」と怒られたのは言うまでもありません(笑)。
*注2
 最近の福祉業界の風潮などでは「お年寄りを叱りつける」ような言動は絶対避けるようになどと言われております。
 しかし、アタシを筆頭に職員たちは間違ったことには「違う」と言える環境が必要なのではないかと考えていました。
 それには職員が入居者に対して言うだけではなく、入居者がわたしたちに対して言う、と言うことも含まれます。
 世間では「お年寄りを大切に」などと言いながら、まるで腫れ物に触るような扱いをします。が、それは決して「敬う」というものではない筈です。間違いをはっきりと指摘をしないのは、相手を馬鹿にしているのと同じだと思います。
 確かに、お年寄りによっては優しく接さないと壊れてしまいそうな程もろい方もいらっしゃいますが、すべてに対して、フタをするかのような応対にはアタシは賛同致しかねます。
 なお、この個所以外にもきつい表現等出て来ますが、その後も入居者とアタシとの間には何の問題も発生せず、良好な関係が続いていることを明記致します。
*注3
 たぶん、そんな感じのモンだったと思います。(笑)ってか、ちゃんと知りたい人はかかり付けのお医者さんの所に行って、ねえねえ「プラセボ」って何ですかー?としつこく聞いてみましょう。
 きっとすっごいイヤな顔をしながら説明してくれると思います。
 って何で、「イヤな顔で」かと言うと、プラセボ効果というのは、プラセボという現象があるということを知らない人ほど効果があるものだからです。要するに、「信じる者は救われる」というヤツですね。
 世の中、疑ってばっかりだと救いが無くなってしまいますものね♪
*注4
「Ability of Daily Life 」の略。日本語に訳すと「日常生活動作」となります。
 日常生活を行なう上で必要となる能力、具体的には、衣服の着替えは自力で行なえるか? や、食事は箸使用かスプーン使用か? などの一日の生活の中でどうしても避けられない動作の機能の高さを測る際に使用する言葉です。
 基本的にADLが高い人だと職員が身体的な介助をする事が少なくなります。
*注5
「Quality of Life 」の略。日本語に訳すと「生命の質」「生活の質」「人生の質」などと訳されています。
 現場では、日常生活にどの程度張りのあるか? などを表わす時にQOLが高い/低いと使っています。
 ウメさんと大ゲンカした後のキミエさんはきっかけはともかく、QOLは向上した。と言えます。
 ってそれはホントにQOLの向上と言えるのか厚生労働省のお役人さんに聞いてみたい気もしますが……(笑)
*注6
 基本的に入居者の居室移動や処遇の大幅変更を行なう際は、入居者の御家族の方を交えて話を進めるのが基本になっています。
 しかしアタシが勤めるホームは割と御家族との結びつきが薄い方が多かったので、この時はまず本人達の承諾を取り付け、後に御家族に事後承諾を得る。というやり方になりました。
 もっとも、最近では以前よりも積極的に御家族が関わる事が増えて来たようですが。
 今後は更に御家族の理解・協力が必要になっていくと思いますし、そうなるべきだと思います。もし、この駄文を読んで「老人ホーム」に興味を持った方が居たとしたら大変嬉しいです。と言ってもどこの老人ホームもこの文の中にあるような世界なのか、書いているアタシにも疑問だったりいたしますが……(笑)
*注7
 もちろん正式名称ではありません。具体的に言うと時間についての認識や場所についての認識が時々狂うもしくは時々繋がるといった境界線あたりにいる状態の痴呆度を指して使います。
*注8
筋萎縮性側索硬化症(ALS) amyotrophic lateral sclerosis amyotrophy(筋萎縮)という言葉は、骨格筋を支配している脊髄前角細胞(下位運動ニューロン)に原因があって筋肉が萎縮してくるもの(神経原性筋萎縮)を言い、骨格筋自体の病気で筋肉が萎縮するもの(筋原性筋萎縮)は含みません。また、lateral sclerosis(側索硬化症)とは、脊髄の側索(錐体路=上位運動ニューロンの神経繊維)が変性し、グリア細胞の増殖のため硬化していることを示します。このように、筋萎縮性側索硬化症は下位運動ニューロンと上位運動ニューロンの両方を侵し、結果として筋肉の動きを低下させてくるものなのです。
 筋萎縮性側索硬化症では、純粋に運動神経のみが侵され、感覚神経や自律神経など、他の系統の神経は侵されません。ですって(笑)。この辺は完全に専門外になってしまうので他から引用させて頂きました。(笑)
 神経筋難病情報サービスより引用。
HPは

http://www.saigata-nh.go.jp/nanbyo/index.htm#startです。