2004-11-08
プラハとソウルでの公演
武藤大祐様
お久しぶりです。
少しバタバタしていましてお返事遅れました。
日頃、文章を書き慣れていないので、この一ヶ月、ダンス創作の為の脳は起動していたのですが、書く為の脳はフリーズした状態で再起動するまで時間がかかりました。申し訳ありません。
改めて、無事プラハ、ソウルから戻りました。
プラハは私達にとって始めての土地でした。噂通りとても美しい街で、そしてビールが美味しかったです。
ただ、あまりに街並が奇麗に整い過ぎていた為、滞在後半はその美しさが故に少しイミテーションっぽく感じられ、何だか変な気持になりました。
それと空港に降り立った時に感じたのですが、空が日本の空とは違うのです。
簡単な言葉で言うと“暗い”と感じるのです。キェシロフスキー監督(彼はポーランド人ですが)の映画で見受けられる、空そのものでした。
映画を見ていた時は、てっきりフィルムや撮影の明かりのせいだと思っていたのですが、実際、暗かったです。
日本より緯度が高いので太陽の当る角度も違う為、当然と言えば当然なのでしょうが、今まで訪れた国々からは感じた事の無い新鮮な感覚でした。きっと、その“暗さ”がカフカを生んだのでしょう。
少し思い込みが過ぎるかもしれませんが、『変身』や『審判』の空気はその街並から感じられましたよ。
気候と風土は身体に大きな影響を及ぼすのですね。
プラハでの上演は最近オープンした美術中心のアートセンターで、その地下のギャラリ−でダンスを行いました。
始めて公演を行う国ではいつも不安感で一杯です。しかし、今回はそれに加え場所が劇場でなくギャラリーであった事や、来られるお客さんの層も美術畑中心のお客さんが多いと予想された事から、我々の作品がどのように見え、そして、どう感じてもらえるか、いつも以上に心配でした。
しかし、開いてみると私が思った以上にお客さんの集中力が強く、最後まで途切れず保ったように感じました。
終演後のカーテンコールも強い拍手を頂き、喜んでもらえたのではと思っています。
プラハの空のように、何となく曖昧な我々の作品をチェコの人々は違和感無く受け入れてくれたのでしょうか? そうであったら嬉しいのですが。
ちなみに私達を呼んでくれたコーディネーターが下記のサイトに滞在の模様を簡単に紹介してくれています。宜しければ覗いてみて下さい。
http://www.nhk.or.jp/dig/essay/arai/0060.html
一方、ソウルはちゃんとした劇場で上演し、S,I,danceというダンスフェスティバルに参加させて頂きました。
韓国のお客さんの反応はというと……プラハに比べると終演後の反応はもう一つな感じがしました。
しかし、制作の橋本に確認してみたところ、ひいき目でなく彼の目には我々のパフォーマンスは悪くなかった、というより、むしろ良い部類の出来だったそうです。
ただ、お客さんがどう反応したら良いのかという戸惑い感は確かに感じられたようです。
セリフを多用し、しかも派手でない我々のダンスは、キムチの国のお客さんにはパンチが足りなかったのかもしれません。
さて、今回の「ダンスと鏡」も面白く読ませて頂きました。
黒沢さんの踊り、是非拝見したいものです。大阪には何度か来られているのですが、残念な事に私はまだ黒沢さんの踊りを観る機会に恵まれず、拝見した事が無いのです。
それにしても、武藤さんが仰っているような事が起きているのだとしたらそれは大変興味があります。
彼女に翻弄される様も書かれていましたが、それは彼女が自分自身の身体に対しても同様な行為をしているような気がしました。
きっと、身体の細部に渡って客観視出来る程に身体が利く方で、尚かつぎりぎりの状態で踊っているのでしょうね。でなければ、そのような状態は作れないし、また、合わせ鏡の状態にもなかなかなれないと思います。
「ダンスには国境が無いから素晴らしい」と言い切れない感覚、同感です。
海外で上演する機会が出来たここ2年、特にそれは感じます。
ダンスは確かに演劇より言葉が無い分(我々の舞台には音源としてよく言葉を用いていますが)、舞台に集中してもらい易いと言えるかもしれません。そしてダンスには武藤さんが仰っている「裸」の領域に触れる事で何か根本的な“リアル”を感じるものだとも思います。
ただ、直接身体と身体のぶつかり合いだからこそ、ストレートに感じあえると同時にそこにどうしようもなく分かり合えない何かを感じる事も事実です。
それは多分、人間であるとか、生き物であるとか、そういった根本的なリアルな感覚に遭遇すると、人間同士のどうしようもない隔絶感であるとか、決して踏み込む事の出来ない個人個人の何か、そういったものが突きつけられるのかもしれません。
そう思った時、ダンスをしたり、観たりするってことは自分や他人の本質的なところと対峙する事だったりもするので、時に非常に危険な行為だったりするなと感じますよ。
武藤さんは「乗り越えられることでかえって見えなくなる。あるいは何も乗り越えられていない事が明らかになるような気がしてならない」とも述べられています。私も踊る事で何か感じたいのに、何も感じる事が出来ていないのではないか、或はそのどうしようもない隔絶感がある中、踊る事など何も無いのではないかと不安を感じたりもします。
それは、もちろん寺田と踊っている時も例外ではありません。デュオという形態を成している以上、私達は常にその不安と直面しています。
お互いが“鏡”を持ってお互いを映し合ったり、自らが覗き込んでみたりを繰り返し行っているのですからね。
ただ、身体を通すからこそ感じてしまうアンビヴァレントな感情、その不安を取り除く為に身体を麻痺させたいとは思いません。それを抱え続ける事は時に苦痛ではありますが、そこにしか希望を見いだせないというのも、今のところの実感ではあります。
それにしても、今回のやり取りを通して、このアンビヴァレントな感情に対して、他の作家さん達はどのようにして取り組んでおられるのか、とても興味が出てきました。
振付家のみならず演劇人も含め、知っている範囲で教えて頂ければ有難いです。
京都の朝晩はだいぶ冷え込み、東山の木々も、日に日に紅葉へと移ろいできています。
季節の変わり目、秋の夜長を楽しみながらも、お身体には十分とご自愛下さいませ。
それでは。
2004年11月6日
砂連尾 理
アンビヴァレントな感情への対し方
【読みもの】ダンス的思考 プラハとソウルでの公演●スタジオ・ポット/ポット出版を読んだ。砂連尾さんがいう「アンビヴァレントな感情」とか「不安」といったものが僕には、問題…
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