2007-10-31

QJ 寄稿・トーマス・ソングさん「夢見た老後」

*初出/「クィア・ジャパン vol.5—夢見る老後!」(勁草書房/2001)
トーマス・ソングさんの執筆による自叙伝で、今回、新たに付記を寄せてくださいました。

■ アメリカ在住、ある東洋人ゲイの人生と老後

夢見た老後

トーマス・ソング

● Thomas Song(トーマス・ソング)
1929年韓国人を両親に東京で出生。大連で少年期(1934−46年)を過ごし、旧制高校一年の時(45年)日本敗戦。翌46年冬、ソ連軍占領下の大連を南朝鮮に脱出。48年夏単身渡米、高校、大学を卒業(53年)、徴兵され軍務服役後、米国に帰化(56年)、研究院修了。大学の司書と教員生活20数年後、引退。パートナーとの共同生活32年。在米生活53年。

出自と履歴

 気がついたら、とうの昔に古希をすぎていた。

 すでに在米五三年になる。僕は一八歳の時、東洋を棄てた。そして、アメリカに逃げた。「なぜか?」と君は問うかもしれない。僕の青春時代には、生まれついた国を棄てることは言語道断だと考えられたし、そんなことをしたら憎まれた。でも、僕は故郷を持たない、東洋社会からはみ出した影のない少年だった。とどのつまり幽霊だった。
 第二次大戦後、日本の偏狭な国家主義に替わって、今度は韓国に偏狭な民族主義が充満していた。そこでは、日本人なら誰であろうが憎まれた。
 僕は一九二九年、東京で生まれ、「日本人」として満州大連で育った。両親は韓国人だった。はじめは朝鮮名を日本読みにした名前、創氏改名で日本名、戦後は韓国名の韓国読みになり、アメリカに渡った後では英語名と、僕の人生では呼び名が四度変わった。
 当時、母国語を奪われて育った僕は韓国語が話せない。韓国人はハングル語を話さない人間を韓国人の屑だと見なす傾向がある。僕は日本人の間では`ョーセンジンセったし、韓国ではpンチョッパリi註・軽蔑語、半日本人、半獣という意味)だった。加えて、庶子差別が厳しい戦後韓国社会で僕は私生児だった。要するに、日本人の間ではよそ者で、韓国社会では半分日本人な上に妾腹の子だったというわけだ。 日本でも韓国でも、民族、階級、男女、嫡庶、身体障害の有無で人は差別される。僕はそれに無条件で服従するしかなかった。先に「棄てた」と記したが、実際はもともと「棄てる」ものなどなかった。東洋には、僕の未来なんてなかったのだ。
 渡った先のアメリカは、一九世紀から二〇世紀にかけて、僕と同じように故郷を棄てて、虱にたかられ飢えたまま、着の身着のままで欧州から大西洋を渡った人たちの子孫の国だった。僕は誇りに思う。祖国に唾をひっかけて、乞食同様に無一文、裸一貫で、この新天地に新しい人生を築いた祖父母たちを。それを語る仲間の一員であることを。僕は正真正銘のアメリカ市民だ。
 アメリカに渡ってから、高校と大学に学んだ。米国陸軍に徴兵されて三年間服務し、市民権をとった。徴兵満期で除隊、帰還兵恩典を使って大学院にもどった。その時点で、今度は自分の性的指向が同性に向かっていて、「不治の病」とされるゲイであることにやっと気がついた。それまで、僕は自分自身をゲイだと認めず、その事実に正直に立ち向かっていなかった。
 
 悩んだ。そしてすべてに関して無知だった。博士課程から回り道して、教養学部に潜り込み、一年間心理学を学んだ。「変態心理学」(註・当時の常用語)のセミナーで、心理的障害disorderと人格障害の違いが語られた。厄介な術語が氾濫する学問らしく、同性愛は「障害」なのか「疾病」なのかさっぱり理解できなかった。考えあぐねて、大学に付属するカウンセリング施設に通った。担当してくれたNeuropsychiatric social worker(神経精神医学ソーシャル・ワーカー)は善い人だったが、初老の既婚女性で、ゲイの生態などからっきし知らなかった。「結婚したら、そんなもんはすぐに治ってしまう」といった按配だった。

 一年後、僕はギリシャ系二世の女性に出会い、結婚した。彼女との間に二人の娘ができた。大学図書館の司書の仕事と、ある研究施設で情報データ処理に関するコンピューター・プロジェクトの仕事に携わり、数箇所の大学図書館を経て、最後に米国東海岸にある大学の図書館に転任した。そこで、副館長として四五名の白人部下を指導し、ほぼ二〇年教えて退職した。

