加藤秀一[社会学者]●あらゆる〈だけ〉に抗する思想のために

 正義のタームで語られることの多い差別という問題を、相異なる欲望すなわち利害間の対立という視野に置き直すことを通じて、膠着している反差別運動をより広範な人々に「伝わる」ように更新すること——『欲望問題』の主張を乱暴に要約すれば、およそこのようになる。これは日本社会の現状を的確にふまえた〈正論〉である。幾千万回の糾弾によっても埒のあかない差別という現象の厄介さを真摯に認識し、伏見氏と問いを共有してきた読者であるならば、本書を書いた伏見氏の意図は痛いほどよく理解できる(少なくとも、そう言いたくなる)はずだ。いったい、本書の副題である「人は差別をなくすためだけに生きるのではない」という命題を誰が否定しうるだろう。それはあまりにも〈正しい〉スローガンである。けれども、この至極もっともな命題に収斂する議論がただ一通りであるとは限らない、ということには注意すべきである。著者の提案する「大きなつかみ」で言うかぎり、僕は本書の主張におおむね賛成するが、しかし同時にその一文一文に鈍い違和感を覚え続けた——著者が明快な議論の本筋に添えているあらゆる周到な留保にもかかわらず。

 字数制限の都合上、ここでは本質的な論点についてだけ検討しよう。伏見氏が提言する〈差別問題から欲望問題へ〉ないし〈正義から利害調整へ〉の移行については、少なくとも二つの疑問が即座に浮かぶ。第一に、そのような移行は本当に可能であり望ましいものなのか。第二に、伏見氏は議論の過程でさりげなく「欲望」と「利害」とを互換的に用いているが、それでよいのか。実はこれらは同じ一つの問題の異なる側面にすぎないのだが、以下では第一の面に焦点を合わせ、きわめて粗雑な素描を試みる。

 異なる利害=欲望間の深刻な対立は、当事者間の直接的な議論や交渉によっては決して調停されえない。ある人にとって人生の意味そのものを与えるような素晴らしい価値が、別の人にとっては吐き気のするような嫌悪の対象にすぎないといったことはありふれているからだ。この対処策はいまのところ二つしか考えられない。一つは、利害=欲望のエコノミーが貫徹する場としての「市場」に問題を委ね、より多くの・より強い欲望が人口に膾炙するというかたちで決着をつけること。もう一つは、当事者たちの上位に超越的な審級を置き、そのレベルにおいて裁定を下すこと。僕の目下の関心事である生殖医療の領域から具体例を挙げるなら、利害=欲望対立の当事者たちが飽くまでもタフに自己を主張しあって譲らないアメリカ合州国において、生殖細胞の売買や出生前診断・着床前診断はほぼ無制約に市場化される一方で、和解不可能なイデオロギー的対立に貫かれた妊娠中絶は世論を二分し続け、司法判断によってかろうじて調停されているものの、それも時代とともにたえず揺れ動いている。

 言うまでもなく、利害対立の市場化はしばしば少数派や社会的弱者に対する暴力を帰結するから、それを望ましくないと考える理論家たちは一定の超越的基準を構築するために苦闘してきた。1970年代にJ・ロールズが利害対立の観点に立つ功利主義への批判から正義(ジャスティス)という普遍的基準の(再)構築への歩みを進めた背景には、そのような現実への生真面目な取り組みがあったのだ。この観点から見ると、本書で正義という概念を繰り返し批判する伏見氏は、あたかも同じルートを逆向きに歩んでいるように見える。もちろん、そこには正義や権利という概念そのものに対してシニカルに構える現代日本文化そのものへの鋭い洞察があり、それゆえ相当の説得力があるけれども、しかし上に指摘したように〈そもそも利害対立の調停など不可能である〉という端的な事実をどう処理するのか、それを解決するには結局は何らかの「超越的」基準というフィクションが必要なのではないか、そしてさしあたりそれが「正義」と呼ばれているものの意義なのではないかという、当然予想される質問への答えを本書に見出すことはできない。さらに、〈できるだけ多くの人ができるだけ幸福になるように〉とする功利主義につきまとう〈最も救済を必要としている人が最も苛酷に打ち棄てられる〉という裏腹の問題、すなわち最も苛酷な差別を受けている人々は永遠に無視されつづけるかもしれないというより根源的な問題点は、ほとんど無視されているように思われる(僕が読み取れていないのだろうか)。

