2006-07-20

『QJr』●「ゲイの肖像」飯田真美さんの記事のこと

クィア・ジャパン・リターンズvol.2、できあがりました。
ゲイショップではもちろんのこと、そろそろ書店でも販売されていると思います。
今回の『QJr』は、208ページの大作です。「生き残る。」と題して、2006年の日本を生き残っていくために、自分の居場所で生き続ける人たちのリアルを、インタビューで、座談会で、シンポジウムで、対談で、浮かび上がらせました。
読んでいただいた方からは、「今回は(も)おもしろいですねえ。会社で生き残るのインタビューを、毎晩3人ずつ読んで寝てます」「内容といい、切り口といい、スゴイ!の一言です」など、うれしい声をいただいています。
ゲイ雑誌ということで、ゲイでない人にはなかなか届きにくいかもしれない。けれども、内容は決してゲイが独占!するもの(笑)ではありません。一人でも多くの人にこんな本があるんだよと届けたいという宣伝の意味も含めて、この新刊編集雑記というコーナーを新しくつくりました。
まずはQJrの内容やトピックス、QJrの販売の動きなど、書いていこうと思います。
今後はできれば、新しく出た本の内容や、これから新しく出る本の編集過程での雑感などを、タイトル別にぼちぼちアップしていこうかと思っています。できれば、というくらいの、あまり気負わない程度の気持ちで。

さて、『QJr』第一回目の新刊編集雑記は、すみません、ちょっと人の手を借りてしまいますが(笑)、vol.2で「ゲイの肖像」というコーナーの写真と文章を担当している田辺貴久くんの日記から、です。
今回の「ゲイの肖像」は、ゲイの方ではなく、東京都の職員で、エイズ対策を担当している飯田真美さんの人物ルポです。なぜ飯田さんを取材しようということになったのか、取材過程の話など、記事になるまでの過程や、田辺貴久さんの記事への思いが書かれています。

昨年も日本のHIV新規感染報告数は千人を超えた。
そのうちのおよそ3分の1が、東京都からの報告だった。
歌舞伎町や渋谷センター街、そして新宿二丁目といった、
感染機会の集中する繁華街を抱え、
日々感染者が増え続けている東京都で、
それを必死に食い止めようと、
昼夜を問わず奔走する一人の女性がいる。
都のエイズ対策を担当する飯田真美だ。
厳しい現実に向き合いながらも、
いつも明るく、絶えぬ笑顔で仕事をこなす彼女は、
新宿二丁目でも、みんなに愛されている。
しかし、その笑顔の裏側には、
自身を襲った「乳ガン」という病と、
ひとり必死に戦い続ける、誰にも見せない顔があった。

QUEER JAPAN RETURNS vol.2
「ゲイの肖像:飯田真美〜癌とともにエイズと闘う」
冒頭部より

 僕が初めて飯田真美さんにお会いしたのは、まだすごく寒かった2月のこと。東京都のエイズ対策を担当している女性の職員に、ちょっと変わった面白い人がいると聞いたのがきっかけでした。
 二丁目のルノアールで待ち合わせたあと、居酒屋に行って飲み、それでも足りずにゲイバーを数軒ハシゴしました。お互いろれつの回らない舌で、ずいぶんといろいろな話をしたものです。初対面にもかかわらず、その日の帰りは結局終電でした。
 QUEER JAPAN RETURNSのルポルタージュで彼女を取り上げることになり、それから何度も、飲みに出かけたり、講演についていったりを繰り返しました。彼女はどこに行っても明るくにぎやかで、その場の空気をみずみずしくするようなパワーを持っていました。僕も会うたびに元気をもらえるような気持ちで、取材とはいえ彼女に会うのがいつも楽しみでした。
 あるときは飯田さんの家にお邪魔しました。その日はおうちの写真を撮らせてもらうということだったのですが、家に着くなり冷蔵庫からいろいろなおつまみを出してくれて、結局写真撮影もそこそこに、即席で宴会になってしまいました。彼女は家ではいつも以上ににぎやかで、しまいには歌まで歌い出す始末。とりわけ楽しい夜でした。
 その日、飯田さんと別れて独り歩く帰り道、楽しい夜を過ごしたにもかかわらず僕の心に残っていたのは、話しているときに見せる、遠くを見るような目線だったり、笑い顔のあとに作る、ため息混じりの表情だったり、そんなものばかりでした。まだまだ刺すような寒さに身震いしながら、しんみりとした気分になったのを、よく覚えています。
 彼女が癌だということを聞いたから、そういうところばかりが気になった、というのではなく、おそらく彼女はずっと昔から、そういう淡い翳をどこか纏っていて、それがしんみりとした気持ちを呼ぶのだろうと思いました。だから、僕も含めて周りの人は、飯田さんに対して「好きだ」というよりも、なにより「大切だ」と思うのでしょう。
 人間はだれもが、いつかはこの世から居なくなります。そのとき、その相手に対して抱いていた「大切だ」という気持ちは、行く先を失って、いろんな形で溢れます。僕は、そのとき溢れるだろうものを封じ込めるような気持ちで、今回ルポルタージュを書きました。結局書きたかったものが書けた気はせず、いまももどかしい気持ちがありますが、読んでいただければうれしいです。──田辺貴久

