竹下真一郎[大学生]●他者と繋がろうとする切実さ

私の不勉強と読書内容の偏向のためであるが、本書は、伏見氏の論考、特に2000年以降の雑誌『クィア・ジャパン』やゲイ雑誌『Badi』への連載記事などの内容から外れるものではないように感じられた。私は、過去の著作からは、「正確な分析だけど、みもふたも無いなあ」というのが、伏見氏の著作に対する印象であった。それはつまり、私が「読書を通じて安心したいタイプ」であり、もっと言えば、本の著者に対する「甘え」──「自分の価値観を権威によって肯定して欲しい」という欲求──があったというだけの話であり、恥ずかしい話である。

また、著作をちゃんと読んでいないからだと叱られそうだが、伏見氏の著作には、他人の生き方を茶化して痛烈に笑いのめす箇所と、一方で他人の痛みを深く理解しようとするような箇所があり、どうしても統一的な「伏見憲明」像が浮かんで来なかった。しかし、本書を通じ、雑誌等で見られる「怖いオカマ」スタイルと、あとがきで「命がけで書いた」と告白するような「真面目さ」とが、「伏見憲明」という1人の人格の中に同居しているということが、何故か腑に落ちた。腑に落ちてみると、単に、自分の「好き嫌い」や直観を誤魔化さずに発言する知識人が珍しいというだけのことだったのかもしれないという気がするし、「ゲイ・リベレーション(こう言われることを好まないかもしれないが)を引っ張るような知的な人=真面目で観念的で耳に心地いいことを言う」という勝手な決めつけが私の中にあったのだろう。またしても恥ずかしい話である。

本書からは、伏見氏の「人が他者と繋がろうとすること」に対する何か切実な想いが感じられた。本書の内容から外れることかもしれないが、私は、今までのところ孤独ではなかったし、恵まれた人生を送って来たのだなあと思う。そしてそれ相応にだらしなく育った。

『欲望問題』は、未成年の同性に性的欲望を抱く男性のエピソードから始まっている。かつて大学時代に、「アナタはゲイで、人生を謳歌してるでしょ?ゲイであることが今何か大変ことなの?」と遠まわしに言われたことがある。今でも私は、例えば「セックスに関して、何をどこまで許容できるのか」と詰め寄られれば、上手く答えることができない。成人の男性が好きな同性愛者である自分は、今の日本では、安全圏内に入っている上、幸せなことに、だらしなくても生きていられる。

そういう中で、私は、他人の痛みを感じ取れているのだろうか。映画を見れば過剰に感動したりするのに、果たして生身の他人とぶつかり合っているだろうか、ぶつかった上で相手を理解しようと努めているだろうか。最近そういう痛い「ぶつかり」を一つ経験したような気がする。

家の中のことで家族の1人と口論になった際、それまで積もっていた思いを一気にぶつけ、私は相手を言い負かしてしまった。そんなことは生まれて初めてだったし、いつかは一言ガツンと言ってやろうと思っていた。しかし、自分の言葉で、いつも強気な人間があんなに取り乱してしまうとは思ってもみなかった。

自分は何がやりたかったのだろう。決まっている。『欲望問題』の中の表現で言えば「痛み」を「正義」と錯覚して、更に、相手の気持ちをずたぼろにしたいという欲望にも基づいて動いていたのだろう。この場合、私の家の中における「欲望問題」は、「痛み」「楽しみ」の他に、「恨み」のファクターも介在しているのだろう。
相手は、私の欲望どおりにずたぼろになりながらも、私の言葉を受け止めてくれた。しかし私は相手の何を受け止めているだろうか。今も相手は私の言葉で苦しんでいるのかもしれない。

今まで家の中で等閑視されてきたことを暴き立てたいという私の「欲望」は、結果的に皆を幸せにしないのかもしれない。「私は家という小さな社会の一員として、家族1人1人と向き合いたい」。こう言えば学校の先生に褒めてもらえそうな気がするが、それはつまり「欲望問題」なのだ。伏見氏が「欲望問題」と言ってくれたおかげで、私も家のことを冷静に考えられる気がする。

一方、私は「日本」という大きな社会に対しては「憎しみ」も無いが「痛み」も無く、「楽しみ」の関係性しか持っていない。しかも、かなりだらしない種類の「楽しみ」の関係性だろう。
結局、『欲望問題』で伏見氏は、「読書で安心したい」という私の甘えをまたしてもぶち壊してくれたわけだが、今の自分には必要な読書体験だったと思う。ところで、こうして感想文を書くと、大体「いい子偽装の反省文」のようになるので、自分でもどれ位本音なのだろうかと疑問ではある。

【プロフィール】
たけしたしんいちろう●1978年、福岡県生まれ。大学生、政治学専攻。