 僕はこれらを本書の理論的弱点だと考える。けれども、そのような視点からの評価は、もしかしたら不当なのかもしれない、とも思う。どうやら伏見氏と僕とでは、そもそも「理論」についての考えが根本的に違うように思われるからだ。本書で伏見氏は「理論の外にいる人間」たちに、自らもその一員として語りかけている。そのような読者は、本書を現実を分析する理論書としてではなく、一種の生き方指南書のようなものとして読むのかもしれない。そこでは、理論と幸福が食い違うことは悪しきことであり、そのとき修正されるべきはつねに理論の方なのだ。そうだとすれば、おそらく伏見氏の直接の関心は、先ほど僕があげつらったような原理的問題にはないのだろう。本書の議論はあくまでも日本社会の現在という歴史的状況によって限定された、いわば〈すでにある程度は苛酷さが解消された〉種類の差別だけに向けられたものなのかもしれない。実際、日本における性差別や同性愛者差別がどれほど根づよいとは言っても、少なくとも被差別者が頻繁に殺されたり強制収容されているわけではないのは事実である。そのような種類の差別についてであれば、これまでの運動の成果を評価しつつ、さらに大衆化を図るために評判の悪い「正義」概念を引っ込めるという戦略には、足し引きでプラスの作用が大きいのかもしれない(僕にはまだそのことは確信できないが)。

 けれども、これはとても面白いことだと思うのだが、伏見氏がいかにいわゆる理論の抽象性に疑いの目を向けようとも、伏見氏自身がセクシュアリティについて最良の理論家の一人であり、本書もきわめて理論的な書物である。すでに触れたように、ここでの伏見氏の議論は周到で、論点は複雑に絡み合っており、生き方のハウツー本として機能するようにはとても思えない。言説と現実とに距離があるという伏見氏の「言説」に頷いたからといって、読者が現実と現実との距離をどうやれば埋められるのかという「現実」の問題を解決できるわけではないのだ。これは少しも皮肉ではなく、むしろ著者の誠実さが本物であるという証拠だと思う。むしろ僕がいくらかの皮肉を込めて反問したいのは、なぜ言説(理論)と現実(実践)に距離のあることがいけないのか、両者を一致させて「すっきり」するのは本当に良いことなのか、ということの方だ。少なくとも僕にとって、理論とは「一般の人々」の「日常感覚」に迎合して安心を提供するためのものではない。理論的思考とは、むしろ安寧な幸福をかき乱すかもしれない危険なものだ。だからこそ、実感の専制に抗い、いわば自分に逆らって考えること(サルトル)は重要なのである。なにも浅薄なアマノジャクで言っているわけではない。確かに、人間にとって「差別をなくす」ことはすべてではないかもしれないが、他方、伏見氏が高らかに謳う「幸福」もまたすべてではないのだ。人は差別をなくすためだけに生きるのではない、だが同時に、人は幸福になるためだけに生きるのでもないのである。

 それではこの二つの命題のあいだの振幅をいかに理論化すればよいのか。言い換えれば、僕たちは差別のある世界をいかに生きればよいのか。だが、これはもはや伏見氏に投げ返せば済むという種類の問いではないだろう。すでに依頼された字数も大幅に超過している。他の数多くの論点(その中には「性別の抹消」の意味という重大なものもある)へのコメントと共に、僕が本書から読み取ったポジティブな要素についても省略せねばならなかったが、ただ一言、予想される批判に対してあえて「身を差し出し」たという著者の気概にふさわしく、本書が差別をめぐる思考を活性化させるに足る開放性のパワーを存分に湛えていることを、僕は微塵も疑わない。最後にそのことだけを付言しておきたい。

【プロフィール】
かとうしゅういち●
1963年東京生まれ。社会学者。明治学院大学教授。社会学の視点から性に関した研究を行っている。

【著書】
ジェンダーと社会理論(江原由美子、上野千鶴子らとの共著)/有斐閣/2006.12/¥2,600
身体をめぐるレッスン2 資源としての身体(鷲田清一、三浦展らとの共著)/岩波書店/2006.12/¥2,700
知らないと恥ずかしいジェンダー入門/朝日新聞社/2006.11/¥1,300
「ジェンダー」の危機を超える!(若桑みどり、上野千鶴子らとの共著)/青弓社/2006.8/¥1,600
図解雑学 ジェンダー(石田仁、海老原暁子との共著)/ナツメ社/2005.3/¥1,300
〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか/ちくま新書/2004.8/¥720
構造主義とは何か(上野千鶴子、竹村和子らとの共著)/勁草書房/2001.2/¥2,800
性現象論/勁草書房/1998.9/¥3,400
シリーズ〈性を問う〉3 共同態/専修大学出版局/1997.10/¥2,800
フェミニズム・コレクション3 理論(編)/勁草書房/1993.12/¥3,200
フェミニズム・コレクション2 性・身体・母性(編)/1993.11/¥3,200
フェミニズム・コレクション1 制度と達成(編)/1993.8/¥3,200