2004-10-18

ダンスと鏡

砂連尾理 様

 少し間が空いてしまいました。もうすっかり秋も深まってきましたが、プラハとソウルでの公演はいかがでしたか。『あしたはきっと晴れるでしょ』は、単に体や動きを見せるだけでなく、感情にもやわらかく、しかしはっきりと訴えかけてくる作品だから、きっと色々な受け止め方がされたんじゃないかと思います。

 ぼくも最近は外国でダンスを見る機会が時々あるんですが、その度に、その土地ごとの劇場の雰囲気に馴染めずにいながら、いざダンスが始まるとほとんど何の抵抗もなく舞台に集中できてしまうことに軽い衝撃を受けます。演劇だったらこうはいきませんが、ダンスには少なくとも言語の壁がないので、そのまま受け止めることができてしまう。しかしそこで「ダンスには国境がないから素晴らしい」と言い切ってしまう気にもなれないんです。言葉が通じないかもしれない相手とこうも簡単に関係を結べてしまうのだろうかと、当惑せずにはいられないからです。もちろん本当は、東京の劇場でも京都の劇場でも同じことが起こっているのでしょうが、外国にいる時には一際強調されて感じられるのだと思います。

 ダンスを見ていて、不意に舞台上のダンサーが「裸だなあ」と思うことがあります。彼/彼女がこちらに見せていることを意識し切れていない部分、わかりやすくいえば、とりたてて動きの表現に関わっていない時の背中や肩とか、視線が向いているのとは反対側の半身とか、ダンサーの背後の空間、あるいは彼/彼女が身体のコントロールを他の諸条件(重力や遠心力、床や壁、装置、衣装、照明、音楽、他のダンサーの身体)に委ねたり明け渡す動き、例えばこういうものがあられもなく見える瞬間、何か唐突に、自分とダンサーの関係が過剰なものになる気がします。

 ダンスというのは、さしあたっては体が体自体とコミュニケートするところに成り立つのだから、踊る身体は常に分裂を孕んでいると思います。主体的な部分と客体的な部分、能動的な部分と受動的な部分という風に、踊り手がどう感じているかは別にしても、少なくとも観客の目にとっては、ダンサーの体は幾重もの層をなしている。だから、どうしたって論理的に半分は何か普通には見てはいけないものを見るということにならざるをえないし、そもそも見ていいものだけ見(せ)るような踊りでは面白くないと思います。

 前回、砂連尾さんは、寺田さんと出会ってバレエに憧れるようになり、しかしそこからむしろ(テクニックや規範ではなく)自分の体そのものの「内的な感覚のリアルさ」へ向かっていったと書かれていました。つまり自分の体を意識するには、まず人の体を見ることが必要なんだと思います。これはまさに、人がダンスを見る時に起こっていることでもあります。先日図書館でダンスの棚を見ていたら、ピエール・ルジャンドルという人の『La passion d’etre un autre: Etude pour la danse(他者であることへの情熱——ダンスのための研究)』という本を見つけました。ルジャンドルは近年日本にもよく紹介されているラカン派の精神分析および法制史の研究者ですが(現在、翻訳は『ドグマ人類学総説』『ロルティ伍長の犯罪』など三冊)、こんなダンス論も書いているんですね。初版は1978年。まだパラパラとしか目を通していないんですが、何よりタイトルが面白い。ダンスを、「他者でありたい」という感情の側面から考えるということです。魅力的なダンスを見ると、そのダンサーに憧れる。というよりむしろ、そのダンサーになりたいと思うより先にそのダンサーの体に同一化して動きを味わいます。しかしそれと同時に、自分がそのダンサーではないこと、別の体であることも意識される。すると自分の体が、まさしく「自分そのもの」ではない未知の「他者」、自分とは別のもう一人の自分(対象化された自己)として現われてくることになります。つまり、ある特定の「他者」になろうと欲した瞬間、自分が得体の知れない「他者」に「なる」わけです。ルジャンドルの付けたタイトルはこの入り組んだメカニズムをよく表現しているように思います(書物の趣旨と噛み合っているかどうかはわかりませんが)。

 実際に踊っている人は、観客のことをどう受け止めるものなんでしょうか。砂連尾さんの場合は、寺田さんとのデュオなので事情がさらに複雑かもしれないですが、観客とがっぷり四つに組むダンスということでぼくがすぐに思い浮かべるのは、黒沢美香さんのソロです。おそろしいほど客席の空気を読み、先回りさえして、こちらの体を翻弄してきます。彼女の足の裏や、目線の先に意識がグッと引き付けられたかと思うと、いきなりパッと離される。あるいは、何かを待つ状態にいつの間にか持ち込まれ、そのまま果てしなく延々と待たされ続ける。待つことに慣れ、安心して、飽き始めたちょうどその瞬間に次のストロークが打ち込まれて来たりします。惹きつけては裏切る、この繰り返しのプロセスが見事で、ぼくの知人は「催眠商法」に近いとさえ言っていました(笑)。「あの状況で羽毛布団を出されたら即座に全員手を挙げただろう」と。どうしてこんなことができるのかはわかりませんが、しかし一つ明らかなことは、黒沢さんの踊りを見ていると、彼女が持っている鏡に自分の顔が映っているのが見える、ということです。黒沢さんの体と自分の体が合わせ鏡のようになり、いくら覗き込んでも無限に奥へ続いている。単なるナルシズムとは違うし、ダンサーと観客の馴れ合い的に閉じた関係とも違います。観客がただ鏡を見ているのではなく、自分も鏡になってダンサーを映し出しているから、合わせ鏡になるんでしょう。それを果てしなく遠くまで覗き込むのは恐ろしいことでもあって、独特の緊張感があります。これもダンスの醍醐味の一つだと思います。

 そしてこの合わせ鏡は、先に書いたダンサーの「裸」の領域と、そうでない領域とにまたがって立っていながら、とりわけ「裸」の領域に根拠をもっている気がします。例えば「人間」であることとか、「生き物」であることなどといった、何か根本的な条件がこのコミュニケーションを支えている。だから国籍が違おうが、文化が違おうが、生身と生身でぶつかり合えば何かしら関係が結ばれる。そこに魅力を感じると同時に、何ともいえない不安、寄る辺なさのようなものも感じます。例えば英語ならばどこの国の人ともある程度は話が通じてしまうという時の、あるいはインターネットならばどこに住んでいる人とも直接連絡が取れてしまうという時の、あのアンビヴァレントな感情に似ています。何かがそこで乗り越えられつつ、乗り越えられることでかえって見えなくなる、あるいは何も乗り越えられていないということが明らかになるような気がしてならないのです。

 どうも迷いながらまとまりなく書いてしまいました。正直にいって、何が不安なのかも、そもそも本当に不安を抱くべきなのかどうかもよくわかりません。ただとりあえず、このアンビヴァレントな感情を手放さないようにしておくべきなのだろうと思います。ぼくはまだプラハにもソウルにも行ったことがなく、『あしたはきっと晴れるでしょ』にどんな観客がどんな反応を返してくれたのか、非常に興味があります。実際に踊られてみて、砂連尾さんが得た手応えのようなものについて、聞かせて頂ければと思います。

2004年10月16日

武藤大祐 拝