2007-08-31

『欲望問題』一部公開

fushimiblog0000.jpg近く「『欲望問題』の感想への感想」という趣旨の対談をメルマガに掲載する予定なのですが(サイトではその一部を公開の予定)、その前に、パブもかねて本文を「ちょっとだけよ」公開することにしました。「何を書いている本なのかわかりにくい」という風評もあったので、本書でいちばん論争的な第二章のあたりをここでチラ見していただこう、と。

*ただし、強調点などが変換によってとんでしまったりしているので、正確な表記を知りたい方、どこかで引用しようという人は必ず単行本をあたってみてください。くれぐれもよろしくお願い申し上げます。

ポット出版の通信販売はこちらから→『欲望問題』

■『欲望問題』(P77~98)

● 二章から

「中性化」は
誤解なのか?

 昨今、「ジェンダーフリー」や性教育が、保守的な立場の人々と、フェミニストなどとの間で対立を生んでいます。この議論の中には、かつてぼくが性別というものをめぐって悩んだ問題がそのまま映し込まれているように見えます。もちろん、フェミニストが指摘する、「ジェンダーフリー批判派」は男女の役割分業を強化しようとする保守反動だ、単に過去へ回帰するのをよしとするバックラッシュだ、という見方が嘘だとは言いません。ぼくもそういう動きに対して少なからず警戒心を抱いています。が、「ジェンダーフリー」への疑問は、そうした一部の確信犯的な勢力ばかりでなく、もっと一般の人の漠然とした疑問を巻き込んでいるように感じるのは、ぼくだけでしょうか。

 「ジェンダーフリー批判派」は、「ジェンダーフリー」は男女の性差自体を否定し、人間を中性化しようとするものだ、とキャンペーンを張ったわけですが、それに対して、「ジェンダーフリー派」は、「それは誤解だ」として反論を展開しています。

 ジェンダーフリーをスローガンとして掲げている人は、ジェンダーレス(性差否定)を目指しているのではなく、性別によって何かしらの不当な制限や差別をされることなく、多様な個性を選択、発揮できる状態を目指している。(『バックラッシュ!』2006)

 ぼくは、この、性別による不当な差別なしに生きられる社会を目指す、という考え方にまったくもって賛成、共感するところであります。けれど、よく考えてみると、自分自身、「ジェンダーフリー」を性差否定とはっきり分けられません。そもそも性別という区分自体、言語(つまり文化)を通して成立しているジェンダー・カテゴリーです。染色体から性器、社会的な性別役割まで多様なグラデーションになっている性現象を、二分している分割線は「自然」ではなく社会、文化の力です。果たしてそういうジェンダーであるところの性別は、良いものか悪いものか。

 九〇年代半ばまでのぼくの仕事は、自明であるとされた性を相対化することに力点が置かれていました。今では一般的になった、性を多元的な軸の中で多様に捉えるモデルを最初に考案したのもぼくです。男/女とか同性愛/異性愛とか、揺るぎのない前提と思われていたありようを、いろんな角度から検証し、脱本質化していったわけです。それは自分を自由にする作業のように思われました。こう生きなければならない、とする性の規範から解かれ、生き方の幅が広がっていったことは間違いありません。相対化によって、視界は広がり、社会的構築されたものなら、変えることができることにもなります。だからそうした懐疑的な思考を経ることには意味があるでしょう。しかし結果たどり着いたのは、ジェンダーも含め、すべてのカテゴリーはそうした言語(社会的な力)を通じて認識されたものだということです。野口勝三氏が指摘することですが、すべてが構築されたものだとしたら、構築されたということからは善し悪しについての判定は出てこない。それをどう判断したらいいのか、それが問題になってきます。

 相対化を志向していた頃のぼくと同様、「ジェンダーフリー」のメッセージを受け取った人の少なからずが、そもそも性別を二分することが間違っていて、男女の性差をなくすことが正しい、と感じているのではないでしょうか。昨今の「ジェンダーフリー批判」を受けて、ジェンダー研究者や教育現場で働いている人たちが集まって催された〝「ジェンダー」概念を話し合うシンポジウム〟(2006)で、学校教育の現場で「ジェンダーフリー」を推進されてきたパネリストがこんなふうに話しています。

