2013-04-12

第28回■南の国からの“人妻達の反乱”

 今でこそ、メディアでは、不倫や既婚者恋愛、婚外セックスなどが一般的なこととして語られている。その実態がどうなのかはわからない。ただ、周りでそういう話を聞く機会が増えたことは確かだ。いわゆる男性誌の“不倫人妻の暴走!”的な特集だけでなく、女性誌なども不倫を推奨(!?)しているような特集も盛んに組まれている。

もちろん、テレクラに関わっていれば、そんな現実は実感として把握していたし、人妻狙いも当然の如く、していた。テレクラは流行を先取りし、その先駆的、先導的な役割を果たしていたのだ。

そんな人妻達の恋愛やセックス最前線への進出ぶりは、ノンフィクション作家の本橋信宏やなめだるま親方こと島本慶など、フィールドワーカーの著書や記事を読めば、そこに答えがある。
後に八王子や町田、浦安、葛西など、東京の近郊や郊外の街が人妻の“メッカ”となるが、実際に人妻が蠢いていると私が感じたのはそんなところではなく、意外にも九州、福岡だった。福岡在住の人妻との邂逅がそんな感触を抱かせたのである。

九州の男と女

当時、私は仕事の関係で、福岡へ行くことが多かった。もっとも多いといっても年に数回で、毎月行くというほどではないが、出張の度に、天神や中州の屋台には足繁く通った。地元の知り合いからは、お勧めの屋台を何軒か聞いて、ローテーションを組んでいた。ちなみに、今でいうB級グルメの「焼きラーメン」や「どて丼」が当時のお気に入り。大体、仕事が長引き、屋台で締めということが多かったが、それでもテレクラの“旅打ち”は欠かさなかった。ちょっとでも時間があると、仕事仲間との打ち上げ後、翌日に備えて寝るふりをして、夜の町へと繰り出していたのだ。

以前も書いたかもしれないが、私と九州の女性とは相性がいいようで、学生時代、少しだけ付き合った女性は佐賀出身だった。夏休みには、帰省中のその女性の実家を訪ねたこともある。また、その佐賀から足を伸ばして行った天草で出会った女性も長崎出身だった。長崎の女性とは、何度か東京と長崎を行き来して、その機会に会ったりもした。その長崎の女性とは数年後、なぜか、原宿でばったりと再会した。ご縁があるかと思ったが、それから数年後、結婚したという知らせが入った。もし結婚したら、その女性の実家は造り酒屋をしていたから、いまごろ、杜氏にもなっていたのかもしれない……と、勝手に妄想してみる(笑)。

九州の女性と相性がいいものと勘違い(!?)していたからか、福岡でもテレクラ通いを欠かさなかった。もっとも、福岡での行きつけのテレクラはなかった。そのため、その人妻と出会うきっかけとなった店がどこにあったかは覚えてないが、福岡の中心から少し離れたところだったことは覚えている。本来、一番ありそうな、福岡を代表する歓楽街・中州ではなかったことは確かだ。取次制の店で、店に入ったのは多分、9時か、10時過ぎ。私が話したのは30代の専業主婦の女性で、ご主人の帰りが仕事で遅れ、時間が出来たから電話したと言う。たまたま、駅前で貰ったティシュを見て、初めてかけたそうだ。

大体、初めてという時は、2、3回は電話しているものだが、そこは大人の対応、とりあえず、信じたふりをしておく。もっとも、話していると、慣れていないのが手に取るようにわかった。ぎこちなさみたいなものがある。夫や子どもなど、生活に何ひとつとして不満はないが、このまま良妻賢母を演じることに窮屈さを感じ、女性としての自分を出してみたいと話す。だが、なかなかその一歩踏み出すことができない。そんなジレンマを抱えている。ある意味、贅沢な悩みというか、単なる愚痴みたいなものだが、そこは辛抱強く、つきあう。

