2007-09-04
いま明かされる!イラク戦前の米仏による激しい攻防 フランスは「負け戦」を覚悟して抵抗した
『オーマイニュース』に次のような記事を執筆しましたので、転載いたします。
主題:いま明かされる!イラク戦前の米仏による激しい攻防
副題:フランスは「負け戦」を覚悟して抵抗した
【本文】
写真の左の人物はフランスのドミニク=ドヴィルパン外相(当時)であり、写真の右はアメリカのコリン=パウエル国務長官(当時)である。この写真はイラク戦争の開戦を巡って対立が激化していた時に国連の本部でアメリカ国務省が撮ったものだ。2人のやりとりはいま振り返ってみても、興味深い。
2002年10月、先進諸国はイラク査察の再開を検討し始めた。パウエル国務長官はいかなる場合でもイラクが「この決議の実施に全般的な非協力があった場合は、さらなる重大な不履行と見なされる」という文言にフランスが同意することを求めた。つまりこれは、査察への協力を拒むことや、大量破壊兵器に関する報告をイラクが十分にしないことを「重大な不履行」だと断ずるものだった。
米仏両国は1点において対立した。
フランス側はイラクが虚偽の申告があった場合に加え、査察に対する全般的な非協力があった場合、これを重大な不履行として見なす……という2段階論の立場だった。一方のアメリカは、ディック=チェイニー副大統領が大量破壊兵器などに対する詳細な“申告書”の提出をイラクのサダム=フセイン大統領(当時) に求めるべきだという立場だった。そして、生物・化学・核兵器の開発計画すべての関係書類を提出させなければならないと考えていた。チェイニー氏の提案はこれを30日の期限付きでイラクに求めるべきいうものだった。30日以内に十分な資料を提出しなければ、それを口実に開戦しようと考えていたのだ。ジョージ=ブッシュ大統領の側近であるコンドリーザ=ライス国家安全保障補佐官(当時)のほか数人がチェイニー氏の案に同調した。強硬派の意見が多勢だったので、パウエル長官はフランスを説得する役を任された。
パウエル氏が求めた「この決議の実施に全般的な非協力があった場合は、さらなる重大な不履行と見なされる」文言とは、フセインがどのような違背を犯した場合でも、重大な不履行と見なすことができるというものだった。そして、重大な不履行は開戦の根拠になるものだった。
パウエル氏とドヴィルパン氏は5日間にわたって議論した。フランスは虚偽の申告+全面的な非協力があった場合のみ、重大な不履行と見なすという意見を曲げなかった。つまり、イラクが2つのテストに落第した時だけ、開戦を検討してもいいという立場だった。アメリカが受け入れられる意見ではなかった。両氏は5日間、議論をしたが平行線に終わった。
けっきょく、アメリカ側が折れて、フランスの提案を受け入れると決めたのは11月初旬のことだった。国連安全保障理事会がイラク査察の再開を決めた決議1441を採択したとき、フランスはイラクの国連決議違反が自動的に武力行使につながることを拒み、「2段階決議」方式を勝ちとった。フランス外交の勝利だった。
そして、2002年11月下旬から国連の査察団がイラクに入った。イラクは全面協力ではなかったものの、渋々、査察に応じた。そして、12月に1万2000頁に及ぶ大量破壊兵器関連の資料を査察団に提出する。英紙『フィナンシャル・タイムズ』によると、これら資料を見てアメリカは「イラク側は信用に足る資料を提出する気がない。国連への非協力を決断した」と見限り、12月中旬にブッシュ大統領は開戦が不可避だと判断したという。関係者からドヴィルパン外相の元に、アメリカが戦争に踏み切る可能性が高いこという情報が届いたのは、2003年1月第1週のことである。
1月9日、勝ち目がないと分かっていながら、フランスは積極的に外交を展開し始めた。
まず、ドヴィルパン外相がパウエル国務長官に書簡を送り、イラク問題で勇み足をしないようにと伝言した。翌10日、ドヴィルパン外相は各安保理事国の外相に電話を片っ端からかけ、安保理の外相級会合を開催することで各国と一致した。時を同じくして、大統領府の外交顧問(当時)であるモーリス=グルドモンターニュ元駐日大使をシラク大統領はワシントンに送り、ライス米大統領補佐官やポール=ウルフォウィッツ国防総省副長官(当時)らと連続的に会談させた。フランスは3つの理由からイラク戦争に反対すると説明した。
第一にアラブ世界全体が不安定化する恐れがあること、第二にテロ組織アルカイダを利する可能性があること、第三にイラクとアルカイダなどのテロ組織との関係を証明する証拠がないこと……であった。
ライス補佐官は聞く耳持たずで、残された道は「サダム=フセインの政権放棄だけだ」と語ったという。
2003年1月20日、ドヴィルパン氏はパウエル氏と会談し、「アメリカはネオコンを抑えることができずに、本当にイラク戦争を始めようとしている」と気づかされた。開戦に踏み切ろうとするならば、フランスは「安保理で拒否権を発動して開戦に抵抗する」とドヴィルパン氏はパウエル氏に警告した。
おそらく、2003年のこの時点でシラク大統領やドヴィルパン外相は「戦争は不可避」と悟っていたことだろう。しかしながら、フランスは2月、3月に国連や安保理を舞台にして、開戦に必至に抵抗する。「負け戦」だと分かっての闘いである。正義を声高に語るアメリカに対して、フランスには独自の論理、世界観があるのだということを世界に示して見せたのだ。フランスの抵抗の甲斐なく、2003年3月19日にイラク戦争は始まった。フセイン体制は崩壊し、アメリカ流の民主主義がイラクに持ち込まれた。しかし、その結果はどうだろう?
ドヴィルパン外相はイラク戦争の開戦直前に次のように演説した。
「我々はイラクのケースを通して、テロリズムが根絶されると考えている人々に対し、その目標を達成できない危険を冒していることを指摘する。さらに、この極めて不安定な地域への軍事介入は、緊張のみならず、テロの温床となっている亀裂を拡大する可能性すらある。」
ドヴィルパン氏の予言は的中している。イラク戦争によってテロは根絶されるどころか、イラクは今やテロリストの温床となっている。イラクではテロがやまず国民は不安な暮らしを送っている。
ドヴィルパン氏はいま何を思っているのか?2007年2月に英フィナンシャル・タイムズ紙(電子版)のインタビューに同氏は登場した。
ドヴィルパン節は健在だった。
同氏は「米国はイラクで失敗した。03年に私はシラク大統領と共に『軍事的な手段でイラク問題は解決しない』と言ったではないか。03年に言ったことは、07年にも通用する。」と述べ、米国を批判した。つづけて、「イラクが民主化され平和になったら(米軍が)引き揚げると言うのはばかげている。そんな日は永遠にこない」「出発点は外国軍撤退の展望に向けた明確な日程」にあると強調し、「1年後に米軍あるいは英軍がイラクに存在しないと言わないなら、イラクではいっそうの死者と危機が生まれる」と強調した。ドヴィルパン氏はイラク安定には「国民的和解」を進めるとともに、周辺国と国際レベルでは「イラク情勢の安定に関心を持つすべての国」を動員すべきだとして、イランも関与させる必要を示唆した。
示唆に富んだドヴィルパン氏の主張は果たしてアメリカに届いているのだろうか?