藤本由香里[評論家]●「豊かな魑魅魍魎」のために

 小倉千加子はかつてこう言った。
「やせた清廉潔白よりも、豊かな魑魅魍魎」
 これを読んだとき私は快哉を叫び、それまである種のフェミニズムに感じていた微かなとまどいやひっかかりが、いっぺんに吹き飛んだ気がした。

 そして伏見憲明は、ホモセクシュアルの問題や、もっと広くクィアという存在を考えるにあたって(「クィア」という考え方自体がすでに「豊かな魑魅魍魎」だが)、それをやり続けてきた人だと思う。
 それは彼自身がこの『欲望問題』の中で、『プライベート・ゲイ・ライフ』や『キャンピィ感覚』を通じて自分がとってきた立場や戦略を明らかにしている通りであり、そして私は、個人的には一貫してそれに拍手を送りつづけてきた。

 同時に伏見は、非常に示唆的な理論構築をも並行してやり続けてきた人であり、この『欲望問題』は性差別問題(同性愛差別・女性差別含めて)についての彼の考え方の集大成といっていい。
 この中で彼は、「差別を解消したいという理想」も、「性差を楽しみたいという気持ち」も、「それぞれの性別役割に充実を感じる感性」も、「欲望」という意味では同じである、といい、それらすべてを同列に並べることを考えの基本におくことを提案する。
 絶対的な「正義」などというものはないのであり、大事なのは、ジェンダーという領域の中にあるさまざまな「欲望」が、お互いの間で利益調整を図っていくことなのだというのである。
 「差別を解消したいという理想」も欲望の一つに過ぎない、という位置づけ方は確かに新しいし、それ自体は私は正しいだろうと思う。また、そう位置づけることで、議論を新しいステージに進めることができる、という側面があるのもまた事実だろう。

 それを高く評価してこの一文を終えてもいいのであるが、私にただ一つ解せなかったのは、なぜ今、伏見憲明はこんな問題提起をしなければならなかったか、である。
 この「解せなさ」にはいくつかの感覚がからんでいるのだが、小倉千加子が「やせた清廉潔白よりも、豊かな魑魅魍魎」と言った時点で、そして伏見自身がそれをみごとに実践してきた時点で、もうその答えは出ていたのではないか、と私には思えることがその一つ。
 つまり、その先問題になるのは、つまるところ運動の実践論に過ぎないはずだからだ。
 現状ではまだ強く「差別解消」を訴えていった方がいいのか。
 それとももっとソフトに理解や共感や「お、そっちの方が面白そうじゃん」と思わせる戦略に訴えていった方がいいのか。
 あるいはその両方だとして、自分はどの立場からどういうパフォーマンスをするか、ある問題についてどういう立場をとるのか。

 誰が何を主張するにしろ、それは現状判断の違いにすぎない。けっして本質論ではない。
そこで問題になるのは実践の有効性の判断だから、もちろんそのときどきで、論理的には矛盾が出てきたっていっこうにかまわない、と私は考える。
 私たちがより生きやすくなるために求められているのは、論理的な一貫性などではないのだ。だから、内向きの「論理」の要求などに答える必要はない。いや、答えてもいいが、そうした運動内部の要請に対する答えを外に向かって言う必要は、必ずしもない。
 それまで、運動の内部を見つめるのでなしに、運動が変えようとする「外部」をこそ意識し、つねに外に向かって発信し続けてきた人ならなおさらである。

 たしかに運動の中では、「やせた清廉潔白」を求める人もいるだろう。
 だが、そもそも、そこにかかわる人間に、論理と実践の厳密な一致とか、論理と行動の一貫性とか、「正しい」ことを過剰に要求するようになった運動は、害悪の方がはるかに大きいし、長続きもしない。
それは、思春期に社会主義者の両親のもとで「家庭内文化大革命」を経験し(詳しくは拙著『少女まんが魂』の中の萩尾望都さんとの対談を参照)、「運動の理想」というものが人をいかに追い詰めるかを、オーバーではなく死と向き合って実感した私の強い確信である。だから人は、いくら運動の中にいるからといって、厳密な論理的一貫性を求めて自分を追い詰める必要などないのだ。

 
……と、ここまで書いてきて、もしかしたら私は、とても的外れなことを言っているのかもしれないと思う。
 ただ、なぜか『欲望問題』を読んでいて、かつて吉澤夏子の『女であることの希望』や『フェミニズムの困難』を読んで感じた、「運動の内部の論理に追い詰められてこれが出て来た」感と同じものを微かに感じてしまったのだ。