その女性のジレンマだが、私には思い当たることがあった。私の勝手な思い込みかも知れないが、福岡は“男尊女卑”の風潮があるのだ。というと語弊があるかもしれないが、女性は奥ゆかしく、一歩下がり、男性に黙ってついていくという姿勢や風情が、今も良しとされる。考えてみれば、福岡に限らず、九州男児というのはおしなべて益荒男振りを競うようなところがある。博多の山笠などまさにその際たるもので、その気風の良さ、男前ぶりを誇示するものだ。

随分前のことだが、たまたま出会った福岡出身者たちとの会話から、福岡は男尊女卑なところと思いこんでしまった節もある。彼と彼女のお蔭で、そんな価値観が自然と刷り込まれていたのかもしれない。
ある撮影で知りあったヘアメイクの男性が福岡出身で、彼は、東京に来た時、男性が女性に媚びをうっていることに怒りを覚えたというのだ。好かれようとして、必要以上に卑屈になり、下手に出ているようなところが腹立たしかったという。失礼な話だが、ヘアメイクなどという、女性相手で、しかも男性でもおネエ系が多そうな仕事(完全に偏見です!)の方が言うのが意外に思えた。女性中心の職場にあっても九州男児の誇りや気概は失わないということだろうか。

福岡出身の女王様の意外な一言

また、ある女性の発言もそう感じさせるものがあったのだ。その女性とは、なんと、“S女性とM男性が集うスナック”で、出会っている。御馴染みの夕刊紙の三行広告から見つけ出したのが、私の渋谷のアジトのテレクラがある桜ヶ丘にあったSMスナック。SMクラブやSMバー、フェティシュ・バーなどとは違い、ショーがあったり、プレイしたりするところではなく、ママが女王様で、彼女を慕う素人のS女性やM男性が集まっていた。私自身はSM愛好者ではなく、ましてM的な嗜好があったわけではない。単純に、風俗情報誌を見ると、M女性よりS女性が綺麗なので(当時の風俗情報誌を見ると、女王様は宝塚の男役やスーパーモデルのような素敵な女性が多く、一方、M女は豊満で、それこそ、“この豚”という羞恥の言葉が似合いそうな女性ばかりだった)、そんなレベルの高い女性を“ナンパ”しようという魂胆からだった(我ながら、無謀とは思いつつも、その冒険者ぶりに関心してしまうというか、自画自賛したくなるが、後に福岡出身の女性以外にも成功もしている!)。

M男性とS女性が集まるスナック。周りはM男性ばかりで、S女性に従順で、思い切りかしずき、足を舐めたり、肩を揉んだり、ご奉仕していた。S女性に鞭打たれ、恍惚としているM男性を見たのもここが初めてだったかもしれない。乳首を洗濯バサミで嬉しそうに挟まれている男性もいた。SMの世界の奥深さを感じたものだが、本当のMではない私は存分に浮いていた。ローラや会沢アリーではないが、女王様にもため口だったのだ。

そんな意外性が功を奏したのか、ある女性を連れ出すことに成功。その女性が福岡出身だった。故郷を離れ、東京で一人暮らしをしているという20代の会社員。彼女が言い放った一言がS女性らしくなかったのでよく覚えている。福岡の男性は女性におもねることなく、俺について来いというタイプばかり。ちゃんとついていかないと見向きもされなくなってしまうというのだ。男尊女卑的な気風を了承して、それに従い、受け入れている。S女性らしくないといえば、らしくない。むしろ、男性に対するひたむきな思いを吐露していた。

SMの本質に支配と服従という概念があるが、彼女の場合、支配と服従というものが現実の世界にいる時と反転しているようだ。
福岡の女性がすべて男性に従順であるなどとはいわないが、自らの願望や欲望などを自己主張したり、そんな意思表示をすることは、福岡の風潮や環境ゆえ、難しいものがあったのではないかと感じている。