……私たちは混合名簿などを使いはじめるときに、そういう特性論に基づいた男女平等教育ではないということを言うためにジェンダーフリーという言葉を使った、という経過があります。
 しかしその後に認識が進み、性の二分法は間違っている、さまざまなジェンダーマイノリティの人もいるし、さまざまなグラデーションがあるということで、やはりこれまでの男女平等教育のように男女で分けることはよくないんじゃないか、ということで二つ目の意味としてジェンダーフリー教育を使うということになりました。それで、君/さんづけをやめるとか、色別をやめるとか、そういうようなこともやっぱりジェンダーフリーという考え方のなかで進んできたと思います。(『「ジェンダー」の危機を超える!』2006)

 この発言者は、やはり、多様な性の人々が存在するのだから、性別を二分すること自体が根本的に間違っている、と考えたのではないでしょうか。だから性別を二分する君/さんを使用しないようにするといった実践が行われたのだと思います。ぼくの知り合いの性教育をしている教員も、やはり、そのように考えて行動していました。「ジェンダーフリー批判派」に対して、「ジェンダーフリー」が性差否定だというのはまったくの誤解だ、と言うほどには、「ジェンダーフリー」と、性差否定や性別自体の抹消の間には単純に割り切れない難問があるように思います。

 「ジェンダーフリー批判派」の言う、「ジェンダーフリーは男女を中性化しようとするもの」という表現は、性別区分を抹消することを理想としている志向、を指しているのだと思います。そういう意味では、「ジェンダーフリー」やジェンダースタディーズの思考の中に、そうした理念が入り込んでいない、とするのは無理があるでしょう。それぞれが明確に意識しているかどうかはともかく、性別を二つに区分すること自体を否定的に捉える傾向はたしかにある。

 例えば、ぼくは以前、フェミニズムに洗礼を受けたような母親が読むある育児雑誌で、自分の息子をどのように育てたらいいのかわからない、という悩み相談に出くわしたことがあります。ジェンダーフリーということを考えると、子供に何を与え何を与えるべきではないのかは、たしかに考え込んでしまう事柄のように想像します。男の子として育てることと、男らしさにとらわれない子に育てることとはどこが違うのか。そもそも性の多様性を考えたとき、男という自己認知を与えること自体問題なのか。男らしさを強制しないためには、スカートをはかせるなど、服装からしてフェミニンなものもオプションとして与えておくべきなのか……そうした現場現場では混乱が生じるのは当然のことのように感じます。言説の空間では安直な概念と論理のゲームが許されても、現実の生活の中では深刻な心の不安を引き起こすことにもなりかねない。

 そして、ジェンダー関係の研究者で、理念として性差そして性別を解体すべしと考えている人、つまりジェンダーレスを志向している人も少なくないのではないでしょうか。例えば、東大で社会学やジェンダースタディーズを学んだ若手の研究者に渋谷知美氏がいます。彼女はぼくとの座談会の中でこのように語っています。

伏見 ……この女性というカテゴリーは、今後も必要だと思われますか?
渋谷 被差別的な状況が残っているあいだは、社会的な圧力と戦うために必要です。ただし、女性内部の差異に注意しながらね。
伏見 現状では必要であっても、理想的な状況を仮定するなら、女というくくりの消滅する、つまり男/女の区別がなくなる社会、ということですか?
渋谷 ええ、そういうことになるでしょうね。
伏見 なぜ?
渋谷 理論的帰結としてそうなるということです。フェミニズムは、基本的には、男女の非対称性を問題にしています。女が女であるゆえに不利益を被ることも問題なら、利益を被ることも問題。したがって、フェミにとっての理想的状況とは、性別にもとづく非対称性が限りなくゼロに近づく状況ですが、非対称性がゼロに近づけば近づくほど、男/女の記号はだんだん意味を失っていきます。正確に言えば、男/女の区別がなくなる状況が理想的なのではなく、理想的状況を追求していった結果、いやおうなく男/女の区別に意味がなくなる、ということです。「快楽記号」として個々人がそれぞれの好みに応じて男/女の記号を選びとることができるようになるのは、一度記号を解体したあとです。(『クィア・ジャパン』VOL・4、2001)

 この手の議論においてはみんな、抽象的な言い回しでごまかす傾向があるような印象を受けますが、渋谷氏ははっきりと男女の非対称性が問題であり、それを限りなくゼロに近づけるのが目標だと断言しています。そして、多様なジェンダー(性役割)を選び取るのは、「解体の後」である、と。