結婚生活の破綻そして出会い

 大学図書館の副館長に赴任した頃には、結婚生活が破綻していた。そもそもゲイの僕は結婚すべき人間ではなかった。家内とは風俗習慣が異なり、結婚生活についても理解と期待が根本的に違った。労働者移民家庭に育ったギリシャ系二世の家内は、ギリシャやイタリア系によく見受けられる箱入り娘だった。美人だったし、優しい女性だった。東洋の女性は表向きの権利はないが、家庭内、ことに家計に関しては絶対的な権限がある。だから、移民しても東洋女性は強い。家内は全然違った。金銭が扱えなかった。家内にとって預金など男のすることで、女のすることではなかった。僕はある日愕然とした。毎度渡した筈の月給はすべて使われてしまい、家庭経済は危うくなっていた。
 だが、「好いた、好かれた」で僕が率先して家内にプロポーズしたのだ。家庭生活が暗礁に乗り上げたのは、すべて僕の責任であった。僕は僕なりに彼女を愛してもいた。加えて、結婚する前にゲイであることを打ち明けず、結果として騙してしまったことに僕は苛まれた。愛する娘二人を、ことに彼女たちの教育をどうしよう? 僕にとって、娘に大学教育を受けさせることが父親としての至上命題だった。妻はそんなことは考えもしなかった。
 一方、僕の性指向が変わる筈がなかった。そう、僕の生活は嘘で固めたものだった。不正直な生活にろくなことはない。
 チャックに巡りあったのはその当時だった。彼はアイルランド系の母親によって三歳年上の兄と共に育てられた。チャックは小学校の成績が最優等であったために、フィラデルフィアでも有名な聖ヨセフ高等学院に給費生として入学し、そこも最優等で卒業した。しかし、経済的に支援してくれる人が居なかったから、ボストン大学を一年で退学せざるをえなかった。退学後、電気職人だった彼の伯父の見習いとして僕の大学で働いていたのだが、ある時、職人長が僕に相談に来た。職人生活はチャックには不向きだし、それで一生を過ごさせるのはどう考えても惜しい、と職人長が言った。
 一九六九年一二月三日、チャックが面接に現われた。僕はその日を今でも覚えている。二六歳の青年だった。
 館長と相談して、図書館に助手として採用した。彼は高校生活を通じてラテン語とギリシャ語に秀でた教育を受けていたし、英文学の素養が抜群であったので、学歴が高校卒であれ、その能力は判然としていた。館長と僕はやがて彼に司書補の地位を与えた。まだ労使関係が平和で、経営側でそういうパターナリスチックな決定が出来るころだった(アメリカの大学図書館については詳述しないが、アメリカの大学司書は基本的に、図書館学修士と専攻部門の修士、必要によっては外国語の知識も要求される。僕の図書館では世界各国から二三ヶ国語の文献を蒐集した。二〇年前に、人件費を含めて全運営経費が一〇〇万ドル(当時の時価で三億円)だった。在学の学生が教養学部と大学院を合わせて二千人そこらで、教授の数が約三百人だった。図書館のスタッフも約四五人いた)。
 僕が引退して一〇年あまりになるが、現在、あの図書館の司書の仕事において、チャックの右に出るものはいないだろう。

偽りの生活の解決

 ゲイの親友である弁護士が、「お前のケースの場合、違った解決方法があるはずだ。弁護士を仲介にして法廷に離婚を持ち出して争うことは愚の骨頂だ。アメリカの離婚訴訟は喧嘩沙汰と悲劇が多い。お前自身で頭を使って考えろ」と忠告してくれた。打ち明けた別の親友が、運良く優秀なカウンセラーを紹介してくれた。三人でまる一年間同じカウンセラーに通った(日本の友人の話によると、日本ではカウンセラーはそこまで浸透していないようだ。勿論僕が日本社会の状況を把握しているわけではない)。
 協議の結果、別居生活の詳細を決めた。別れる前に、(1)彼女の再婚は彼女の権利であり自由であること、(2)再婚しても、所定額の援助は終身継続すること、(3)再婚しない場合は、終身必要な生活費全額を保証することを約束した。一年後、家内と友好的に別れた。今でも法的に離婚はしていないし、友好的な別居が続いている。次女は家内と暮らし、長女はしばらく僕と暮らしたあと、大学入学後、寄宿舎に入った。娘たちが成人してからは、僕に協力してくれて、大西洋に面した老人村に家を一軒共同で買って、家内を落ち着かせた。別居当初から、娘たちにはすべてを告げて隠さなかった。嘘は懲り懲りだったから。
 便利な村で、家屋のメインテナンス一切を村が担当してくれて、村の入口には守衛が居る。水泳プールが二つ、クラブハウスが二つ、無料ゴルフコースまで付属している。
 今となっては、何か深刻な問題が起きるたびに、家内は真っ先にチャックに電話を掛けてくる。定期的に僕たち三人は夕食を共にする。別居後、ずっと仕送りも続けて来た。クリスマスや感謝祭にはチャックを含め一家全員で過ごす。
 振り返ってみると、ゲイとノンケの両極に性的指向を対立させて描写するのは正確ではないだろう。人間のセクシュアリティはもともと両性指向で、黒白両極の間にスペクトラムとしてグレーゾーンが拡がるものだと思う。