同じように、テレクラで繋がったその女性も、そんな生きにくさや住みにくさを理解しつつも、どこかで風穴を開け、自分らしくありたいと願っているように見えた。むしろ、そんな自分を新しい世界に連れて行ってくれる男性との出会いを求めているようでもあった。

気づけば翌朝、ほんのわずかだが時間が取れるらしく、会ってくれることになった。

待ち合わせに指定されたのはシーサイドももちだった。同所は現在のソフトバンクホークスのフランチャイズであるヤフードームやシーホークホテルなどがあるところだ。元々、港町で、魚村の風情もあった。随分前だが、開発される前に訪れたことがあり、のどかなところだったのを覚えている。

東京近郊の感覚でいうと、幕張や舞浜、浦安だろうか。「青べか物語」の街が様変わりしていったように、いまは海浜公園になっている。最近なら、臨海副都心といわれ、複合施設が隣接するお台場なども、イメージとしては近いかもしれない。

海浜公園のボードウォークで待ち合わせをした。ご主人が会社に出て、子供を保育所に預けてからの、午前中の数時間なら時間が取れるという。

その女性との待ち合わせの目印は白い日傘だった。遠くから近づくと、日傘を差した女性が微笑んでくれる。顔は南国系の濃い雑作に、品のいい笑顔が作られる。白のブラウスにダンガリーのスカートが、褐色の肌に合っている。5月とはいえ、既に夏の気配を感じさせた。太陽が眩しい、束の間の海辺デートである。

何を話したか覚えてはいないが、テレクラで話したのも初めてなら、勿論、話した人と会うのも初めてであること、そして、そんなことだけでもとても思い切ったことのようだった。特に話が弾んだわけではないが、既婚者である自分がご主人以外の男性、それも見知らぬ人と会うだけでいっぱいいっぱいだった。東京ではテレクラ巧者みたいな女性が多く、落ち着きはらった女性ばかりだったので、その慌てふためきぶりが却って初々しく感じ、微笑ましくもあった。

私がその女性の好みのタイプであるとか、恋愛の対象になるとかではなかったみたいだが、地元の人間ではないことが多少の安心感に繋がり、彼女にとっては大胆な冒険を可能にしたようだ。

海辺のベンチに並んですわり、他愛のない話をする。テレクラで会ったとは思えない、恐ろしく健全な“デート”ではある。

その女性にとっては、久しぶりの男性とのツーショットのようだった。元々、時間はないことを了承し、とりあえず会うだけ会うということだったので、話は進展せず、当然、色っぽいことはなかった。わずか1時間ほどの“逢瀬”のあと、二人はボードウォークを別々の方向へと歩いていく。彼女の生活圏に近いこともあって、手を繋ぐことさえできない、それだけでも充分に危険である。二人は、他人のふりをするしかなかった。

連絡先なども交換していない。その後、その女性がどうなったかわからない。テレクラに嵌り、いろんな男性と会っているのかもしれないし、テレクラに背を向け、良妻賢母、貞淑な妻を演じ続けているかもしれない。

ただ、一度でもその女性がそんな行動を取った、彼女の人生に、少なからず、波風を立たせたように思う。人妻がテレクラに大量参入するのは、そう遠くないこと。そんな萌芽や鼓動を、私は南の国で見、聞いた。何事にも控え目で、慎み深く、男性には黙ってついていくという福岡の“やまとなでしこ”でさえ、そんな反抗心を抱きつつあったのだ。

人妻たちの反乱の狼煙は南の国から上がった……私の中では、そう勝手に解釈している。その後の人妻事情を考える際に、象徴的なことだったように思う。1992年の5月のこと。テレクラは、いろんな層へと既に普及しつつあった。強烈な性愛描写が話題となり、“不倫ブーム”を呼んだ渡辺淳一の小説『失楽園』が流行る5年ほど前だ。時代は小説を先取りする。