2007-07-28

「私」から「私たち」から「私」へ

右を見左を見、周囲を気にしてゲイバーに入店した時代をおぼえているひとは、
もはや少なくなった。

ゲイ同士知り合ってもふつうに名字を名乗り合うことがなかった過去に、
現在リアリティを感じる者は多数ではないかもしれない。

でも、たかが十数年前、ぼくらは新宿御苑でゲイの集団で花見をするのに、
差別の恐怖と闘わなければならなかった。

ついこの間、90年代でさえ、同性愛者のイベントをするのに、
会場に警備員を置かなければならないこともあった。

友だちに性的少数者であると告げることすら許されなかったのは、
遠い昔のことではない。(いや、いまでもそれは続いている)

そうした状況が変化していったのは、
それを変えようと思ったひとたちが、少しずつの勇気を持ち寄ったからだった。

目の前の困難を「私」として乗り越えるだけでなく、
「私たち」として向き合う「政治」をはじめたからだ。

「私」の状況は「私」の力で実現したと思いがちだが、
それを背後で支えたものへの想像力を持たないひとは多い。

それどころか、「大きなお世話だ」と思っているひとも珍しくない。

悲しいことに、寝た子を起こさないでくれ、
という「苦情」も相変わらず耳にする。

けれど、そのひとたちの「自由」でさえ、勝手に出来上がったものではない。

もしそう思っているのだとすれば、それは傲慢だ。

時代は変えようとしないかぎり変わらない。

「私たち」の問題として解決すべき事柄は、「私たち」とともにある。

そのことと、「私」がどう生きるのか、という課題はつねに同時平行してある。

「私たち」を「政治」とするのなら、「私」は「文学」かもしれない。

そのふたつは不可分であり、生きるための両軸だ。

「私」をしっかり生きることも、「私たち」の課題と向き合うことも、
どちらも人生には必要なことだろう。

「私たち」としての「私」を考えることは、「私」をよりよく生きるために、
不可避な機会に相違ない。

捨て身で「私たち」であろうとしているそのひとに、花束を。

不器用に「私たち」であろうとしているそのひとに、万雷の拍手を。