共同生活と、さまざまな問題  

 別れる時に、第一の問題として直面したのが「金」だった。千ドルだけを残して、なけなしの貯金全部を彼女に渡した。もちろん、すぐに家内への仕送りも開始した。それからは、僕は家計簿を毎日記入しながら守銭奴になって金を貯めた。娘の大学入学がすでに二年後に差し迫っていた。
 チャックは首に重い枷(かせ)を嵌められて生きる僕をよく助けてくれた。ゲイの友人たちが世間知らずな僕たち二人に「銀行は運用する金を借りるところで、汗水流した金を預けるところではない」と教えてくれた。二人で株と証券市場について必死になって勉強した。毎月の貯金額、株や証券のmutual fund(投資信託基金)への投資額を相談しあった。僕の米国政府帰還兵恩典を利用して二人の名義で家を一軒買った。その恩典を利用すると、アメリカ政府保証下に、銀行が頭金なしに買う家を抵当にとり、最低利率で全額を貸してくれるのだ。入居するためには、closing costs事務処理費だけを払えばよかった。入居後、チャックは二階家の一階だけペンキを塗った。二階を塗り替えるためのペンキを買う金がなかったからだ。僕が隠居する前に、家を抵当に入れた銀行借金はすべて返済した。
 次の問題が僕たちの母親二人の世話だった。「結婚して姑の世話を好む人」はアメリカ女性の間にも少ない。ソウルの老母を心配する僕が家内と別れた遠因にこれがあった。
 チャックとの共同生活開始早々、彼の母、ノーラが泥酔し、吸っていた煙草から発火し、彼女の住宅の一階が焼けてしまった。隣家の男性の機転で、煙を吸ったノーラは人事不省のまま病院に担ぎ込まれた。生命はなんとかとりとめた。しかし火事の後始末に僕たちは二人で苦労した。
 病院が、もう生命の危険がないからノーラを早急に退院させて引き取れと要請してきた。彼女を世話人なしに一人で家に残すことは危険だった。出火を何時繰り返すかわからない。僕たちは働かなければならない。入所させて面倒を見てくれる老人ホームを捜してフィラデルフィア市内を駆け回った。しかしノーラがアルコール依存症と聞くや門が閉ざされた。最後に、ある修道院が経営する老人ホームの所長のシスターにすがりついた。そのシスターは男二人が母親の心配をしているのに同情して、受け入れてくれた。以後、彼女が亡くなるまで、二四年を通して土曜日訪問を欠いたことは数度しかなかった。
 最初の数年は地獄だった。彼女はチャックの性的指向を素直に受け止められなかった。ホームには子供や親類から棄てられた孤独な老人が多かった。彼等は僕たちが必ず毎土曜日見舞いに来るのに嫉妬して、僕たちが同性愛だと嫌味を言った。彼女は鬱症にかかり、訪問する僕たちに仏頂面(ぶっちょうづら)をして辛くあたることがよくあった。やがて、その状態はほぼ好転したが、訪問する毎度、ノーラがその日は躁なのか鬱なのか見当もつかなかった。鬱だったら我慢するほかなかった。
 ノーラがセンターに入った一〇年後、今度はソウルで婦人科医をしていた母が中風で倒れた。チャックは心配して、強引に母を米国に引き取るために、移民手続専門の弁護士を雇った。グリーンカードをとるのにまる一年かかった。一九八一年、二度、ソウルに飛び、嫌がる強情な母をフィラデルフィアに伴って来た。
 その頃になると、ノーラは老人ホームでの幸福な生活によって、アルコール依存症から回復して見違えるようになっていた。無条件で母との生活を支持してくれた。嫉妬がましいことは、一回も言わなかった。毎土曜日にホームから家に連れてくると母と仲良く座って一緒に食事した。
 母がアメリカに来てから五年たった。中風から大分回復したものの、八〇歳を過ぎてから急速に老衰が進行し、母は失禁するようになった。ある朝のことだ。僕が起きてみると、洗濯室の乾燥機が音をたてて回転していた。訝ってチャックに質問した。真夜中にチャックはいつもの通り母の寝室を点検した。ひどい悪臭が寝室に満ち、母が失禁して糞便にまみれていた。彼は洗面器にお湯を入れて持って来て、タオルで母の身体を丁寧に拭き清め、寝巻きを着替えさせ、寝台の敷布と枕カバーを全部取り替えた。臭い消しに香水を散布し、軽い睡眠剤を一粒母の口に入れて寝かせた。そして、汚れ物すべてを洗濯機で洗ってから、寝床に黙って戻った。僕を起こさなかった。翌朝起床後、彼は洗濯物を乾燥機に移したわけだ。
 最後の問題が、私の娘二人の教育だった。著名な私立大学の学費は、寄宿舎の費用や食費も入れると、現在の金額で年に三万ドルから四万ドル(四四〇万円)は見積もらなければならない。ある程度の補助を大学と政府から受けることができるが、それにしても、中産階級の僕には楽なことではなかった。家内への所定額の送金に加えて、毎年春、娘の授業料、寄宿舎費、食費等を用立てなければならなかった。チャックが献身的に、自己犠牲も厭わずに援助してくれたからこそ学費が捻出できた。とにかく僕らの暮らしは苦しかった。
 金曜日の夕方毎に、チャックは自分の大学の学生である長女の洗濯物を持ち帰っては洗いアイロンをかけた。そして毎月曜日に、寄宿舎の彼女の部屋を訪れては、小さな冷蔵庫に間食用食品を入れて来ることを四年間続けた。長女の場合は寄宿費を含む学費全額のほぼ六〇%、次女の場合は一〇〇%を支払うことになった。僕たちは昼食を職員食堂でとれなかったし、(事情を知る友人たちが頻繁に別荘に招待してくれたことを除いて)自費で避暑休暇に海辺や外国に遊びに行くことなど考えも出来なかった。娘たち二人が大学を無事に修了した春、僕たちは支払い義務からの解放を祝って、パキスタン製のボカラ赤絨毯を一枚買った。それが、共同生活最初の贅沢だった。

