加藤 司◎柔らかい文体の中に仕掛けられた毒針が二十一歳の僕の胸をじくりと刺す
二十一の私は、同性愛者による社会運動が活発だった九十年代を知らない。
ゲイであると自覚した頃には、周囲の抑圧から苦しんでいる姿をそう見ることはなかった。例え過去の文献に触れ、当時を生きてきた人から話を聞いても、どこか遠い国のお伽噺としか思えずにいた。
己の性的指向のために大した実害を被った訳ではないので、時々胸に小さな疼きを覚えるようなことがあっても、そ知らぬ顔をしてやり過ごしてきた。社会人として働き、週に何度かジムで汗を流し、数少ない友人と他愛の無い話で花を咲かせ、時々誰かとセックスをして生きている。コミュニティへ属すことはせず、せいぜいインターネットを使って華やかなイベントを楽しむ彼らを傍観するだけだ。社会へは関心を持たずに、こちらから背を向けていた。
「同性愛者が生きやすい世の中になった」と言われてもう何年経過したのだろうか。世間での印象はそこそこ良くなり、露骨に迫害されることは少なくなった。だが、レズビアン&ゲイパレードやHIV感染、同姓婚制度を巡っての議論等に対しての課題が残っているのに、どこか宙に浮いたままである。
幾ら活動家やボランティアの人々が頑張っても、何故かその声が遠くから発せられているようで、ただ聞き流していた。同じゲイとは言え、彼らの活動への興味はあっても参加しようとは全く考えていなかった。時間を犠牲にしてまで協力するための理由が存在しない。面倒だと思ったことさえある。それに、どこか敷居が高くて、内輪だけで固まっていそうだというイメージが付きまとっていた。今思えばこれだって一つの偏見である。私は別のコミュニティを直接的ではないにせよ、差別していたと非難されても当然だ。
全ての問題を他人にたらい回しして、自分だけ楽をするのも一つの選択肢であり、とても魅力的だ。ただ、そうやって何か出来るかもしれないのに、見てみぬ振りをするのにはもう飽きた。そう言っている割には、社会を傍観しているだけで何の行動も起こそうとしない。そんなジレンマを抱えて、時々息苦しく思いながら生きている。
伏見氏はそんな鬱屈を丁寧に、かつ論理的な文章で導いてくれた。
お互いの欲望を満たすためにはどうすればいいか模索するためにまずは話し合おう、ということだけである。相手を知らないから、「何となく」という感情で判断し、場合によってはそれが悪い方向へ捻じ曲がってしまう。全てを読み終えた頃にはそんな間違ったイメージという概念が取り払われ、憑き物が落ちたように身体が軽くなっていた。
この著作は、冒頭で少数派の人間だって他者を差別するというという“現実”を突きつけた上で、この社会を“理想”へ近づける可能性を提示している。執筆するには相当な気力を注いだのだろうと想像させられる。不勉強な私でも彼が構築した論理を順に追えば、理解するのは難しくないように練られているが、柔らかい文体の中に仕掛けられた毒針が、胸に突き刺さってじくりと痛むことすらあった。時として名の知れた論者を批判し、“寝た子を起こすな”と反発されかねない発言も含まれている。彼は社会に対して誠実に向き合っているのか、それとも根っからのマゾヒストなのか判断に困る。
「命がけで書いたから、命がけで読んでほしい」という彼の言葉に応えられたと言えば嘘になるが、多少なりとも真面目に読んでみたつもりである。この本によって、今まで無視していた“社会”に対して、時間が掛かったとしても理解しようと考えさせてくれたからだ。
新たな選択肢を掲示した伏見氏の動向をこれからも追って行きたい。