2013-02-18

第26回■クリスタルな愛人Ⅱ(タッグ・オブ・ウォー)

前振りがすっかり長くなったが、“ひろみ”のことを話すとしよう。急がば回れ、恋は焦らず(ここ、何度か指摘しているが、“テレクラ試験”、出るので、メモしておくように!)だ。

最初の“呼び出し”があったのは92年2月のことだが、週末ではなかった。“花金”などの決戦日に、私などが呼び出されるはずもない。曜日は定かではないが、ウィーク・デイだったと思う。

渋谷のアジトに張り付き、コールを待つこと、数時間。漸く来た当たりは公衆コール。電話を取ると、周りは騒がしく、どこかの店内のようだ。コールしてきたのは、ひろみと名乗る女性で、20代後半のOL。いま、渋谷の居酒屋で一人飲んでいるので、これから来ないかと誘われる。特に会話らしきものはなく、ふわふわとした語り口なので、訳も分からず、かけてきたのかもしれない。

いきなりのお誘いであるが、その女性が飲んでいる居酒屋の名前を聞くと、どこにでもあるチェーン店、ぼったくりではないことは確か。これは行くしかないと、急いで店を目指す。

待ち合わせの居酒屋の店内に入ると、すぐわかった。周りには不釣り合いな、お嬢様然とした女性が一人、グラスを傾けていた。どういう経緯で一人飲みになったか、その時はわからなかったが、飲みたい気分だったのだろう。もちろん、会うなり、一人飲みの理由を聞いてみた。ひろみという女性は広告代理店に勤めているらしく、仕事仲間と飲んでいたが、電車の時間もあり、一人減り、二人減りという状況になる。結果として、その場は解散となったが、彼女はもっと飲みたく、一人にも関わらず、河岸を変え、飲み直しとなったそうだ。

バブル的な華やかさを纏いながらもコンサバティヴな落ち着きがある。服装や髪型も華美なデザインやスタイルにならず、上品な風情を醸し出す。それでいて、いわゆるブランドものは押さえている。仕事のできそうな“綺麗なお姉さん”(「きれいなおねえさんは、好きですか。」という松下のキャンペーンは1992年から開始されている)という感じである。普段であれば、絶対、テレクラなどとは縁のなさそうな人種である。かなり飲んでいるらしく、酔った勢いもあるのだろう。飲み相手、話し相手として、私が呼び出された。本人曰く、テレクラに電話するのは初めて、たまたま、貰ったティシュに書いてあった番号に電話したそうだ。本当か嘘かわからないが、特に警戒などすることなく、呼び寄せてしまうところなど、テレクラ初心者と言えなくもない。

そんな説明を「駆けつけ三杯」的な感じですると、いきなり、恋愛相談となる。付き合っている(!?)男性とのままならない恋の行方を嘆き、それをどう打開するかを相談される。何人もの女性を泣かせてきたような、かなり、問題のある手強い相手である。いいように遊ばれているといえなくもない。本来であれば、そんな男性とは付き合うのはやめなさいというべきかもしれないが、私は単なる通りすがりであるから、忠告や指図をするような立場ではない。なんとなく聞き役に徹し、答えを放棄させていただく。酔っているだけに、話はくどいくらいに繰り返され、回っていく。それは数時間にも渡り、酒量も上がる。私は時に笑顔、時には深刻な顔で、ちゃんと聞いているそぶり(!?)をする。さすが、テレクラ俳優、演技派と、自画自賛したくなる。

我ながら忍耐強いというか、内心では段々とどうでもよくなり、その場を逃げ出したくなる。しかし、その場に留まるのは、そんな面倒臭さを割り引いても魅力的な彼女の容姿や佇まいにある。酔った勢い、流れでセックスができてしまうのではないかというすけべ心があるからだ(笑)。私自身、行動のモチベーションをすけべ心と好奇心としているような人間である。“元気があれば何でもできる!”ではないが、“すけべ心があれば何でもできる!”。暫くは辛抱となる。

と、淡い期待を抱きつつも、話はさらに延々と続き、何度も回りまくる。まるでゴールのない、“血を吐きながら続ける悲しいマラソン”(by諸星ダン 「ウルトラセブン」第26話『超兵器R1号』)だ。“長距離ランナーの孤独”ではないが、終電も近づいてくる。連れ込む当てがなさそうなので、恋愛相談員をやめなければならない。ホテル代やタクシー代などを勘案しても撤収が妥当と判断し、終電で帰ることを決める。私のバランス・シート的には、本来であればこれっきりのはずだが、ひろみから電話番号を聞かれ、私が教えると、彼女もあっさりと電話番号(当時だから携帯ではなく、自宅の電話番号)を教えてくれる。また、相談に乗ってほしいので連絡するとまで言われた。