ストーンウォール

 チャックに逢った頃、ストーンウォール蜂起が起きた。ご存知の方が多いことだろうが、一応描写する。
 その頃、同性愛者を見るアメリカ社会の眼は厳しかった。迫害は日本に比べてずっと深刻で暴力的だった。日陰者で、変態で、汚らしいと見なされ、同性愛指向が発覚すると職場から解雇された。ゲイたちの集まる酒場はあったが、広告できるわけでもなく、ただ口コミによって知られているだけだった。ゲイであることそのものだけも犯罪視された。
 当時、ゲイバーは半非合法で、主に暗黒界の経営下にあった。賄賂が不十分だったり、途切れたり、あるいは選挙日が間近くなると、警察や検事局は、いかに自分たちが犯罪に対して厳格であるかを社会に誇示しようとした。ゲイバーの客は、組織がなく、抵抗することもなく、人々に蔑まれていたので、格好の生贄だった。「どうせ臆病だから」とたかをくくり、時として正当な理由もなしに急襲し、罪もない客たちを逮捕して、数珠繋ぎにして歩かせては写真をとった。要するにユスリだった。ブタ箱にぶち込み、名前と写真まで新聞に麗々しく掲載した上、最後には証拠不十分で釈放した。新聞が売れるから、新聞社さえも協力した。同情されないゲイたちはいつも泣き寝入りを強いられた。捕まった人たちは職を失い、自殺者までよく出た。この野蛮な風習は警察にとっては権力と投票者の偏見に訴える安価でイージーな広告だった。そんなことが日常茶飯事に行われていた。
 しかしアメリカ社会で、僕たちは人権意識に徐々にではあるが目覚め始めていた。NAACP(有色人民同盟)の黒人解放運動が僕たちに与えた影響は大きい。黒人投票登録運動時代、無数の白人青年たちが率先して運動に加わり、バスに乗ってアメリカ南部に行った。彼等の多数が実はゲイだったと言ってよい。ことにユダヤ系ゲイが多かった。妨害と暴行を受けながらもそういった連中が黒人市民の投票登録に携わったのを、読者は知っていると思う。当然、犠牲者の中にゲイも続出した。詳細な統計数字の証拠をあげることは僕にはできない。おそらくそんな数字は記録されてないだろう。でも、南部に行って負傷した仲間を僕は知っている。
 ストーンウォール事件は偶発ではなく、そういった動きの延長線上にあった。
 僕が副館長として赴任した一九六九年の六月のある夕方だった。日本だと新宿二丁目に相当する、ニューヨーク市内のグリニッチヴィレッジのストーンウォール酒場に警官が通例の予告なしファグ(ゲイの蔑称)逮捕にやってきた。その酒場は女装ゲイがたむろする、「品の悪い」飲み屋だった(勿論、僕は読んだり、後からの話を聞いたりしただけで、現場を見たわけではない。そして、また聞きだから、事件の正確な経緯や綿密な委細は保証できない)。
 警官の期待に反して、ゲイたちは神妙に手錠を嵌められるどころか、「消えうせろ! てめえらに用はねえ!」と、脱いだハイヒールでいきなり警官たちを殴りつけた。酒場の中がもみくちゃになり、小競り合いは外にまで飛火した。警官たちにとっては天と地がひっくり返るような驚愕だった。
 言うまでもないが、ニューヨーク市内の歩道は完全に舗装されている。石ころが転がっているわけではない。オカマたちはあちこちの駐車メーターを打ち壊して、あたり一杯にふんだんに散らばった銀貨を拾っては警官に投げつけ、追いまわした。優雅な革命騒動もあったものだ。警官にハイヒールで抵抗し、銀貨をなげつけて暴動を起こしたのは、世界で僕たちゲイだけだろう。そこに僕たちゲイ仲間の審美的創造性があり、潜在的な演出技能がある。続々とヴィレッジのゲイが集まって来て抵抗に参加した。事件はすでに警察による事態収拾と隠蔽の境界を越していた。ヴィレッジのゲイたちが主導権をにぎる勧善懲悪運動に変わってしまった。慌てふためいた警官たちが酒場の中に逃げ込んだ。怒号するオカマに怖じけ付いて、その酒場のドアの錠をおろし、警察本部に電話して救いを求めた。
 本部にしても、抵抗鎮圧に格好な宣伝用の錦の御旗はどこにも見当たらなかった。おざなりのウォラント(執行権限授与書)は持っていたらしいが、正当な逮捕理由さえ欠けていたと思う。彼等が直面したのは組織化した集団に突然「変態」した女装「オカマ」だった。騒ぎが静まるまで三日かかったそうだ。当時ホモフォービックだったニューヨーク・タイムスはこの事件を完全に黙殺した。売りだねだから、醜聞が大好きな他の新聞がめざとくとりあげて報道を続けた。
 ゲイが人間であり、人間としての権利を持つことをニューヨーク警察に教えたのがこのゲイ蜂起だった。殊更に侮蔑されていたトランスヴェスタイト(女装ゲイ)が僕たちの解放運動の口火を切ってくれた。後日、その風聞が伝わりだしたが、僕たちには大きな励ましであり、衝撃だった。
 そして、僕たち二人も彼等から学んだ。
 ゲイであることは、恥ではない。 We are what we are.
 真実を語り、矜持を持てば、嘘をつかなくても僕たちは暮らせる。
 こうして、僕たち二人の共同生活が始まった。そして三十余年が過ぎた。

