2005-10-24

レズビアンとの対話

100人予約が集まれば出版されるという予約投票プロジェクトに出した拙著『PHOTOエッセイ Gay @ Paris』、予約者がまた停滞していますので、まだ申し込んでいない人、おもしろいと思えばぜひ御予約ください。企画書もサンプル原稿もこちらにのっています。今年中に予約が集まらないと、企画倒れに終わる可能性が大です。

「オイカワの挑戦に力を!」


閑話休題。

10月22日(土)21時過ぎ、Porte de Versailles駅の目の前にあるイベント会場で開かれた欧州ゲイサロン『Rainbow Attitude』を取材し終えて私はバスに乗った。

バスが走り出してから10分ほどしたころであろうか、50代に達しているであろう白人女性が筒状になっているポスターを開きだした。ポスターには男性の裸体がうつされ、皮の被った男性器がモザイクもなしに晒されている。女性三人はそれを見ながらあれこれ話している。

「それ、私も持っていますよ」

と私は話しかけた。そして、カバンから同じポスターを取り出した。
彼女たちが持っているのと同じものを、欧州ゲイサロンに出された国内最大のHIV系市民団体『AIDES』のテナントで私ももらっていたのだ。

ポルノの広告ではなく、それはHIVの啓蒙を促すものだ。

(ポスターを見たい人はこちらから。転載したら刑法上の「わいせつ」になってしまうのでご注意ください。「セクハラ」だと訴えられるかもしれませんし。文化の違いですね)

そこにはこう書かれている。

「身を守る人すべてに この夏 祝福あれ」

 ゴムをつけてセックスする人には祝福がある……ということをいわんとしているのだろう。
 「AIDE」という語はフランス語では「手助け/援助」を意味する。「AIDES」はその複数形だ。また、フランス語では「手助けをする」「助ける」という動詞はAIDERという。Aidesという語は動詞aidesの活用でもあり、「手助けしなさい」という意味の命令形だ。

市民団体『AIDES』は「AIDS」(=SIDA)に取り組む団体であり、啓蒙を「AIDES」(=手助け)しHIV感染者やAIDS発症者を助けている。

「それはどこでもらったんですか」
「Rainbow Attitudeでですよ」
「私は日本人ジャーナリストです。昨日も今日も一日、取材をしていました。とても楽しいですね。みなさんはなんで参加したのですか」

三人は互いの顔をみて、一人が切り出した。

「なんでって、私たちが同性愛者だからよ。レズビアン。分かる?」
「フランスの同性愛文化/事情に関してこれまで記事を書いてきたんですよ、日本の雑誌で。フランスはとても好きです。寛容ですから」
「そんなことないって、まだまだよ」
「でも、日本に比べたら遙かに進んでいると思いますよ」
「そりゃ、日本に比べたら、そうでしょうけど」
「そうよ、日本は閉じているもの。日本にはRainbow Attitudeみたいなイベントはあるの?」
「いやまったくありません。ところで、今年ゲイ・パレードに参加したのですけど、すごい人数で驚きました。ゲイ・レズビアンの天国ですね」
「でもね、昔はもっと少なかったのよ。75年にパリで最初にパレードがあったんじゃなかったんかしら。たしか100人にも満たなかったと思うけど」
「日本も今年ゲイパレードがあったんですけど、3000人ぐらいでした。それに比べると、パリのはすごいなあ」
「3000人。たいした数じゃないですか。パリだって長い年月をかけて大きくなったんだから、これからですよ、これから」

 他にも乗客がいるというのに大きな声(わしは声がでかいもんで)で、ゲイ・レズビアン話を続けた。近くにいた客も遠くにいる客もこちらをじろじろ見たりするわけではない。レズビアン女性の一人が云った。

「でも素敵だと思わない?バスの中でこうやってレズビアンの話やゲイの話ができることって」
「日本だったら考えられませんね。フランスではゲイに比べてレズビアンのほうがカミングアウトしづらいということはありませんか」
「それはあるかもしれませんよ。でも、私はみーんなに話していますよ、私は女が好きだって。それが私の生き方ですもの。そうやって生きることって気持ちいいですよ」

 三人が恋人なのかそれともただのお友だちなのか野暮なことは尋ねなかった。でも、三人とも最寄り駅は同じだという。三人で同居しているのかな……なんて考えていたら、私の目的地についてしまった。メールアドレスを聞きだして私は降りた。

「たのしかったです。おやすみなさい」

と手をふって私は降りた。

バスを降り、RER-B線の電車をプラットホームで待っていると、映画『Dr. Kinsey』に出てきた高齢のレズビアン女性の話が思い出された。

23年間結婚生活をつづけた彼女には3人のできた子どもがいる。一番下の子が大学に入り家を出てから、自分の時間ができたためであろうか、芸術系の財団で彼女は働き始めた。そこで一人の女性に会う。彼女は秘書を務めていた。彼女とすぐに親友になれた。しかし、同性だというのに、抑えられない感情を抱いている自分に気がついた。彼女はその友人に恋をしていたのだ。

「キンゼイさん、それがどんなにショックだったかお分かりになるでしょう。無視しようとつとめるほど、その気持ちがつよくなっていきましてね」

男性が男性を、女性が女性を愛することが異常視され、「レズビアン」という言葉など普及していなかったであろう1950年代のこと、彼女は誰にも話すことができなかった。そして、気を紛らわすために飲酒を始める。酒に逃げる彼女のもとを夫が去り、子どもも愛想を尽かして出ていった。夫にも我が子にも自分が抱えている感情を話すことなどできなかったにちがいない。理由もいわず酒に溺れ始めた妻を、母を、父・子が見捨てるのは当然のことかもしれない。彼女はふさぎ込み、一日中、家に閉じこもった。

キンゼイは打明話を聞いて、
「アナタの話は社会が何ら変わっていないことをよく示していますね」
と相槌をうつ。

「何をおっしゃっているんですか。以前にくらべたらはるかによくなったじゃないですか。」

 彼女はそう反論をする。

「そうですか、何かありましたか?」と尋ねるキンゼイに彼女は落ち着いた口調でこう語る。

「アナタがなさったことに決まっているじゃないですか。あなたの著書を読んでどれだけ多くの人が私と同じ境遇にあるのか知り、彼女に私の気持ちを伝える勇気をえました。私にとってたいへんな驚きだったのですが、その気持ちを分かち合うと彼女はいうんです。それから三年、私たちは幸せをともにしています」

彼女は席を立ちキンゼイに近づき、その手をとり微笑みかける。

「キンゼイさん、アナタが私を救ってくれたんですよ」

私がバスであった女性は50代ぐらい。レズビアン・ゲイがパリの町中でキスをしていても、後ろ指さされることなどないいまの時代に比べたら、彼女らが若かった頃はレズビアンとして生きることは困難をともなったことであろう。レズビアンとしていきることにいつから誇りを覚え、公言できるようになったのだろうか。

このエントリへの反応

  1. 初めまして。キンゼイを僕も観たんですが、そのシーンで僕は涙を止めることが出来ませんでした。その当時から今まで多くの活動があったからこそ僕たちのこの社会があって、かつこれからの活動でさらに良い未来を作っていかなければいけないな、と思いました。そういえば僕も、同性と手をつないで街を歩いて緊張しなかったことは一度もありません。