2008-04-19

地図を塗りつぶすみたいに

先日、下北沢に行ったときのこと。
用事も済んだところで、どうにもお腹がすいていた。ちょうど夜の入り口の時間だったっていうのもあって、目についた洋食屋に入ってご飯を食べた。
席に着いて、メニューを見て、注文をして。その辺の過程を終えると少し落ち着いてくる。馴染みのない店のメニューや、店内の様子をあれこれ眺めたりする。
と、不意に気づいた。いま、馴染みのないと書いたけど、はじめて入ったとばかり思っていたこの店、昔、来たことが、ある。

もう10年近く前に、来たことがあった。当時付き合っていた人と。
食事中から結構険悪で。その日は一緒に芝居を観る予定だったのだけど、結局大喧嘩して、相手は芝居も観ずに帰ってしまったのだ。
喧嘩のこと、やたらとあれこれ思い出す。
俺があんなこと言わなきゃ、向こうは睡眠薬をあんなに呑まなかったのかなあ、とか。俺があんなこと言わなきゃ、向こうはいきなり姿をくらまさなかったのかなあ、とか。向こうがあんなこと言わなきゃ、俺もあんなことやこんなこと言わなかったのかなあ、とか。でもやっぱ俺があんなことやこんなこと言ったから、向こうもあんなこと言ったのかなあ、とか。
たくさんのことが渦巻いた。「きちゃったよ」という感じだ。
胸の辺りがドスンと重くなる。
こう見えても、といって、いまここを読んでいる人に「こう見えても」といったところで何の意味も為さないのは重々承知しているのだが、というか、こういうことをいちいち書いてしまうということからも分かってもらえると思うのだけど、こう見えても、俺は、繊細だ。
参った。久しぶりに、参った。そして、ハンバーグ&ポークソテー・セット・ライス大盛を完食して、店を出た。ポークソテーの肉厚がよかった。次はハンバーグ&ポークカツを食べたいと思った。もちろんライス大盛で。

むかし、知人が言っていた。「前に付き合っていた人と行ったトコには、絶対行かない」。
出歩くのが好きなくせに、行動範囲の狭い俺は、入る店のチョイスもワンパターンだ。
だから、上に書いたテーゼを気持ち的には理解するものの、実際に貫徹できるかというと、これは非常に難しい。
「店縛り」でいけば、どうにか大丈夫かもしれない。でも、「街縛り」は絶対無理だ。
どこにも行けないではないか。それ以前に「居れない」ではないか。思いっきり南の方か、もしくは思いっきり北の方に引っ越せとでもいうのか。
あと、「チェーン店縛り」も、きつい。新宿の魚民に行ったら、もう浅草の魚民には行かないとか。新宿のタワレコに行ったら、秋葉のタワレコには行かないとか。
とにかくハッキリしているのは、その知人は、かつて俺と行ったトコに、誰かと行くことはもうないんだろうということだ。

俺なんかは、こんな風に思ったりもする。
「前に付き合った人と行った店」が、「結構いい店」だったら、これは、「いま付き合っている人」とも行きたくなるかもしれないって。だってそこは、やっぱり「結構いい店」なのだから。
だから、行けばいいのだ。別に悪いことをしているわけでもないし。
でも、いや、デモもストもない。「デモもストもない」なんていう表現を素で使っているわけでは勿論ない。
ただ、気持ちがついてこないだけだ。それだけ、なのだ。

地図を塗りつぶすみたいに、年をとるごとに「つらい場所」が増えていく。
何も考えずに歩く街の一角、ふと目に入った店に、「あ、ここは…」とかなったりして。
「付き合った相手と」とか、そうゆうことだけではない。
あれやこれやの揉め事が、まあ自分の考え過ぎもあるだろうけど、いつまでも抜けない棘みたいに、ちくりと、くる。
この、ちくりとする感じは、目減りすることはあっても、消えることはない。
これからも、ちくりとする感じは増えていくのだろうか。
しつこいようだけど、俺は繊細だ。
ここも、そこも、あそこも、どこも…。

いや、大丈夫。そんな風になる前に、トシくって死んじゃうって。