老後

 「今までの人生で、少年期、青春、壮年期、老年期のどれが一番楽しかったか?」
とよく訊かれる。その度に、躊躇なく僕は答える。
 「老後の現在だ」と。
 老後までの歩みは、先に記した通り、三十数年前に別れた家内や、娘たち、僕たち二人の老親への責任など、ふってくる問題と金銭に関る義務の連続だった。老年期に入ってから、やっと生活が楽になった。本当の暇ができた。国内旅行や国外旅行をすることも可能になった。僕たちのことが中心の生活になった。とはいえ、まだチャックは大学に勤務しているが、僕はすでに年金暮らしだから贅沢はしたくてもできない。ただ、この一五年間、平和な生活を営むことができたことを天に感謝しなければならない。
 余談になるが、二人で一緒になった時からずっと、僕たちはいっしょに暮らしていることを隠さないし、僕たちのライフスタイルについて絶対に嘘をつかない。僕が引退するまで、毎日、出勤時には大学の正門から一緒に入り、帰宅時には正門からともに出た。職場で僕が外出先を告げるのを忘れると、僕の秘書はチャックに電話して訊くことがよくあった。大学構内で僕たち二人のことを知らない人はまず居なかった。ホモフォビアで、僕たちを眼の仇にしたり、毛嫌いする人もままいた。それは、仕方がないことだった。
 一方、そのようなホモフォビアは僕たちにとっては便利でもあった。友人をつくるための「ふるい」になったのだから。元来、憎しみの表現ほど、間違いなく人の本質を判断しやすい行為はあるまい。憎悪する人とは友達になれないし、なりたくもない。
 ノーラは一一年前に亡くなった。続いて僕の母も六年前に鬼籍に入った。ノーラの遺言にしたがって、墓地にあるチャック一家の墓に母親二人を合葬した(アメリカと日本の墓地制度は異なる。アメリカでは、一つの墓につきほぼ六柱が埋葬されるしきたりだ。火葬の場合、可能な合葬数はもっと増える。書き添えるが、チャックは父親を三歳の時に失った。僕の父はこの半世紀にただ一度だけアメリカに来てくれたが、二六年前に韓国でなくなってしまった)。
 僕たち二人は、少年時代からカソリック教徒として育った。寒さが肌を刺す冬の早朝に、司祭と共に祭壇の前に跪いてラテン語で祈る思い出が、僕たち二人には共通している。それが、僕たち二人の共同生活の基礎にもなっている。クリスマスと復活祭を中心にした教会の暦(こよみ)と毎日曜日のミサへの出席が、僕たちの共同生活にリズムを与え、四季を思い起こさせてくれる。
 僕たちには日課がある。僕は朝二時には起きて朝食をとり書斎に入り、コンピュータ相手に五時半まで書く(日本語のワープロ・ソフトは日本人の親友がプレゼントしてくれた。それを自分で独習した)。チャックは朝四時に起きて、通常コーヒーだけで朝食を済まし、お洒落なのでバスルームで鏡相手に約一時間近くごたごたする。いまでもまだ大学図書館で働いているから、毎朝五時半に僕と一緒に出勤する(自動車なしに育った彼は自動車運転ができない)。六時までに彼を大学に送り届けてから、僕は月水金にはこの町の病院に行って心臓回復プログラムで体操器械相手に一時間を過ごす。それから書斎に戻って、一日中コンピュータに向かって書く。時々、絵筆をとることもあるし、日中に二度ばかり近所を散歩する。チャックが午後二時半には電車で戻る。帰ってから、彼は通常庭の手入れと家中の「掃除」に熱中する。夕食は四時半。僕は七時に、彼は八時に就寝する。
 今の家は一五年前に買った。アメリカに来ても、僕が畳を恋しがっているのをチャックは知っていたから、畳を真似て真っ白な絨毯を家中に敷詰めてくれた。彼は毎日二度も電気掃除機をかける。おかげで一五年後になっても、絨毯がまだ新品に見える。
 チャックが留守の間の僕の仕事の一つは、皿洗い機から食器を取り出し、食器タンスにしまうことだ。彼は食器そのものをまず丹念に洗ってから皿洗い機に入れる。皿洗い機が洗うのではなくて、滅菌するわけだ。理解できるだろうが、皿洗い機を開けて覗いても、一体洗ったのか洗ってないのか僕には判断できない。それで、念のために皿洗い機の上に、DIRTYか CLEANと明記した札をチャックが残してある。
 毎木曜日の朝、僕は電車で都心にある教会にでかける。そこには、ホームレスの青年相手の社会奉仕部があって、修道女さんの部長と副部長さんの指揮下に、僕も給食、衣類分配などのボランティアをしているからだ(その修道女さんはカウンセラーの資格を持ち、食堂の客は全員カウンセリングを受けている)。僕は地下室にある給食食堂で料理したり、青年たちに給仕をしたりする。衣服倉庫室で寄付された膨大な衣類を選別することもある。食堂の給仕仲間にはフィラデルフィア検事局の検事さんたちも数名いる。前科のある青年が食卓に座り、検事さんがエプロンをかけて給仕しているのは、日本社会では珍しい光景かもしれない。
 毎年春には英国かアイルランドに、秋にはボストン東南のコッド岬に二人で行く。クリスマスにはチャックと二人で教会が都心地区で経営する小学校児童のクリスマス・パーテイの準備に奉仕するし、夏季にはその小学校の夏休み教育プログラムの助手を務める。
 五年前の春、僕はアメリカの教育奉仕団に参加してポーランドで英語を教えた。少年時代、ポーランド生まれのユダヤ人の親友を満州の大連で持っていたし、フィラデルフィアで付き合う親友の祖父母や親類がシレジアに住みアウシュヴィッツで殺されたので、ポーランドは訪れたかったのだ。それに、ポーランドで考案されたエスペラントを僕は子供の時から話して育った。マゾヴィア地方で英語を教えてから、ワルシャワ経由の急行でシレジアのカトヴィチェに赴き、ベンヂン、アウシュヴィッツとクラカフを歩き回って戻って来た。
 三年前の春は単身日本を訪れ、伊賀上野を本拠に一ヶ月を過ごして山形県、新潟県、軽井沢と巡歴、少年時代にお世話になった日本人の恩師三人のお墓参りをすませた。
 老年病の兆候はすでに僕たち二人に現れている。三年前に僕は予期しなかった心臓麻痺に倒れ危うく一命をとりとめた。進歩したアメリカ医学がなかったら、僕は現在生きていないだろう。チャックは六年前から「爪黄色化症」という奇妙な症状に悩まされている。爪が黄色くなり剥げ落ち、気管支の肥大と炎症が伴い、咳が出る。インヘイラーの使用で症状は一応治まっているが、老化症状で、原則としては不治だと主治医から言われた。僕の父母は長命だったが、彼の父や伯父たちが短命だったから、現在のほぼ平穏な健康状態はあと一〇年たてばどうなるか予測できない。
 とりあえず、現在の生活は安泰だ。チャックを大学に毎朝五時半過ぎに送り届けるたびに僕はそう思う。