 ジェンダースタディーズの著名な男性論者である加藤秀一氏も、このように発言しています。

伏見 加藤さんの場合、ご自身のヘテロセクシュアル性が揺らぐことはないという確信があるからこそ、文化や社会制度で性差を二元的に設定しておく必要はない、という発想が生まれるのでしょうか?
加藤 ほうっておいても男/女に分かれるのならそれでいい、無理になくす必要はないとは思いますが、これまでの社会はべつに性差というものを自由にしてきたわけではなくて、むしろ力ずくで二元的な性差をつくりあげてきたとしか思えない。それならいっぺん破壊してみましょうよ、という感じですね。そのあとに何がでてくるのかわからない、結果的に男女の見分けがつかないような世界になるのかもしれないけど、それでもかまわないと。みんなが「自分らしく」生きながら何世代かを経て、なんとなく男女の枠組が残っていたとしたら、それはまあしゃあない(笑)、って感じでしょうか。
伏見 ぼくの感覚からいうと、ジェンダーというのは社会が無理やり構築した抑圧的な制度という一面もあれば、同時に人々が楽しんだり納得してつくってきた文化という、両面があると思う。だから、その内実を検討して、悪いところは変えていきましょうといったことがあるけれども、全面的な性差の解体が人々を幸せにするとは思わない。
加藤 あえてひとつのビジョンをあげろといわれたら、性差がいったん全部解体されて、人類みんなが中性もしくは無性になった世界をみてみたい、という願望はあるかも。(『クィア・ジャパン』VOL・4、2001)

 加藤氏はここでは、それを個人的な理想として語っているのでしょうが、性別を二元的に設定している状況が解体されるのを肯定的に見ていることは、否定できないでしょう。

 八〇年代フェミニズムの二大スターであった上野千鶴子氏と小倉千加子氏も、比較的新しい対談でこう述べています。

上野 小倉さんは「女性性なんかいらない」と言ってるんですよ。刷りこみをなくせばいいと言ってるんです。女性性とか男性性とか言う必要はないということですよね。
小倉 そう、ジェンダーなんかいらない。
上野 最終的にはそうなんですけれどもね。
 …〈中略〉…
小倉 それならセクシュアリティだって自己定義すればいいやないですか。具体的には、とりあえずいま女に起こってることは、そのうち男にも必ず起こることだから。男の中の格差が拡大して、女なみに転落する男が増えてきて、ジェンダーだけでは問題が語れなくなってくると思います。
上野 それこそ女性性、男性性というような、ジェンダー・カテゴリーの解体ではないのですか。
小倉 結果的にはね。ジェンダー・カテゴリーの解体が起こります。意図的にそれを起こすことも可能なんですよ。子育ての方法によっては可能だと思うんです。
上野 歴史的に見てもそれは可能ですよ。
小倉 それをしていけばいい。
上野 ジェンダー・カテゴリーが解体された社会というのが、フェミニズムがめざす社会の青写真だとしても、私にはそれがどういうものか、イメージすることができません。みんなが中性的になるという社会ですか、としばしば聞かれるけれど。
小倉 それはいちばん大きな誤解ですね。よく言われる誤解。そうではなくてジェンダーはあってもいい、演じてもいい。むしろ「男制」「女制」は無形文化財として貴重な財産です。ただジェンダーという制度の中で、型通りの「恋愛」という安易で陳腐な関係を強制されるのは、あんまり見たくない。ジェンダーは行動の型、感情の型です。まずは、型から人間を解き放ったらいいんです。
上野 それも不徹底ですね。ジェンダー・カテゴリーそのものがなくなるんじゃないとね。ジェンダー・カテゴリーの定義というと、二つしかないということになっていますが。
 …〈中略〉…
上野 ……セクシュアリティに性別は無関係になり得るかと問われたら、想像は難しいけれど、あり得るんじゃないかと、今なら答えます。ジェンダー・カテゴリー抜きでも性的であることは可能である、と。
小倉 セクシュアリティはものすごくアナーキーなもんです。想像してみればわかるやないですか。(『ザ・フェミニズム』2002)

