2005-05-19

僕の未熟

a017.jpg沢辺さんに僕の文章について意見をいただいた。もっと具体的に結論をはっきり書け、と。美しい文章で自分の無知を隠すな、と。タイトルは何なのか。何が言いたくて書いているのか。沢辺さんは、自分の今の考えがどんなに子供っぽかろうとそれをさらけだして、そこにくる批判や意見にたちむかわなければならない、と言った。僕の未熟を正面から指摘された。認めたくないけれど、僕のどこか強がっていて自分を美化しようとしていた姿勢もちゃんと沢辺さんには見えていたのだと思う。文章にするということは読み手がいるわけで、沢辺さんは「他人に理解されるために書くのだ」というようなことを言っていたけれど、僕にはそれがあまりよくわからなかった。自分にとって、今まで文章は自分のためだけのものだった。そして、これからもそういうものであり続けるはずだった。自分を映し出すリアル。誰のためでもない、誰に認められるでもない自分だけの空間。主観だけの空間。文章は、僕だけの、僕だけが書ける、僕だけが理解できるものだと思っていた。どんな精神的オナニー日記でも文章が美しければ読者はついてくると思っていた。でも僕はそれが永遠に続くものではない、ということを心のどこかでわかっていたのかもしれない。「読者を意識して書いていると自分の文が媚びているようになって自分らしい文ではなくなってしまうんです」と言うと、媚びるか媚びないかを気にして発表できない文章など中身の薄い文章だ、と返された。本当に死ぬほど伝えたいことだったら、文体のくささやうるささなど気にならないというわけだ。まずはそれを発表したい、伝えたい、という思いが先だということだ。思えば、最近誰かに何かを伝えたくて文章を書くということが全くなかった。物書きそのものを愛しすぎて、物書きそのものがあまりに日常的なことになりすぎて、文章の本来の意義というものを見失ってしまったのかもしれなかった。僕は、文章に記すために日々の行動を変化させることすらあるのだ。文学的好奇心が人生のファーストプライオリティー。何よりも文の美しさと自分の理想を一番に優先してしまったことからきた矛盾だった。今まで書いてきた文章を思い起こすと、僕が本当に伝えたくて書いた、魂の叫びとも言うべき記事たちは、文の美しさなどまったく意識せずに書いていたのに常に多くの共感と高い評価を得てきた。沢辺さんに、19歳だからしょうがない、と言われ滅茶苦茶悔しかった。年齢で中身を判断されるのは大嫌いなのだ。子供みたいな大人だって、この世にごまんといる。大人みたいな子供が沢山いると同じように。年をとっていればとっているほど、世の中がきちんと見えるというわけではないと思う。きっと沢辺さんをうならせる文章を書いてやろう、と思った。沢辺さんに言われて、自分の文章について今までまったく見えていなかった改善策が少しだけわかった気がした。