2009-09-06

お部屋1949/宗教への嫌悪感が生ずる条件

しばらく間があいてしまいましたが、「modernfreaks」でのインタビュー連載が再開しました。今回以降は、「黒子の部屋」では未公開です。
 
 
では、「1947/風俗ライターという前職」「1948/『草の根』にこだわるワケ」の続きです。

りゅうさんは9月1日付けのエントリーで、こうも書いています。

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それまで、東村山事件ブロガーの方々は、基本、簡単に言うと「創価もカルトだが、ゼリの根もカルトだ!」という主張の基本路線があったように思います。

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これだとまるで相手を「カルト」と呼べば批判した気になる「ゼリの根」の連中みたいですが、表現はともあれ、私を含め、「草の根」や瀬戸弘幸を批判するプロガーの中に、どちらにも批判的である人たちが少なくないのは事実でしょう。

どう批判的なのか、どの程度批判的なのかは当然人によって違っていて、私について言えば、この2年間で少しずつ変化してきたようにも感じています。

もっとも変わったのは、世の中に流れている反創価の言論の中に、デマの類いが混じっていることを強く認識するようになったことです。「草の根」の言うこと、ゼリーグルーブの言うことはもちろんのことながら、乙骨正生や段勲といった連中の言うことにもいちいち眉に唾をつける癖がつきました。さすがに「草の根」や瀬戸弘幸たちと行動をともにできるだけのことはあって、この人たちもまた根拠のないデマを平気で流せる人物だと断じてかまわないでしょう。

私は「東村山市は創価学会の信者が多い」なんて話には根拠がないことを明らかにしましたし、資料屋 ◆bfimNvQTbさんは、創価学会の住民移動疑惑を数字を確認することでデマであることを明らかにしました。こういった作業をやるから、「創価学会を利する」なんてことを言う人たちが出てくるわけですが、デマで批判するわけにはいかず、そういうことをしていると、結局信頼のない存在になります。

まさに乙骨正生や段勲らがそのいい例です。ジャーナリストであると言うのなら、こういったデマを否定して、なお批判すべき点を批判するってものでしょうが、そんなことは期待するだけ無駄です。彼らは元創価学会の信者であり、脱会以降は、創価学会と敵対する宗派のために創価学会批判をやっているだけのことです。そのためにはデマを流してもかまわないとするのは、狂信的信者の行動であって、事実を報ずるのが職務であるジャーナリストとはまったくの無関係です。仏壇の前で殴り合いでもなんでもやっていればよい。その程度の人たちです。

段勲の著書はかつて読んだことがありますが、誤解のないように「宗教的利害のために書いています」と本に明記すべきですし、書店の皆さんは宗教の棚に置くべきです。

しかし、いかにこの連中が愚劣であっても、創価学会への嫌悪は解けません。個別の情報については、疑わしい、あるいはデマだと判断できても、なお創価学会に対する嫌悪感が強く私の中にはあります。

この嫌悪感はどこから来ているのか。

どうも私は宗教自体に警戒心を抱き、嫌悪感を抱いているようです。どんなバカげた教義であれ、信じる人たちの間で閉じている限り、嫌悪感はない。社会との接点において、時に警戒感、時に嫌悪感を抱くのです。

もちろん、宗教団体がチャリティバザーや社会鍋なんてことをやって社会貢献をやっているなら、歓迎することはあれ拒絶はしない。白光真宏会が「世界人類が平和でありますように」という柱を立てていたところで、どうとも思わない。あの柱には教団名さえ書かれていないですしね(検索したとところ、白光真宏会が直接やっているのでなく、主体はWPPSという団体らしい。信者たちが中心にやっている団体ではあるのでしょうけど)。

もう十年以上前になりますが、毎週、全国の宗教団体を取材する連載をしていたことがあります。我々が日々目にしたり、耳にしたりするのは、万単位の信者がいる巨大教団ばかりですが、全国にはいろんな教団があって、地味な活動をやっている教団も多いものです。中にはお布施や会費の類いさえとっておらず、信者たちは事業をやって生計を立てつつ、宗教団体の活動資金にしているような団体もあります。当然、その生活も建物も地味です。テレビや雑誌に広告を出すようなことはしませんから、なかなか知る機会がないだけで、こういう団体も案外多いものです。