相談員登録

私にしては意外な申し入れ。まさかと思いつつも良からぬ期待もしてしまうというもの。とりあえず、話を聞き続けるという親身な対応に感じ入ったらしく、彼女の中では、私は相談員登録されたのではないだろうか。確かに、いくら友達でも酔いに任せての、終わりのない恋愛相談には付き合いそうもない。また、振り回されている自分のことは、自尊心もあり、知り合いには曝け出せるものではない。そんな彼女にとって、私のように自分の立場や面子を気にせず話せる相手というのは、貴重な存在ではないだろうか。ここでも私の“聞く力”が人を捉えて、離さないのである(笑)。

それからほどなくして、お呼びだしがあった。たぶん、一週間も経っていなかったように思う。今度は渋谷ではなく、新宿の居酒屋だ。デートなどではないので、前もっての約束もなく、ひろみの勝手な都合で連絡してくる。当時は携帯電話ではないので、自宅にいれば繋がるわけで、彼女は自分が今いるという店から掛けてくる。その日も都合良く在宅していたため、すぐに呼び出しに応じることができたというわけだ。

新宿の居酒屋で会ったひろみは、前回ほどは出来上がってはいないが、相変わらず、酒の乗りもあり浮かれ気分。決して、私とのデートにウキウキしているわけではない。前回は、いきなり恋愛相談だったが、今回は酒量も控えめなので、自分のことなども話出す。多分、初対面の際にも聞かされたと思うが、こちらも酒任せのでまかせと、ちゃんとは聞いていなかった。

聞けば、彼女の周りの華やかなこと。広告代理店勤務という派手な職場もさることながら、父親は一部上場企業の重役で、母親は華道や舞踊を教えている。大学もお嬢様大学出身だという。広告代理店を始め、証券会社、航空会社、芸能界など、華麗な人脈を誇り、彼女が足繁く通う飲み会(合コンか!?)にはスッチー(いまはそんな表現しないが)やモデルなども集うという。遊び場所も麻布や青山、銀座などの有名店で、セレブ感が漂うところばかり。また、都内だけでなく、国内のリゾートや海外まで、その行動範囲は広い。彼女の話の中には、ハイヤーの如く、高級車で送り迎えするアッシー、フレンチやイタリアンなど、高級レストランを定食屋にするメッシー、札束を高級ブランドの財布に詰め込み(アメックスのプラチナカードの日本での登場は1993年からだそうだ)、金に糸目をつけず、プレゼントしまくるミツグくんなどは普通に登場してくる。泡沫な話が満載である。まるで、バブルの総本山(成り上がり的なバブルっ子よりは一クラス上という感じではある)だ。

おまけに、バブルに先駆けた“ブランド小説”を著した有名作家ともお友達らしく、よく遊んでいるという。嘘くさいと思ったが、ディティールが正確で、私などに嘘をついて見栄を張る必要もないから、本当だろう。彼のことも“慣れた手つきで、ちゃんづけ”していた。

有名作家もいい女を引き当てるため、それなりに努力、精進をしているみたいで、微笑ましくもあった。ペログリな日常もまんざら嘘でもなさそうだ(笑)。

意外な大物を引き当てたわけだが、本来であれば、一切、縁もゆかりもないものを結びつけてしまうのが出会いメディアとしてのテレクラの不可思議さであり、醍醐味でもある。いきなりブランドやクラスを飛び越えてしまう。そういえば、テレクラ界では、後にアイドルがテレクラを利用しているという都市伝説まで生まれている。私自身は出くわしてはいないが、それも決して、起こらない話でもない。むしろ、現在のネットの世界で実現しているドラマを先取りしていたともいえる。

勿論、ひろみはアイドルなどではないが、なかなか、お目に掛かれない上玉(!)、粘る価値もありかと考えないでもない。そんなわけで、恋愛相談員として、この日も出動したわけだが、これまた、前回同様の恋愛話の輪廻転生、恋愛風車は空しく回り続ける。相談しながら、酒量も増えるから、最後は前後不覚になりつつ、どうして、なんで…みたいな感じで、ままならない状況に痺れをきらし、駄々をこねる。前述したが、多分、こんな姿はセレブな友達には晒すことができないのだろう。見栄と虚飾に満ちた“ソサエティ”では、決して弱音は吐けない。夜回り先生ではないが、いいんだよ、と言ってくれる相手が必要なのだろう。自分でも紋切型で表層的な分析だとは思うが、やはり、勝ち組が負け組の巣窟に吹き溜まるには理由があるというもの。世の中、光あるところに影あり、という感じだ。

という感じで、納得ずくでお付き合いをするものの、この日は目はないと、途中離脱させていただく。彼女自身も酒量の限度超え、店を出て、靖国通りでタクシーを拾うと、彼女を一人乗せて、運転手に託す。