2005-06-08

勉強の世紀

●本日のお仕事
○仕事内容の反省、ブログ更新
○目録のためのデータ入力(お昼前におわった!!やったー!!)
○キャプチャ
○あんふぁん校正
○版元.com集会の為の書類準備(コピー、コピー、コピー!!)
○ゴミ捨て等雑務

沢辺さんが三好さんとともに僕を食事に誘ってくれた。80年代の素敵な音楽が流れる定食屋さんに入った。沢辺さんは「藤井が今のポットでまかされている仕事だけで、出版社ってこういうものなんだと思い込んでしまうのが一番怖い」と言った。僕が見ているのは氷山の一角にすぎない。僕がもしお金を払って雇われている身だとしたらみんなの態度も違っていたはずだ、と沢辺さんは言った。沢辺さんが指摘したのは、僕のポット社内での位置である。社会科見学的な感覚が抜けないのである。沢辺さんは、もし就職直前の学生が来たらもっと口うるさく色々なことを指摘するだろう、と言った。社会に出て実際に働くのが目前だからである。「じゃあ、これからは僕にももっとちゃんと言ってください」と言った僕はまったくもって無神経である。沢辺さんは「そこがお前の甘いところなんだよ」と答えた。会社は学校ではない。僕は心のどこかで、新人は教えられて当たり前、部下がうまくやれなかったら上司の責任、だと思っていた。(少なくとも、自分が上司だったらそういう風な姿勢でいたい、と思っていたし、教え方には自信があった。) そして、以前勤務していた会社と違い明確な目標やコンセプトが共有されていないことを疑問にすら思っていた。

勉強することは良いことだ、とされるこの世の中。面接で「ここで勉強させてください」と自信たっぷりに言ってくるような志願者には「じゃあ学費を払ってください」と返す、と言った沢辺さんの台詞が印象に残った。会社は勉強する場所である以前に働く場所だ。「本を読んで勉強していると、そんなことやっていないで仕事をしなさい、と言われる時代があった」と言った沢辺さん。常に教わる側であった僕は、教える側の負担や努力がまったくみえていなかった。体系づけられた教育システムの中で育ち、以前の勤務先にもあまりに整理されたシステムとマニュアルがあった。僕は、知らないことは教えられるのが当たり前で、会社というのはそういうことを一からしてくれるものだ、と思い込んでいたのだ。ポットのやり方は、僕にはもう想像の範疇外というか、ひたすら新しかった。自分から学んでいくこと、自分から仕事を見つけてモノにしていくということ。そうしなければ、いつまでたってもこの会社の一員になることはできない。自分で答えを見つけなければ、いつまでたっても窓際の座席に座った「ゲスト」でしかない。会社の方向をきちんとわかっていれば、自分が何をどうするべきなのかわかるはずなのだ。もっと自分からこの仕事に真摯に取り組んでいかなければならない、と思った。そして、言葉では指摘されない自分のミスにももっと敏感にならなくてはいけない、と感じた。

とてもありがたい愛のムチであった。今日正面から言われなかったら、きっといつまでたっても気がつかなかった。こんな自分に対して「入った時に比べたらすごく変わった」と言ってくれた三好さんの言葉がすごく嬉しかった。甘ったれな自分に、さよならしたい。こんなに親身になってくれる二人に、はじめてポットの一員としての意識が芽生えた瞬間だった。

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