疑似家族と友人たち

 これから老いが深まるにつれて、僕たちにとっては「友人関係」即ち疑似家族の重要さが増すだろう。僕は客好きで、チャックがしかめ面をするのも気にせず、友人たちを夕食に引っ張ってくる癖がある。が、老年期に入ってからは故意に交友範囲を縮小した。とても僕たち二人の体力が持たないからだ。それでも、定期的に夕食を共にする(ゲイやストレートの)中年、壮年のカップルが数組あるし、若い四〇代のシングルのゲイの友人たちもいる。
 三組のストレートの夫婦とは教会奉仕作業を通じてことさらに仲良くなった。そのうちの二組とも、自分たちの息子がゲイであることを知り、暗中模索をしていた人たちだった。
 毎日曜日に僕たちが礼拝に出席しては一緒に座り、一緒に祈るのを見て、「ははあと思った」とその夫婦一組、スーと夫のジョージが言った。息子は音楽大学を出た後、ワシントンのオーケストラの一員をしているのだそうだ。ジョージは退役空軍大佐、僕より少し若いが少年時代にやはり欧州のウクライナから難民としてアメリカに避難して来た。第二次大戦中の、少年時代の馬鹿話をしていると僕たちは共通の背景を持つせいか妙にうまが合う。父上がウクライナでは正統派教会の神父だったそうだ。スーはアイルランド系、杓子定規で保守的なアイルランドの天主教会で育ったという。さぞかし息子の性的指向のことに悩んだことだろうと思う。どっちみち種類の如何を問わず、差別の理不尽さは共通しているから。
 グレイシイとトーニイの一組とも、ある土曜日の教会の掃除奉仕で友人になった。一生懸命に窓ガラスを拭き、跪いては大理石の祭壇を雑巾でこすっているトーニイをみて、僕は彼が親友になると思った。息子はハリウッドの俳優だ。彼等夫婦は教会からあまり離れていない高級住宅区に住む。南フィラデルフィアのイタリア移民区で育った彼等は、「同性愛」に当時偏見に満ちた差別をうけていた「ハンセン病」と同じくらいの恐怖、嫌悪と憎悪を習い覚えて育った。息子の性的指向に絶望し、将来を心配していたが、僕たち二人に出逢ってからは、ある種の安心感を覚えたと話してくれた。今度トーニイはPFLAG(ゲイである子供を護る父母の会)という団体のフィラデルフィア市支部の支部長になった。
 この支部には困難に直面したゲイや両親が連絡できる電話番号があり、常時、相談相手になる親たちが当番として奉仕している。無理解な親を持つゲイが現れて助けを求めると、その子供が放置されて孤立しないように親代わりになって支援する。支部の常会では、子供たちに関する経験を話し合い、共に分析し、問題があれば対策を相談する。医師、心理学者等の専門家を招いて、イジメにまつわる話題について討論する。ゲイたちに関連するフィラデルフィア市内の(ことに警察の)政治的・社会的な動きを父母として監視し、必要あれば団体として行動する。最近までフィラデルフィア警察はホモフォービックだったし、ゲイに対して強圧的だったからだ。PFLAGの団員には専門職の親たちが多い。弁護士もいる。