 その結果、吉澤夏子は「フェミニズムは個人の領域に立ち入るべきではない」と言った。片方に「個人的なことは政治的である」という非常に強いフェミニズムのテーゼがあるにもかかわらず。
 そのとき私は吉澤が、なんだか違った方向に力を使わされているように思った。よしんば誰かに「フェミニストのくせに矛盾してる」と言われようが、そんな<たらいの水ごと赤子を流す>ようなことをしなくとも、「そう? でも私はこれが好きなの」ですむことなのに。

 もちろん、伏見の『欲望問題』がそれと同じであるというつもりはない。これはとても誠実な本だし(吉澤の本もとても誠実な本だ)、結論にも基本的に同意する。
 だが、私にはもう一つ、伏見が今この本を書いた、それも命がけで書かなくてはならないと思った、その内的な動機がよくわからない気がするのである。
それが運動の内圧によるのだとすると、そのさなかから逃げない伏見にエールを送ると同時に、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないかと、一声かけたい気持ちになる。

 
 それともう一つ大事なこと。
 『欲望問題』では「ジェンダーフリー」をどう考えるか、というのも一つの大きな論点になっているように思えるが、これもまた、私は他ならぬ伏見によって「とっくに回答が出ている」問題だと思っている。

 なのになぜ伏見がこの中で、ジェンダーフリーとジェンダーレスはどう違うか、性差の解消抜き(ジェンダーレスにならない)で性差別解消(ジェンダーフリー)が可能か、という問題に論理的にこだわっているのかが少し不思議だ。もちろん、各論者の立場の違いが整理されていて、いい仕事だとはいえるのだが。
 「ジェンダーフリー」という言葉は私はあまり好きではないが、ジェンダー問題を解決する鍵は、「性別をなくす」ことではなくて、「人間の性別はいくつかの層に分かれていて、それぞれの層のつながりは一貫していなくてもいい」つまり、「性別をいくつかの要素に分け、それぞれを自由に組み合わせることによって、たくさんの性別のパターンを作ることができる」ということだと思う。私はこのことを伏見の著作の中で学んだ。

 たしかにそれまでは私の中にも、性差別解消を推し進めていくと、男女の性差のない、のっぺりした社会が出来上がるような不安があった。
 それが80年代末、秋里和国のマンガ『ルネッサンス』の中で「完全両性愛社会」のイメージに出会うことで、「そうか! 性差の要素を徹底的にクロスさせてしまえばいいんだ!」と思い当り、いっぺんに目が覚めたような気がした。

 そして伏見の『プライベート・ゲイ・ライフ』の中で、「性別はいくつかの層に分かれている」という考え方に出会うことで、この考え方のイメージがより構造的に説明できるようになったのである。
 『プライベート・ゲイ・ライフ』ではとりあえず、性別パターンを構成する層は「♂/♀」「男制/女制」「ホモ/ヘテロ」の三つにしか分かれていないので、<性別>のパターンは2×2×2で8通りだが、「男制/女制」はくっきりと二つに分けられるものではなく、その中で「女言葉/男言葉」だの「ダンディ/フェミニン」だの「男前/乙女」だの、いくつもの層にまた分けることができる。
 こうすることによって、それぞれの層の「男女」という性別二元法はそのままで、その層の組み合わせのあり方によって、身体的性別はその人が表現する性別の一部でしかない、まさに個人ごとに異なるn個の性の組み合わせが可能になるのである。これがジェンダーレスでなどありえないのは自明の理ではないだろうか。

 そして社会は現在、そちらの方に着々と進み始めているように思える。たとえば「乙女系男子」という言葉が、マスコミでも喧伝される時代だ。「乙女」要素はカセットのように身体的性別から切り離すことができ、それを女子が選択しても男子が選択してもいい。
 そういう意味では、私が『欲望問題』の中でいちばん「使える」と思ったのは、「イカホモ」(いかにもホモっぽいルックス)という言葉がゲイの間で肯定的に流通した、という事実である。<つまり、「真の男」と自分の間に隙間、遊びがあるという感性が、そのジェンダー表現にはある>と伏見は書く。

 社会はこれからどんどんその方向に進むだろう。そしてその中で差別も解消されていく、というのが私には一番望ましいあり方に思える。
 もっとも、伏見には、そんな答えはもうとっくにわかっているはずなのだが。

【プロフィール】
●ふじもと ゆかり
1959年、熊本県生まれ。編集者、評論家。とくにマンガ評論家として数多く連載を持つ。

【著書】
達人が選ぶ女性のためのまんが文庫100(村上知彦、夢枕獏との共著)/白泉社文庫/2004.9/¥648
愛情評論/文藝春秋/2004.2/¥1,600
少女まんが魂/白泉社/2000.12/¥1,500
快楽電流/河出書房新社/1999.3/¥1,600
私の居場所はどこにあるの?/1998.3/¥1,600