 ちょっとわかりにくのですが、ここでも二人の会話はやはり性の非対称性はなくしたほうがいいし、それなしでも可能性としてセクシュアリティはありえるんだから、いいじゃないか、という方向で話が展開されています。電信柱を見ても欲情する人はいるわけですからジェンダー・カテゴリーがなくてもセクシュアリティはあって不思議ではない(笑い)。しかしそれは可能性としてはあるかもしれませんが、だからといって、それをもって既存の性愛を全否定し、ジェンダーによらないセクシュアリティのほうがいいとするのならば、それは多くの人々にとってどうでしょう。ただ彼女たちにしたら、差別をなくすことがすべてにおいてのプライオリティで、それゆえこうした結論になるのかもしれません。

 もっと理論的な議論の中でも、性の非対称性はそれ自体否定されています。ジュディス・バトラーの翻訳者として名高い理論家の竹村和子氏と、上野千鶴子氏の対談を見てみましょう。

上野 ……私流に言い換えると、ジェンダーというのが、あくまで権力関係の用語だということなんですね。「ジェンダー」という概念が拡がった時、フェミニズムというとイズムだから、イズムは避けてジェンダーにすると価値中立的に聞こえてこっちのほうが流通しやすいという妙な誤解がありました。ところが、デルフィ、スコット、バトラーというふうに決定的なステップを踏んでいったポスト構造主義のジェンダー論の中で、ジェンダーが項ではなくて差異である、しかもその差異は、非対称な権力関係であるということが明晰に示されていきます。
竹村 そうなるとこの場合、厳密に言えば「差異」(differences)という言葉は適切ではありませんね。差異はむしろわたしたちが認め、追求すべきもので、差異を権力によって階層化する「差別」(discrimination)が問題なのです。
…〈中略〉…
竹村 ……しかしそのような性の非対称性、性の社会的不平等がなぜ起こるのかということを突き詰めないかぎり、性の非対称性は解消しても、心的偏見は残ります。いやおそらく解消されないでしょう。つまり、社会的な性の非対称性は、より個人的と言われている領域─寝室のなか、ベッドのなか─の性配置と同延上をなすものなのです。エロスの行為、エロスの表現、エロスの幻想のなかに、権力がどのように介入しているかを考えていかないかぎり、フェミニズムは中途半端に終わりますし、いつの間にか個人的な領域は侵すことができない聖域となって権力に回収され、フェミニズムは衰退していくでしょう。
…〈中略〉…
竹村 ……セクシュアリティはジェンダーの非対称性に汚染されています。……歴史的カテゴリーであるジェンダー区分の「偶発性」を隠蔽しようとして、「基盤的な事実」としての男女の身体区分を捏造するときに語られる、エロスにまつわるフィクションがセクシュアリティです。セクシュアリティというのは、あくまでそのパラダイムのなかで機能する概念であって、確実に抑圧的なものだと思います。それよりも抑圧が少ないかたち、あるいは違うかたちのエロスの様態が登場してくるのは事実だと思います。(『ラディカルに語れば…』2001)

 ここでいうジェンダーは、ある項を指すのではなく、権力関係を考察する分析概念だということなのかもしれません。が、ぼくのような素人が読むかぎり、そこにも、性の非対称性は解消すべきものであり、性愛という私的領域もそのものが問い直されるものとして考えられているように読めてしまいます。ジェンダーによって成り立っている性愛は「汚染」されていて、そもそも間違ったものである、と。

 これまで見てきただけでも、渋谷知美、加藤秀一、上野千鶴子、小倉千加子、竹村和子氏といった、世間的に見れば現在のフェミニズム、ジェンダースタディーズを代表するような論者の方々が、理想状態として、性の非対称性、性差ひいては性別解体をも理念的に追求しているといった印象は拭えません。もしかしたら、ぼくの誤読かもしれませんが、少なくともぼくのような学識のない人間や、一般の人がそうと受け取っても無理はないでしょう。「ジェンダーフリー批判派」の疑念もその辺りにあるのだと思います。これらをもって、ジェンダーフリーやフェミニズムやジェンダースタディーズが、性を中性化しようとしている、とすることはできないでしょうが、「性別によって何かしらの不当な制限や差別をされることなく、多様な個性を選択、発揮できる状態を目指している」というような主張と、これらの人々の理論の間がどのようにつながっているのかが、どうにもわかりにくい。