直面する問題 

 老人病の兆候がすでに現れていると書いた。隠居するずっと前に、僕たちは晩年に入って自動車が運転できなくなることを予想して、郊外急行電車の停車場から七軒ばかり離れた平屋を買って移った(僕の母がまだ存命で、以前、二階への階段の昇り降りで脊髄に異常状態をもたらしたせいもある)。敷地は一六〇平方フィート。ほぼ七〇〇坪にはなると思う。アメリカには畳を使う単位がないから、描写が難しいが、ほぼ八畳の寝室が三つ、居間と応接間がほぼ二〇畳ずつ。入居後、老化を考えて台所を作り変えさせた。買った時にはすでに全室冷暖房が完備していた。抵当の負債も隠居前にすべて償還した。
 僕たちの家から停車場まで歩いて一分もかからないし、二〇分おきに急行電車がとまり、都心まで二七分で行ける。その家は低い丘の中腹にあり、敷地内の林に囲まれている。停車場に向かって路地を降り、更に一丁ばかり道路を下ると森があり、そこには小川が流れ、桜の林が点在している。芝生に覆われた帯状の公園がその流れに沿ってほぼ四キロばかり南北に展開する。あと一〇年ぐらいはここの生活を続けられると思う。
 母親たちを世話していた時期に、老人保護施設、老人病の種類、入院の手続き、経費等について種々のことを学んだ。なにしろ延べ二十数年間介助をして暮らしたのだから。母がアメリカに来て八年、彼女は一日もアメリカで働いたことがなく、社会保障年金をびた一文払わなかったのに、政府は彼女を郡立老人センターに無償で入院させてくれた。毎冬、アメリカ大統領から大量生産のカードだったにしろクリスマス賀状が届いた。社会保障はそれほど徹底していた。しかも州政府が月に三〇ドルの小遣いをくれたし、散髪代とマニキュア代まで払ってくれた(マニキュアなど考えたこともなかった母が赤い爪をしていたのを見て、噴き出したことを覚えている。彼女はとても幸福そうだった)。そのセンターはフィラデルフィアの西郊にあり、農業地帯に隣接する施設だ。森に囲まれた数万坪の敷地が気絶するくらい広い。
 しかし、ほぼ一五年後の今日になっては、看護センターをめぐる環境が大分違ってきた。当時のような懐の深い恩典は大分消えたようだ。私立看護センターは入院費が高価で、僕たちには高嶺の花になりつつある。八〇を過ぎて健康がまだ良好だったら、市内の老人用アパートに買い換えて移転することも考えている。正直な話、僕は現在すでにそうしたいが、チャックが渋っている。無理もない。彼は還暦にはまだ二年あるし、アパートに移るとこの広い庭が消えてなくなるのだ。
 僕は帰還兵士なので、いずれ国立帰還兵士看護センターに入る資格がある。八〇までまだ二〇年以上も余裕があるチャックの後見には、成人した娘二人が控えているし、その時期までには充分な年金と貯金を積み立てることが出来る筈だ。彼の場合は私立看護センターに入ることが考えられる。
 前の部分を読み返しながら気がついた。僕たちは深い森の中を彷徨う赤ん坊のように社会や老後について無知だった。しかし、アメリカ議会が制定した三つの社会保障恩典(1.社会保障年金、2.Veteran’s Benefits(帰還兵士恩典)と3.TIAA教職員年金)が知らぬ間に僕たちを保護してくれていた。
 日本でも、社会保障年金制度に類する国民年金があるらしいから、社会保障年金については詳述する必要がないだろう。
 帰還兵士恩典は、前述したごとく住宅購買上の抵当、大学学費、医薬費、帰還兵士のための国立養老院と病院等を保障している。社会保障年金、教職員積み立て年金、株及び証券市場への貯蓄投資、そして住宅抵当借金の完全返済が確定して、まがりなりにも、僕達ふたりの老後の経済的基礎を築きあげておくことができたわけだ。チャックの教職員年金積み立て額は、すでに僕が引退した時期の積み立て額の二倍近くになっている。勿論、僕たちの間には一四年の年齢差があり、チャックは六二歳の定年まであと約四年ある(ただし、彼の積み立てた年金は個人財産だから、彼は今日にも退職できる)。

