円山てのる◎フロントランナーへの親近感と共に、正義の虚しい大旗を丸めて片付ける身軽さを覚えた
伏見憲明さんが書かれた本——『欲望問題』を読みました。
良書です。お奨めできます。
この本に興味を惹かれた最初は、サブタイトルとして書かれていた、「人は差別をなくすため”だけ”に生きるのではない」という一文に納得できたことです。
また、面白いことに、このサブタイトルを見ただけで、伏見さんが言わんとされていることが薄々承知できたような気になりました。
伏見さんは、僕とほぼ同い年のようです。あいにく面識はありませんし、彼の書物を全て読んだわけではありません。むしろ、読んでいないほうかも知れません。
皆様ご存じのように、伏見さんはお若いときから、日本における、いわゆるゲイリブに携わってこられたフロントランナーのお一人です。
であるにも関わらず、ゲイリブのゲの字にも関わってくることをせず、いまごろになってノコノコ・チマチマと、斯様にささやかなゲイ・ブログを書いている僕のような端くれゲイが、こと差別問題を巡って共感できるとは、本当に意外なことですし、新鮮な驚きでもあります。
ゲイの差別という言葉を使いながら、僕もまた伏見さんのように差別という言葉に違和感を感じていたのです。言い換えると、差別という言葉しか無かったから、これを使っていたに過ぎなかったし、仕方ないから、それにいろいろと注釈を付けてきたのかも知れません。
また、差別はいけないと言うとき、そこに、差別することは”正しくないから”という、どこか取って付けたような裏打ちを施さなくてはならなかったことに、「じゃ、俺は、そう言えるほど正しい人間なのか?」という”こそばゆさ”が伴っていたことも確かです。
正義をバックボーンに据えてしまうとき、そこに、どこか空虚な倫理観を備えなくてはならなかったり、教条的ないい子ちゃん振りを装っていなくてはならかなった、僕自身の居心地の悪さが、正直言って嫌でした。
しかし、それでも、ゲイを差別するな——と、言わなくてはなりませんでした。
違和感、こそばゆさ、居心地の悪さ、——これらは、ゲイの差別について語るとき、実は不愉快に僕の自信を削ぐものでしたし、それがゆえ、必要以上に力を込め、本当に思っていること以外のことまで、強い言葉遣いで過激に書き放ってしまわなくてはならない、その空回り現象を引き起こしていたのです。
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P.49 実際に、「オカマ」という言葉一つをとっても、それで傷つく人、傷つかない人、積極的に用いたい人、用いるべきだとは思わない人……当事者の中でさえも、さまざまな感じ方、考え方があって、一概にそれが差別語だとは言えません。つまり、自分の「痛み」だけでは、そのカテゴリーを代弁していいことにはならないし、したがって、特定の個人の心の「痛み」そのものを「正義」とすることはできない。とすれば、マジョリティに対しても、自分の「痛み」だけを根拠にそれが差別だと言えるわけではなくて、当事者の中でも、あるいは社会においても、その「痛み」の訴えが妥当なものかどうかいろいろな角度から議論する余地がある、との結論です。
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P.55 単純に一つの立場から、この世界を自分とそれ以外の人々の力関係に置き換えて見ようとするのは、どうしたって無理があるし、やはり傲慢だったと反省しました。
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P.55 ……そうして考えてみると、自分が経験したことを「差別問題」とするのではなく、「欲望問題」として捉えるのが適切だと、いま、痛感するのです。一つの欲望の社会における可能性の問い、「欲望問題」として始まった同性愛の生存が、結果として同性愛者以外の人々との間に了解が得られ始めているのだ、というふうに見えてきたのです。それは最初から「正義」としてあったのではなく、自分の欲望を実現したいという声が発せられた結果として、正当な訴えとしての理解を生みつつある、とするのが客観的な見方なのではないでしょうか。
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差別という言葉を、欲望という概念に読み替えたとき、心にもなく振りかざさなくてはならなかった正義の虚しい大旗を、くるくると丸めて片付けてしまえる身軽さを覚えますし、ともすると差別を語るときの”痛み”が押し遣ってしまう、本来なら居残っていても良い”楽しみ”を、世の中に共存させておくことができるのです。
伏見さんの本は、そうした新しい思想を提示してくれたのだと感じられ、そこに共感をもたらすのだと思います。
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P.123 ……やはり、人は楽しい方向でこそ、変化していくのです。
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同性愛者としての痛みから解き放たれることを求めるいっぽう、同性への欲望を貫こうとすることへの後ろめたさを感じるとき、そこに差別感と、それを粉砕するための正義を持ち込むのでなく、どちらも等価な欲望のヴェクトルだと認識することで、バランス良く折り合いを付けることができるのでしょう。
こう簡単に纏めてしまうと、至極当たり前に読めてしまうものです。
いつぞや僕のブログでも議論になった、セックスの乱れを乱れと見るか否かと、いわゆる乱交を含むセックス・スタイルの多様性を認めるかどうか——について、僕が乱れていると感じるセックス・スタイルだって、頭ごなしに否定して排除しようとは思わないし、またそのいっぽう、乱れているものを乱れていると直視する度量を持つことが、ひいては僕らゲイ自身を主張する上で、ゆくゆく有効になる、という、いっけん矛盾するような僕の見解をも、すんなりと説明できるように思います。
