2005-12-21

【エッセイ】夢から覚めた血塗れの天使たち

こういう経験をしたことはないだろうか。

渋谷駅ハチ公口前の交差点で、行き交う車を前にして、赤信号がグリーンに近い青色に変わるまで待つ。そこにはたくさんの人々がいる。リクルート・スーツのような上下を身にまとった男性何人かが笑いながら談笑していたり、明るい栗色に髪を染めた女性がケータイを右耳にあてて話しかけている。といっても、あまりにもたくさんの人がいるから、その場にいるひとりひとりが何をやっているのか、どんなことをやっているのか、全部確認することなど不可能だ。

走り行く車の騒音とビル丈夫に取り付けられた巨大スクリーンから流れる音響、量販店のアナウンスがその空間で調和することなく響きあっている。イチゴジャムとマヨネーズと豆板醤とワサビを混ぜあわせ、ドクター中松が発明した変換ソフトウェアでそれを音質に変えたらこれぐらい調和のない音になるのだろう……と思えるくらいに協調(ハーモニー)とは無縁な音が辺りを包む。

耳を塞ぎたくなるような騒音に覆われ、多くの知らない群衆がいるなかで、何故か一人の人にだけ焦点がいってしまう……、そんな経験だ。

そのときおそらく世界はふだんと違って見えている。その男性/女性だけが色をもっておりまわりの人はモノクロになっている、まるで画像変換ソフトで背景をグレースケールにして、目的の被写体のみに色彩が残されたように。

あるいは、周りの人は静止画のようにとまっているけれど、その人だけは時の流れにあわせて動いている。停止した世界の中で動いているのは私とその人だけであり、あとは景色に過ぎない。「Moi et Toi」であり、あとは「Tous les autres」だ。

それはほんの一瞬のことだ。静止画のようにとまった時間のネジはすぐに回り始める。世界は何も変わってはいない。時間泥棒が紛れ込んで誰かの時(とき)を盗んでいったわけでもない。軽い目眩だったのかな……と思い歩き始める。変わらない日常がその後も続く。

それは10月22日(土)のことだった。『Rainbow Attitude』の会場に私はいた。

これから始まるパリ・コレクション・ゲイ・レズビアン版を前にして、私はステージの先端に行き、写真を撮るための場所を確保した。全マニュアル式の愛用ニコマート二台にフィルムをつめ、カメラを構えて舞台のほうにレンズを向け光量を把握した。

高名なデザイナーが演出して、有名ブランドの服飾にモデルが身を包み、ピーコのフランス版といった感じの著名でfemaleな黒人の服飾評論家が見学に来るショーだけあって、テレビカメラがまわり雑誌カメラマンがステージの周りに集まった。それまでは閑散としていたのに、どこから来たのか、500人は越えるであろう一般の人々が集まった。椅子が置かれていないため皆そこかしこに地べたのまますわり、足の踏み場がない。そのまわりを立ち見の見物客が囲む。まるで人間カーテンだ。

50mmレンズのカメラと18mmレンズのカメラにそれぞれフィルムを入れた。
カメラ機材の入ったカバンを足下に置いてから、私はふと、右斜めに視線を送った。

縮毛矯正をかけたんじゃないか……というくらいにピンと伸びた長い黒髪の、10代後半か20代になったばかりぐらいの白人女性が、モデルのように精錬した美しさをもつスキンヘッドの、ブラッド・ピットのような野性的なセクシーさを持ち合わせた白人男性と、パウエル前国務長官のような茶色がかった肌を持つ荒々しい美しさの男性と一緒にいるのが視界に入った。ファインダーの中心に彼女がおさまりピンとあったような錯覚にとらわれた。

失礼な言い方だけど、とびっきりの美人……という感じではない。
遠目から見てもわかる愛らしい二重まぶただった。
彼女は歯並びのいい前歯を見せて何度も笑う。真っ白のきれいな歯をしている。
でも、少しデフォルメしていうと、天才バカボンのイヤミのように歯がすこし出ている。でも、それがまたチャーミングに思えた。

彼女の微笑みに釘付けになり、ぼーとつっ立ったまま、ずっと視線をおくった。
席を移動するのか立ち上がったとき、彼女の背中に目がいった。
首と腰に紐をかけた服を着た彼女の背中は裸同然である。テレビでパリコレクションをながめていたら突然モデルの女性が飛び出して私の目の前に現れたんじゃないか、と思えてしまうくらいに、美しく くびれた背中だった。そして、とりたてのモモのような豊かな胸をしている。筋骨隆々な男性の背中を美しく思うことはこれまでに何度もあったけれど、女性の背中に見とれる、恍惚としてしまうということはこれがはじめての体験だった。彼女たちは舞台の真下に移動して、地べたにこしかけた。開始をまって、顔をあげて微笑む彼女の笑顔を見ていると、ボールの中に入れられた長方形のバターの固まりが平温のまま放置され少しずつ溶けてボールの底に白っぽい液体となっていくように、心が少しずつメルトダウンしていくような錯覚にとらわれた。

ファッションショーが始まると50mmレンズと18mmレンズをつけた二台のカメラをもち、それを交互に遣いながらシャッターを押し続けた。写真を撮るときはそのことにのみ集中する。だから、彼女がどんな顔でショーを見ていたのか、その場に居続けたのか、途中、退席したのかもわからない。無心になって必死に写真を撮り続けた。

ショーが終わると、ステージの周りに集まっていた人々はそれぞれ自らが目指す方角へと散っていった。ふと彼女のほうに目をやると、隣にいる男の子ふたりとともに立ち上がり、これからまさに去ろうとするところだった。なんだか少し気恥ずかしかったけど、そのあとに取材する予定は入っていなかったから、私はそのあとについていってみた。男の子一人は途中でいなくなり、女性と男の子が仲良く手をつなぎながら、歩いていく。ひとつひとつのブースをゆっくりながめながら。映画のワンシーンを見ているような心持ちになった。まるで学校の帰りにてをつなぎながら帰る中学生カップルのようだ。ときおり見つめ合い微笑む。同じ息づかいというのだろうか、呼吸がぴったりというのだろうか、その日の会場はふたりのためだけに存在しているんじゃないか、そんな気になった。

翌日、欧州ゲイサロンで「レインボー・ファッション・スクール」(虹の服飾学校)がおこなわるというので、わたしはステージの前にいた。ニューヨークやロンドンをはじめ、世界の代表的な服飾学校から選抜された学生・専門学校生が自らの服飾を紹介するのだという。

若さにみちた学生が男女のモデルになって、全身が光が放たれるているかのようにまばゆく美しい服飾に身を包み登場する。大勢の観客を前にしてなのだろう、少し緊張した面もちで出てくる人もいて、それが可愛らしく思えた。

カメラをかまえていて、アッと思った。昨日、見た女性が黒いドレスに身を包み、鞭を持って出てきたのだ。笑顔がとても眩しかった。満面の笑みで鞭を一打ちする。神々しく思えた。わたしはシャッターを押すのを忘れ、ただ呆然とそれを眺めたのだった。