掛谷英紀◎「後ろめたさ」の倫理
この本を読んで、真っ先に思い浮かべたのは、3月18日の朝鮮日報で紹介されていたレイモン・アロンの次の言葉である。「正直で頭の良い人は左派にはなれない。」
著者の誠実な人柄は、文章の端々から滲み出る思いやりや労わりの情から十分過ぎるほど伝わる。また、著者の頭の良さは、これ程難しい問題を易しい言葉で表現できることからも疑いようがない。難しいことを難しく語れる人は、大学には私も含め余るほどいるが、それは頭のよさが足りないことの証でもある。正直で頭の良い著者は、フェミニズムという左派思想といずれ決別する運命にあったというのは言い過ぎだろうか。
「左派」を本書に即して定義すれば、「われわれマイノリティは常に正しい」というイデオローグである。しかし、他者を尊重する心を持つ者が「われわれ」の外とのコミュニケーションを続けていけば、そのイデオロギーが間違いであることに気づくのは時間の問題である。
本書の指摘は、既に多くの論者によって指摘されてきたことの焼き直しに過ぎないとの批判はあるだろう。それでも、私がこの書に大きな価値を見出すのは、「頭の良くない」左派の人たちが、本書を読むことで「頭を良くする」ことが可能と思われるからである。実際、極端な左派と位置づけられるような人々からも、この書には好意的な書評が寄せられている。同じ問題を指摘してきた従前の書には、そのような力は全くなかった。
では、この書で与えられた指針によって、マジョリティとマイノリティの和解は常に可能といえるだろうか。残念ながら、その答えは「ノー」だろう。なぜなら、世の中には「正直でなく頭の良い」左派も存在するからである。彼らは、「われわれマイノリティは常に正しい」というテーゼが間違いであることは十分理解している。しかし、そのテーゼを看板に、自分に都合の良い結果を引き出せる限り、彼らは嘘を言い続ける。そのようなソシオパス(良心をもたない人)たちとの和解はまず不可能だろう。
それでも、絶望する必要はない。われわれは民主主義の世の中に生きている。不正直な人がごく少数であれば、正直者集団による和解の結果を、世の中のスタンダードとしていくことは可能である。マーサ・スタウトによれば、ソシオパスは25人に1人とのことである。であれば、正直者に十分勝算はある。
もう一つ、この書が高く評価されるべき点は、著者が吐露し続ける一種の「後ろめたさ」の感情である。養老孟司氏は、著書『超バカの壁』で「後ろめたさとずっと暮らしていく、つき合っていくというのが大人」であると述べている。とすれば、著者は最も大人らしい大人の一人であろう。こういう大人が今の日本の論壇には少ない。
最近、リベラリストが、選択の自由と基本的人権の尊重を二枚看板に掲げつつ、自由に溢れた理想郷を語るのをよく見かける。彼らは、「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい」と言う。しかし、その議論は「普遍性テスト」を経ていない。少数の人がその選択をした場合は迷惑をかけなくても、多数の人がその選択をすると社会が立ち行かなくなるものもある。実は、同性愛もフェミニズムも、ともにそういう側面を持つ。これは、それらのコミュニティに繁殖能力がない(あるいは低い)ことによる。多数の人が次世代の人間を産み育てる行為から降りてしまうと、高齢者福祉をはじめとする基本的人権の維持は不可能となり、リベラリズムは破綻する。
もちろん、だからといって、選択の自由に制限をかけるのは不当である。ただ、その一方で、それらの選択をあくまでも一部の例外としておかなければ、社会全体にダメージを与える点も忘れてはならない。現在の世論が性的マイノリティには親和的で、フェミニズムに敵対的であるのは、性的マイノリティは自らの存在が例外であることを承認する一方、フェミニズムはそれを良しとせず、自らのイデオロギーを社会全体に押し付けているからだろう。現在のフェミニズムは、男女共同参画という形で政府に入り込み、市民の私的な選択にまで干渉し始めている。多様な生き方が共存する社会を目指していたはずのフェミニズムが、いつの間にか、特定の行き方を強要する全体主義の担い手へと変貌してしまったのである。これは、フェミニストたちに後ろめたさの情が欠如していることに起因していると言えよう。
こういうと、私は性的マイノリティやフェミニストだけに後ろめたさを強要しているように聞こえるかもしれない。もちろん、そんなつもりはない。私自身も、自らの著書において、「学歴エリート」としての後ろめたさを背負って生きることを宣言している。
学歴エリートの行動様式を全ての人に押し付けることで社会が不全に陥ることは、過去の啓蒙主義が失敗を繰り返してきたことからも明らかである。その意味で、学歴エリートも後ろめたさを持たねばならない集団である。しかしながら、被差別集団となる機会が少ないせいか、学歴エリートは後ろめたさを感じる能力に最も乏しいマイノリティとなっている。これが学歴エリートの暴走を生む。フェミニストに学歴エリートが多く、また学歴エリート集団の外でフェミニズムが共感を勝ち得ない理由もここにあると考えられる。
次にわれわれが目指すべきことは、伏見憲明氏が「立派な人」ではなく「普通の大人」と称される社会を作ることではないだろうか。そのためには、後ろめたさの文化を社会全体に浸透させる必要がある。それに成功したとき、当たり前のことを「命がけ」で書かなければならないような時代は終焉を迎えるであろう。
【プロフィール】
かけやひでき●1970年生。筑波大学講師。メディア工学の研究の傍ら技術者倫理教育にも従事。著書に、日本の「リベラル」(新風舎)、学問とは何か(大学教育出版)、学者のウソ(ソフトバンク新書)がある。