2005-02-15
極右政治家・ルペンと国民戦線
世界的に知られた高名なフランス人の一人がジャン・マリー・ルペンであるという事実は、フランス人にとって不幸なことだろう。1928年に生まれたルペンは極右政党・国民戦線の党首を務め、76歳という高齢にも関わらず、同じく国民戦線の幹部として働く長女とともに、いまもなお精力的に政治活動を続けている。アウシュビッツ解放から60年にあたる今年に入ってから、ナチスドイツによる仏占領統治について「必ずしも人道的でなかったわけではない」とナチス擁護の持論を展開し、物議をかもした。以前(1997年12月)にも、ナチス親衛隊出身の政治家がミュンヘンで開いた出版記念会の席上で、「ユダヤ人強制収容やガス室などは第二次大戦の歴史のなかで取るに足りない出来事だ」(安達功『知っていそうで知らないフランス』(平凡社)188頁)と発言して問題になった。ところで、あまり知られていない話だが、ルペンの腹心であるブルノー・ゴルニッシュ(Bruno Gollnisch)は日本の京都大学に留学した経験があり、日本人の妻を持ち日本語を流暢に話す。ルペンの妻はギリシア人であるから、彼らは「だから、私たちは人種主義者ではない」と広言する。
反共、反社会主義を掲げてきたルペン政策の基本は「移民排斥」にある。高い失業率に悩まされ北アフリカからの移民が増えるフランスでは、国民戦線の排他的な政策は耳あたりがよいようで、世論調査では常に10〜15%の支持率を獲得しており(日本でいえば、民主党程度の支持率を獲得している)、フランス国内ではいくつかの都市で国民戦線出身の首長が誕生している。
ルペンが世界に与えた最大のショックは、2002年のフランス大統領選挙の決選投票に進んだことだ。フランスの大統領選挙では、第一回投票で過半数を獲得する候補者がいなかった場合、上位二位で決選投票を行う。当時は保守派のシラク大統領と、社会党のジョスパン首相が有力候補と見られており、両氏が決選投票に進むことは確実視されていた。有権者の中には、第一回目の投票は結果が決まったようなものだから、決選投票のみ投票所に向かえばよい……とノー天気に構えていた人もいたそうだ。
ところが、蓋をあけてみれば、シラクに次いで票を獲得したのはルペン。他の左翼系候補に票を奪われたとはいうものの、ジョスパンはまさかの第一回投票での落選決定、政界引退をすぐに表明した(その後、政界復帰して現在は活動を続けている)。フランス人のみならず世界に衝撃を与え、世には「ルペン・ショック」と呼ばれている。欧州統合と移民問題の顕在化により欧州では極右勢力が伸長している、その象徴的な出来事として、論ぜられることが多い。
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