保守派vs
ジェンダーフリー

 少し前、東京・国分寺市が都の委託事業である「人権講座」で上野千鶴子氏を講師に迎えようとしたところ、彼女がジェンダーフリーという言葉を使用する恐れがあるからいけない、と認められなかった件がありました。上野氏は都などに対して、そもそも自分はジェンダーフリーという言葉を使用しないのにそれを理由に講演者の資格を与えられないのはどういうことか、と抗議したそうです。それは当然のことで、事実にもとらない理由で一方的にそれを拒絶したのなら、大問題です。ジェンダーフリーに対する批判の中で起こった行政サイドの過剰反応なのでしょうが、これが本当だとすると、都側のやり方に問題があるのは言うまでもありません。ただ、ここで取り上げたいのは、その事実関係ではなくて、これに関して交わされている議論の内容です。この件に際して、上野氏を援護しようとジェンダー研究者などが抗議の声明を発表しました。以下、その文面です。

ジェンダーは、もっとも簡潔に「性別に関わる差別と権力関係」と定義することができる。したがって「ジェンダー・フリー」という観念は、「性別に関わる差別と権力関係」による、「社会的、身体的、精神的束縛から自由になること」という意味に理解される。

したがって、それは「女らしさ」や「男らしさ」という個人の性格や人格にまで介入するものではない。まして、喧伝されているように、「男らしさ」や「女らしさ」を「否定」し、人間を「中性化」するものでは断じてない。人格は個人の権利であり、人間にとっての自由そのものである。そしてまさにそのゆえに、「女らしさ」や「男らしさ」は、外から押付けられてはならないものである。

しかしながら、これまで慣習的な性差別が「男らしさ」「女らしさ」の名のもとに行われてきたことも事実である。ジェンダー理論は、まさしく、そうした自然らしさのかげに隠れた権力関係のメカニズムを明らかにし、外から押し付けられた規範から、すべての人を解放することをめざすものである。

「すべての人間が、差別されず、平等に、自分らしく生きること」に異議を唱える者はいないだろう。ジェンダー理論はそれを実現することを目指す。その目的を共有できるのであれば、目的を達成するためにはどうすべきかについて、社会のみなが、行政をもふくめて自由に論議し、理解を深めあうべきである。──呼びかけ人 若桑みどり〈イメージ&ジェンダー研究会・ジェンダー史学会・美術史学会・歴史学研究会〉/米田佐代子〈総合女性史研究会〉/井上輝子〈和光大学・日本女性学会〉/細谷実〈倫理学会・ジェンダー史学会・関東学院大学〉/加藤秀一〈明治学院大学〉(「上野千鶴子東大教授の国分寺市「人権に関する講座」講師の拒否について、これを「言論・思想・学問の自由」への重大な侵害として抗議する」2006年1月)

 情けないことですが、ぼくには学者のみなさんが書かれたこの文章の論理構成がよくわかりません。引用した文章の一段落目と二段落目の論理的なつながりがまったく理解できないのです。二段落と三段落との接続もはっきりしません。ぼくはこれまでジェンダーというのは社会的な性役割だけでなく、個人に内面化された規範に関わる概念だと考えていたし、それを問題にしてきたのがフェミニズムでしょう。それが、《したがって、それは「女らしさ」や「男らしさ」という個人の性格や人格にまで介入するものではない》という主張になるのは、どうもキツネにつままれたような気がしてきます。

 前に引用した加藤秀一氏も声明に参加しているのですが、もはやぼくの日本語力では、先に加藤氏が言っていたことと、ここに書かれている内容を並べて、それをどのように理解していいのやらわからない。「介入」という言葉の意味にもよると思うのですが、前の発言では、あきらかに性の非対称性自体を解体することをよしとしているように思えるわけです。

 そもそも第二波フェミニズムは、「個人的なものは政治的なもの」という考え方によって、私的領域こそを問題視した。それは先の件の当事者である上野千鶴子氏が再三発言しているものです。ということは、フェミニズムが、内面に「介入」したり、「中性化」を目指すものではない、とは到底言い難い。「介入」ではなく「問題にしている」のだ、ということかもしれませんが、そこに性の非対称性を解消する方向性が含意されていないとは思えません。フェミニズムやジェンダースタディーズのすべてがそうした理路になっているとはかぎらないのですが、上野氏のような考え方と「ジェンダーフリー」のどこが違うのかが見えてこないのです。こうした疑問は、いまのジェンダー研究に対して誰もがもって当然だと思います。