それから何度となく、呼び出される。が、相変わらずの展開(さんざん恋愛相談をされ、最後は酔いつぶれ、ぐだぐだになるけど、セックスはできない)に段々、下心も失せてくるが、付き合いのいい私、相談をされるというのは頼りにされていることであり、それは悪い気はしない。また、周りが羨むようないい女といるという、つまらない自尊心のようなものもくすぐられる。恋愛やセックスにおいて、無理目だから、最初から引いてしまう人もいると思うが、そういう意味では、変な卑屈さを取り払い、明らかに無理目と思われるような相手にもなりふり構わずに行くという、私の攻めのスタンスは、このころ、出来上がったのかもしれない。自己評価は高くも低くも設定していないが、世間一般では無理目、高嶺の花といわれている女性でも、まずは挑んでみるものだ。扉が開くのを待つのではない。扉は叩いてみなければ、開くこともないだろう “Knockin’ on Heaven’s Door(「天国への扉」 by ボブ・ディラン)”だ。叩いたお蔭でいい思いもさせていただいている(笑)。何でも経験ではないが、修行(!?)である。私自身は、彼女のアッシーやメッシー、ミツグくんにならずに済んでいる。居酒屋の代金を払うくらいで、車の免許もないので、当然、送り迎えなどもできない。それでも付き合いが続いたのは、お互いに都合がよかったからかもしれない。

バブルの均衡

その日も渋谷の居酒屋に呼び出され、恋愛相談の無間地獄に落ちていくところだった。せん無い話の応酬に肉体的にも精神的に疲れ果てるというのがいつもの定番。そんな定食のような時間に付き合うわけだが、雪が降り積もるようにさんざん、繰り返し聞かされたにも関わらず、相談の内容はあまり覚えていない。親身になって聞いているふりをしていても、どこか耳をすり抜ける他人事なのだろう。とりあえず、前述通り、その男性が適当な言葉や行動で、彼女を惑わし、いいように振り回しているというのだけは覚えている。もちろん、彼女が貢いだり、彼女に貢いだりという関係ではなさそうだ。

そんな無為の時間が過ぎ、青山通りでタクシーを捕まえて、千鳥足の彼女を座席に放り込み、さよならするはずが、何故か、腕を掴まれ、私も座席に引きずり込まれる。酔っているのに、すごい力である。ひろみの自宅があるという白金まで付き合わされる。タクシー代を負担しなければならない。マンションの前まで着くと、これではアッシーか、と、トホホ感を噛みしめていたら、意外なことに、部屋まで来て、といわれる。思いもかけない、自宅訪問である。

親が彼女のために買え与えたというマンションは白金の奥まったところにあった。大型の集合住宅ではなく、戸数も少ないから、人付き合いの手間のかからなそうな佇まいである。ひょっとしたらという淡い期待を抱きつつ、酔人介護しながら部屋まで、彼女を運ぶ。内装は思いのほか簡素で、バブル期にありがちな華美なところはない。調度品なども品良くまとまっている。お茶などを出されるかと思ったら、ここでも酒盛りである。これでは飲み過ぎである。乱れれば乱れるほど、淫靡なものから遠ざかっていく。まったく、人のいいことである。

終わりのない飲みと、行くあてのない話は続く。考えてみたら、このバブルの時代、圧倒的に女性優位で、男性をいいようにあしらってきた彼女のように、容姿に恵まれ、金銭にも不自由することなく育ってきた女性でも、恋愛がままならないばかりか、逆に弄ばれてしまう。そんなあしらえない男性もいる。どちらが上か、下かではない。男女の不均衡はブランドやクラスだけではすんなりといかないもの。“強面で鉄火肌”(!?)の女性でさえ、都合のいい女に成り下がってしまう。私自身、都合のいい男を任じているだけに、都合のいい女であることに成り下がりと感じることもなく、何の抵抗もない。むしろ、その都合があうだけでも均衡は取れていると納得してしまうものだが、彼女としては、そうはいかなかったのだろう。恋の綱引きはままならないもの。以前も触れたと思うが、まだ、「アダルトチルドレン」や「共依存」などという言葉が一般化するにはもう少し時間がかかっていた(同用語は1993年には認知されるようになる)。

彼女にとっては帰る必要のない自宅飲み、いつ倒れてもベッドがあるという気安さか、エンドレスなドリンク&トークに私を巻き込んでいく。私自身は毎度のことながら後半からほとんどソフトドリンクという対応で、どう乗り切るかを考えていたところ、彼女は崩れる寸前、その刹那、目を光らせ、私の耳元に囁くのだった。それは、あまりにも意外な申し入れだったのだ。