つまり、正義をかざして倫理観を説くつもりがない上で、いっぽう、乱れているものを乱れていると率直に認識し得るのでしょう。
すなわち、欲望問題の文脈で語れば、正義・倫理を旗印として差別を論じるのではないのですから、欲望を真っ直ぐに欲望として認めてしまうことで、乱交する人たちの欲望と、僕自身が抱く”乱れているという感想”と、折り合いを付けることができてしまえるし、両者を俯瞰して客観的に捉えることが可能になるのでしょう。
ちょっと、ややこしい話になりましたが。
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P143. ぼくが注目したいのは、ミクシィ内のコミュニティという場です。
(……中略……)
参加資格がゲイオンリーのコミュニティもそこで数多く運営されています。
(……中略……)
こうしたコミュニティでは、性的パートナーを探すとか、ゲイとしての問題を共有する、という面ばかりでなく、ゲイという共同性の中でのコミュニケーションを楽しみたい、という意識が働いているように見えます。それぞれのコンセプトとセクシュアリティは関係ないにもかかわらず、ゲイにこだわったコミュニケーションを求めているわけです。つまり、そこにあるのは、ゲイとしてゲイに関わりたいという欲望です。ありていに言えば、ゲイ同士であることが楽しいのでしょう。
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ゲイのアイデンティティーに関しては、伏見さんの見解と僕のとでは、若干の相違があるようですが、然してあげつらうほどのことはありません。
僕は、将来、ゲイであるかレズビアンであるか、あるいはストレートなのか、バイセクシュアルなのか、トランスジェンダーなのか、これらは血液型の違いほどの、さほど難しく拘る必要のない個人的項目の一つに収まってしまえば良かろうと考えています。
そういう観点から、そも同性愛者と異性愛者とが、普段から、どちらも顕在化した状態で、ごく自然体で混じり合っている態が、望ましいのではないかと感じています。
何でもかんでも、ことあるごとにゲイばかりの集合体が出来て、それが一団となって何かをしている、ゲイ以外の人々を排除する、意図的に異性愛者に距離を置き続ける、——という会員制的感覚は、ほどほどにしたいものと、僕は思います。
でも、それは同性愛、異性愛というカテゴライズを消してしまえとか、ゲイとしてのアイデンティティーを捨ててしまえと言っているのではありません。
同じ日本人の中に、東北出身の人々も、関西出身の人々もいて、同県人だとか同郷の人間同士であることが、特別な親しみを催させたり意気投合させたりするように、ゲイならゲイで、仮に同性愛者と異性愛者の垣根がなくなった世の中であろうと、ゲイ同士だからこその楽しみを謳い、同じ仲間同士ならではの共感に浸りたいために、ゲイばかりが集まるコミュニティーが維持されるのは、一向に構わないと思っています。
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P.146 だからといってぼくは、ゲイ・コミュニティという共同性を絶対化しようとか、ゲイ・アイデンティティを普遍的なものだと言いたいわけではありません。そうした共同性がなくなっていくのならそれはそれでいいし、ゲイたちがゲイというアイデンティティを必要としなくなれば、消えればいいものだと思います。それに固執しなければならない理由はありません。
(……中略……)
しかし人間というのは共同性からまったく独立した存在としてはありえないし、たぶんそれを足場にしていなければ幸福でもないでしょう。
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伏見さんとは見解が少し違うと書きましたが、ここまで読めば、実は僕と考える順番が逆だっただけで、言いたいことは少しも変わらないようにも思えてきます。いえ、きっと彼のほうが、もっと深いところから思索しているのでしょう。
末尾では、映画『X-MEN』になぞらえて、性的マイノリティーと、それ以外のマジョリティーとの関係を炙り出した上で、ゲイの共同性の未来を展望しています。
その中で、やはり先般、僕のブログでも話題にした”ゲイをノンケに変える薬”のようなものを想定した論述が、僕の興味を惹きました。同じようなテーマが言及されていたこともそうですが、この本の冒頭で、伏見さんが十代の頃、ご自身の同性愛を異性愛に変えようと努力したことが記され、それに対応するように、本の最後で、
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P.170 ただ、もし、同性愛を異性愛にする薬ではなく、同性愛も異性も好きになる薬が開発されたらどうでしょう。貪欲なぼくはその薬を試すこともあるかもしれません。
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——と書かれているところなど、まさしく、人間、誰しもバイセクシュアル的原型を有していただろうこと、またそれゆえに、バイセクシュアル的欲求を内含している可能性があることへの同意とも受け取れ、要は、かなりの部分で、伏見さんは僕と同じようなことを思われながら、同性愛問題に関わるお仕事をしてこられたのだなと、フロントランナーへの敬意を表しつつも、それとは別の新たな親近感を、自分勝手に抱いたような読後感でした。
【ブログ】
『低能流[ゲイ]文章計画』
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