 現象学の立場からジェンダー問題も考察する野口勝三氏は、何が差別なのかといった定義や、どんな原則からそれを解消すべき事柄だとするのかが明確にされないから、「ジェンダーフリー」は誤解や問題を生じていると批判しています。

 性別に基づく不合理な扱いを受けるということが性差別として定義され、解消されるべき目標となるわけですが、不合理な扱いがどういう原則によって定義されるのか、ということがはっきりしていないと、絶対平等の理念に流されてしまう。(『現代性教育研究月報』2004年4月号)

 先の上野千鶴子氏擁護の声明に対して保守的な新聞と言われている「世界日報」はこういう記事を一面トップに掲げました。

 ……今回の抗議文が示すジェンダーは、「それ自体に差別や支配被支配の関係を含む概念」という意味合いがある。到底中立的概念とは言えないものだ。ジェンダーフリーは、「束縛から自由」にするものであり、歓迎すべき用語となる。
 これは「ジェンダーフリーという用語は使わないようにする」という政府や都の方針と真っ向から対立する考え方だ。
 この極端なジェンダー解釈は、フランスの社会学者で唯物論フェミニスト、クリスティーヌ・デルフィの説を基にしていると言ってよい。
 上野氏も著書『差異の政治学』でデルフィのジェンダー論を、階層性、権力関係を組み込んだ、などと解説し称賛している。
 デルフィの学説は「セックスがジェンダーを規定するどころか、ジェンダーがセックスに先行する」(同著)などという一般国民には理解不能な学説であり、デルフィ本人は、仮説にすぎない、と述べているもの。(「世界日報」2006・1・31)

 この「世界日報」の上野氏に関する理解は、そんなに間違ったものではないでしょう。上野氏自身はなかなかくせもので、自分では「ジェンダーフリー批判派」が攻撃しているジェンダー、ジェンダーフリーをめぐる思想そのものの是非をめぐる議論には乗っかっていません。この件に関しては、あくまでも事実関係と、思想統制といった観点で応戦しています。それはそれでけっこうなのですが、やはり、「ジェンダーフリー」をめぐる議論の本質は、性の非対称性自体をいかに考えるのか、性差、性別を解体することが目標なのか、あるいは、何をどこまで平準化すべきなのか、といったところにあると思います。しかし現実を生きる人間が、そのことをどう考え、実践したらよいのかの指針が、どうにも見えてこない。表立って目立つ「ジェンダーフリー批判派」の報道などの背後で、そのような疑問やら不満がそれなりに存在しているのではないでしょうか。

 上野氏自身の講演云々の件はともかく、こういう議論のチャンスだからこそ、自らの信じるところをはっきりと主張して論議を深めたほうがいいと思います。渋谷知美氏のように明確に、性差解体がその思想の論理的帰結である、と発言して、正面から議論をするのも一つのやり方です。

 ぼくには、「ジェンダーフリー」をめぐる軋轢を、保守対革新、弱者対体制といったありがちな対立図式の中に落とし込んでしまうのは、問題を本質からそらしてしまうことにしかならないと思います。ここでは、左右の対立だけではなく、理論というものと、生活感覚というものが摩擦を起こしているように見えるからです。学問の世界の中で抽象的に議論している分には、わかったようなわからない話しだけですみますが、それが現実の生活の場で適用されるときに、ぼくらが生きているナマの感覚と、理論との間に大きな齟齬が生じる。愚直にそれを実践した場合、とまどわざるをえない場面は容易に想像できます。

 小倉千加子氏の言うように、子育てにおいて子供を既存の男/女ではないようにする試みだって、理論のほうからは当然要請されることでしょう。しかしそうした養育をなされた子供ははたして幸せになるのか。もちろん親にとってもそれは幸福なことなのか。社会は混乱しないのか。あるいは、ぼくが悩んだように差別をなくすために性愛から降りることだって、理論的に強要されておかしくない。そういう生き方をぼくらは是とするのか……。こういうふうに、「ジェンダーフリー」の考え方に対してどうもすっきりしない感覚が、批判を消極的に後押ししている世論にもあるのではないでしょうか。