結語

 このエッセイの書き出しに述べたごとく、僕は半世紀前に日本帝国主義にとって替わった韓国の極端な民族主義すなわち全体主義に絶望した。日本人だってピンからキリまである。ソウルで経験した多数の韓国人の日本人憎悪は、第二次大戦中に日本人多数が示した優越感と差別と侮蔑の完全な裏返しだった。
 僕は東洋を棄てた。もともと僕は(教会を含む)人間集団が好きではない。そして暴力が嫌いだ。でも、一九六九年六月のストーンウォール蜂起は僕たち二人に矜持の必要を覚らせ、それからほぼ一〇年後に起きたエイズ問題は、僕たちにコミュニティの力を認識させた。
 エイズの発生当初、政府機関はほとんど何もしてくれなかった。してくれる意志さえ見受けられなかった。実際、エイズ研究費さえ出し渋ったし、エイズが天罰だと言った宗教者さえあった。罹病者と死亡者が相次ぎ、週に一度は僕たちは葬式に出席する羽目になった。しばらく拱手傍観した僕たちは、連帯して自力でこの問題に対応するほかないことに目覚めた。マディソン・スクエア・ガーデンを埋めたゲイたちの大集会を、僕は昨日のように覚えている(当時最初に研究費を集めて、研究機関に手渡したのは僕たちゲイだった)。
 フィラデルフィアのゲイたちは医療機関、医薬情報を蒐集する図書館、外出できない病人に食事を運ぶ組織、少年センター、身の上相談所、身寄りや友人を失った孤独な罹病者相手の「ともだち」組織等を始めた。共同体の集会センターも設立したし、市内で発行されているゲイ新聞には無料配布と有料の二種がある。専門職機関だけでも、弁護士、教職員、警察官、ジャーナリスト、労働組合職員等のグループがある。フィラデルフィア・ゲイ・ニュースの二頁を約一三〇ものグループが埋めている。
 現在になって、僕たちが直面している問題は、同性同士のパートナーシップを法的に認めさせ、配偶者として法的権利を定義することだろう。僕自身にとっては宗教的な結婚なんてどうでも良い。僕たちの共同生活に宗教的な定義は必要がないのだ。法的な定義こそ問題だ。遺産、ことに家屋の相続権、亡くなった配偶者の年金の受益権、準近親としての配偶者の医療に関する発言権、配偶者としての保険加入、死後受益、税金納入上カップルとして取り扱われる資格、配偶者としての被共同埋葬の権利、実子にしろ養子にしろ育てた子供に対する親としての権利等、未だに解決しなければならない問題が残る。フィラデルフィアでは、ゲイ市民保護特別法案が数年前に、主に黒人議員たちの援助により市議会を通過した。
 究極的に女性、黒人、少数民族、身体障害者、貧困家庭、被差別階級等に対する差別の撤廃運動等との連帯なしに僕たちゲイの解放はありえない。僕たちゲイ解放運動の旗、虹の旗はその意味を象徴する。
 最後に、僕にとっては死ぬ時期が迫り始めている。僕と弟が二人ともアメリカに来て形成した家族はもう孫の代になった。孫たちには韓国、日本、アイルランド、ギリシャ、ドイツ系ユダヤ、ドイツ、ポーランド、英国の血液と伝統が混在している。祖国はアメリカだし、族籍が八つあるわけだ。金髪碧眼の孫たちは名前は韓国名であっても、すでに東洋系には見えない。
 古来から漢文で書かれた族譜を僕の父がアメリカに一九七〇年に来た時に渡してくれた。おそらく死語で書かれた恩津宋氏大同譜を読む孫は現れないだろう。死ぬ前に、現在の複雑な一家全員の(父系と母系を含む)八種族伝統全部を明記した記録を編纂して、子供たちに渡すつもりだ。

 僕には仲間の皆と一緒の夢がある。その夢は以下のコミュニティ・センターを造ることだ。

 ゲイ市民が暫定的にしろ主導権をにぎり、ゲイをサービスの対象に含む老人ホーム、病院施設、看護センター、老人村、文化センター、法律センター、劇場、古文書館、交響楽団、図書館、医療—法律—実業分野の専門職組合、ゲイ青少年と両親たちのための専門的に有能な相談所。ゲイ文化を強調する私立大学。財団法人。

 フィラデルフィアにはゲイ新聞はあるが、卓越したゲイ文化雑誌がない。TV放送局も未開拓な分野だ。ゲイ対象の職業紹介所や広告会社があっても良いし、ゲイ顧客を対象とする銀行、葬儀会社も欲しい。

 こういった開拓と計画の努力に先立つことは、財団基金の樹立と民主的にそれを管理する機能を備えることだろう。恐らく、これらは僕たちが生きている間に実現はあるまい。
 しかし、夢がある老後だからこそ、楽しいのだ。

参照
・Fone, Byrne R. S.A Road to Stonewall. Male homosexulaity and homophobia in English and American Literature, 1750-1969. (英国とアメリカ文学上の男子同性愛と対同性愛者憎悪、1760-1969)。New York, Twayne Publishers, 1994.
・Thompson, Mark. (Editor) The advocate history of the gay and Lesbian Movement.. New York, St. Martin’s Press, 1994.
以下PFLAG推奨の両親向き書籍。
・Fairchild, Betty. Nancy Howard. Now that you know.

・Griffin, Carolyn et al. Beyond acceptance.

・Miller, Ann. Parents matter.

・Clark, Don. The new loving someone gay.

・Rafkin, Louise. Different daughters.

・Aarons, Leroy. Prayers for Bobby: A mother’s coming to terms with the suicide of her gay son.

・Bernstein, A. Straight parents/Gay children.

■ 付記

2001年に「夢見た老後」を書いてから6年経った。暫く前に伏見憲明君が手紙を寄越してくれて、これを再公開したいと申された。

僕もそろそろ80歳の坂に近づいてきた。

今回このエッセイを読み返して、考え込んだ。あのエッセイを書いた時、僕は非常に甘すぎた、自己中心的に書いたものだと思う。僕は父親だった。娘が二人も居た。その責任を充分に考えつくしてからあのエッセイを書いたとは言えない。

僕たちの末娘ももう40歳に近づいている。彼女は僕と別れた家内によって育てられた。(それは家内の固執でもあったし、アメリカに住む僕にとっては不加抗でもあった。)勿論経済的には、僕は遠くから援助は続けた。だが、僕は育成に参加し彼女の父親として機能することができなかった。

2001年9月11日は僕たち米国市民にとっては忘れられない日だ。僕のあのエッセイが公開されたのは9月27日、あの事件の16日あとだった。あの日に生まれた子供はもう小学校に入る。少なくても2000人の子供たちが父親なしに過去6年間を過ごして育った。

この6年間に世界は更に変わった。僕自身が営むBlogを通じて僕は数多の日本人友人を日本のゲイ世界に得た。彼らはほとんどが既婚者だ。子持ちの人々が多い。そして、彼らの殆どが責任と暮らしているようだ。社会問題としてこれは重要だと思う。

僕に見識があるわけでもない。僕は平凡な一ゲイ市民に過ぎない。

あのエッセイの再公開に付記として書いた。

78歳になって僕は、それでも幸福に暮らしている。