また、長い時間をかけて、我々の文化、風習、習慣、行事といった形になって定着したものについてはなんら抵抗感はない。むしろ、そういうところでしか、私の宗教心は発揮されないかもしれない(日本の風土に合致する形でそれらの宗教は定着し、発展してきたため、あらゆる局面で、我々の行動や思考が宗教的なそれとリンクしている側面はあるにしても)。

しかし、その範囲を超えた時には身構えます。その警戒感、嫌悪感を抱く最大の場面が政治です。宗教団体が政治的なメーッセージを出すことまではいいとして、あるいは行動することまでもギリギリいいとして、宗教団体が立法に関わるのは勘弁して欲しいとの思いがあります。行政や司法もそうですが。

創価学会に対する批判の中には、「選挙の際に電話をしてくる」なんてものがあったりします。ほとんどの候補者の選対は、公選法に則って「よろしくお願いします」と電話をしていますが、公明党の場合は、創価学会員が個人として電話をしてくる。ここで宗教団体の顔が見えてしまい、選挙が生活の中に入ってくる、宗教が政治の中に入っていくように受け取れるからより強い嫌悪感を抱く人が多いのだと思います。

しかし、これも法的にも倫理的にも問題はなく、どんな政党であれ、選挙運動をしたことがある人のほとんどは、友人や知人、親族に投票依頼をしたことがあるでしょう。よっぽどしつこくない限り、個人と個人の関係で投票依頼をすること自体はさほどは反発されない。やはり背後に宗教団体がいるから公明党は反発されるのです。

広くそれを表明しようとする際に、「宗教は気持ちが悪い」という個人の生理、個人の感情を根拠にしても説得力がないですから、ついついデマに飛びついてしまいます。「この反発には根拠があるのだ」ということにしたい。ここに「草の根」や乙骨正生、段勲らがデマで生き延びてきた事情がありそうです。

今となっては、こういうデマに易々と踊らされる人々の愚かさを笑えるようになっていますが、私自身、今まで無批判に創価学会に関するデマを受け入れてしまっていたかもしれない。ここは反省点です。

このような嫌悪感、警戒感は「創価学会だから」ではないことを今回の選挙で強く感じました。私にとって、もっぱら創価学会への反発は「宗教だから」です。

以前書いたように、ある時期に、宗教団体からの勧誘を受けると、すべて入信してました。信じているわけではなくて、面白いからです。本気で信じるわけがないとの自信があったからこそとも言えます。

幸福の科学も雑誌を購入する誌友会員というのになりました。「バッカみたい」とは思いましたが、何度か電話があっただけで、しつこく正会員になれと誘いかけるわけでもなく、1年間で購読料が切れて、そのままです。その範囲では強い反感はない。講談社への抗議は気持ち悪かったですけど。

ところが、幸福実現党には思い切り反感を抱きました。この反感と、公明党に対する反感は重なっていて、「どっちがいい」という判断などない。どっちもです。宗教ですから。

もともと好きではなかったにせよ、私の中で創価学会に対する反発が強まったのは、自公政権が設立してからです。こうなると、何するかわからないとの思いはいよいよ拭えない。

今回の選挙結果は、公明党の惨敗においても、幸福実現党の惨敗においても、実に好ましい。

ところが、「草の根」も瀬戸弘幸も、幸福の科学には媚を売る。私からすると、「どっちも一緒だろ」と思わないではいられません。

瀬戸弘幸に至っては、日本の政治にも強い影響力をもっていた統一教会とも密接な関係がある(あった)ことが推察できる。この節操のなさはなんなのでしょう。これについては、ワールドワイドウェブさんにお任せするとします。

さらに続きます。

このエントリへの反応

  1. [...] 「1949/宗教への嫌悪感が生ずる条件」の続きです。 [...]